第55話 寄付者向け報告書と、望まぬ縁談
王妃基金監査補佐官としての最初の朝、セレスティアは任命状を机の引き出しにしまった。
飾らない。
持ち歩かない。
何度も開いて眺めない。
そう決めていた。
任命状は誇るためだけの紙ではない。
今日から始まる仕事の根拠であり、同時に自分の職務範囲を守るための紙でもある。
だから、必要な時に取り出せる場所に置く。
それが、今のセレスティアにはいちばん落ち着いた。
机の上には、さっそく新しい白紙が置かれている。
『寄付者向け概要報告書制度案』
王妃基金監査補佐官としての初仕事だった。
返還金再配分報告書は、支援先や社交界に思った以上の反応を生んだ。
では、今後の寄付についても同じように報告できないか。
誰がいくら出したかを競うのではなく、寄付が何に使われ、どこへ届き、どのような結果になったのかを分かりやすく示せないか。
それが、新しい課題だった。
セレスティアはペンを取った。
『目的:寄付者が王妃基金の支援目的と使途を理解し、寄付が社交的名誉ではなく実際の支援につながることを確認できるようにする』
書いて、少しだけ眉を寄せる。
硬い。
だが、最初はこれでよい。
そこへ、ミリアが書類束を抱えて入ってきた。
「おはようございます、セレスティア様……ではなく、王妃基金監査補佐官」
妙に改まった声だった。
セレスティアは顔を上げる。
「ミリア、今後も普段通りで構いません」
「でも、正式任命後初日ですので」
「初日だからこそ、普段通りお願いします」
「分かりました。では、セレスティア様」
ミリアは少し笑って、書類を置いた。
「寄付者向け概要報告書の過去資料です。もっとも、これまで正式な概要報告書はありませんので、寄付礼状、茶会案内状、基金年次報告、支援先記録を集めています」
「ありがとうございます」
セレスティアは束をめくった。
礼状は美しい。
どれも丁寧で、寄付者への感謝が並んでいる。
『貴家のご厚志に深く感謝申し上げます』
『王妃基金の活動に大きく資するものと存じます』
『慈善の精神を広く示すご芳志』
言葉は立派だ。
けれど、肝心の使途がほとんど見えない。
どの支援先へ行ったのか。
どんな品になったのか。
いつ届いたのか。
不足は解消されたのか。
それがない。
「礼はあるのに、行き先がありませんね」
セレスティアが呟くと、ミリアが頷いた。
「寄付者の方々も、それで満足されていたのかもしれません」
「満足していた、というより……聞いてはいけない空気があったのでしょう」
「使途を聞くと、信頼していないように見えるからですか」
「はい。でも、信頼とは確認しないことではありません」
セレスティアは、白紙へ新しい項目を書いた。
『寄付者向け報告書は、感謝状と使途報告を分ける』
ミリアが覗き込む。
「分けるのですか」
「はい。感謝状は礼儀として必要です。ただ、それだけでは寄付が社交的な名誉で終わります。使途報告は別紙で、具体的に」
「なるほど」
「ただし、寄付者が使途を細かく支配しすぎないようにしなければなりません」
そこへ、開いた扉からカインの声がした。
「いい視点だ」
セレスティアとミリアが顔を上げる。
カインは、いつものように無駄のない足取りで入ってきた。
「寄付者が金を出し、王妃基金が顔色をうかがう形になれば本末転倒だ」
「はい。ですから、寄付者の希望欄は設けても、最終配分権は基金側に残すべきです」
「文言にしろ」
「はい」
セレスティアは書いた。
『寄付者は支援分野の希望を示すことができる。ただし、最終的な配分は王妃基金の審査に基づき決定し、特定個人・特定家門の名誉宣伝を目的とした使途指定は認めない』
カインが頷く。
「強いが必要だ」
「社交界から反発が出るでしょうか」
「出る」
即答だった。
「出るのですね」
「寄付を名誉の証として使ってきた者ほど嫌がる」
ミリアが少し不安そうに言う。
「では、言い方を柔らかくしますか」
セレスティアは少し考えた。
「概要版では柔らかくします。でも、規程案ではこのままにします」
カインの目が少しだけ細くなる。
「分けられているな」
「はい。最近、少し慣れてきました」
「いい」
その短い評価に、セレスティアは少しだけ背筋を伸ばした。
監査補佐官としての初日。
まだ慣れない。
だが、仕事は始まっている。
午前のうちに、寄付者向け概要報告書の骨子は五項目になった。
一、感謝状と使途報告を分ける。
二、寄付者は支援分野の希望を示せるが、最終配分は基金側が決める。
三、使途報告には支援先、品目、時期、目的、実施後確認を記載する。
四、支援先の事情により秘匿が必要な場合は、概要範囲を調整する。
五、寄付者名の公表は本人同意制とし、支援先の尊厳を損なう宣伝を禁じる。
五つ目を書いたとき、ミリアが首を傾げた。
「支援先の尊厳を損なう宣伝、ですか」
「はい。たとえば、寄付者が『我が家の慈悲により救われた哀れな孤児たち』のような書き方をすることは避けるべきです」
ミリアが顔をしかめた。
「ありそうです」
「あります」
セレスティアは断言した。
「支援は、受ける側を飾りにするものではありません」
カインが静かに言った。
「王妃が聞いたら喜ぶだろうな」
セレスティアは、少しだけ手を止めた。
王妃。
その名を聞くと、まだ胸の奥が静かに震える。
「喜んでいただけるでしょうか」
「少なくとも、つまらん見栄のために孤児院の名を使う者は叱っただろう」
セレスティアは思わず小さく笑った。
「王妃陛下が、ですか」
「そういう方だった」
「なら、この項目は残します」
「残せ」
そのやり取りを、ミリアが少し嬉しそうに記録していた。
昼過ぎ、ローゼン侯爵夫人が宰相府を訪れた。
もちろん、偶然ではない。
寄付者向け報告書制度案について、社交界側の反応を聞くためにカインが呼んだのだ。
夫人は骨子案を読み、すぐに扇を閉じた。
「荒れますわね」
第一声がそれだった。
セレスティアは、もう少し婉曲な反応を期待していた自分を反省した。
「やはり、そう思われますか」
「ええ。特に『支援分野の希望は示せるが、最終配分は基金側』というところ。大口寄付者ほど嫌がります」
「自分で使途を指定したいからですか」
「それもあります。ですが、もっと単純に言えば、自分の寄付が目立つ場所へ使われてほしいのです」
「目立つ場所」
「茶会で紹介される品、社交界で話題になる支援、王族の耳に入る寄付。そういうものです」
ローゼン侯爵夫人は、少しだけ声を冷やした。
「人は善意すら、飾りにしたがります」
セレスティアは、静かに頷いた。
分かっていた。
でも、社交界を知る夫人の口から聞くと重い。
「では、この制度は通りにくいでしょうか」
「いいえ。むしろ今だから通せます」
「今だから?」
「返還金再配分報告書第一号が効いています。あれで、寄付や支援の行き先を見ることが『よいこと』になり始めました」
夫人は、骨子案を指で軽く叩く。
「流れがあるうちに制度へ落としなさい。社交界はすぐ飽きます」
容赦がない。
だが、その通りだった。
ローゼン侯爵夫人は続けた。
「ただし、概要版には一文入れなさい」
「どのような?」
「『寄付者の善意をより確実に必要な場所へ届けるため』です」
セレスティアは考えた。
「少し柔らかいですね」
「柔らかさは毒消しです。規程本文では厳しく、概要版では受け取りやすく。あなた、最近その分け方を覚えたのでしょう?」
セレスティアは苦笑した。
「はい。覚え始めました」
「よろしい」
そこで、ローゼン侯爵夫人は少し表情を変えた。
「それと、別件です」
セレスティアは嫌な予感がした。
最近、この「別件」はたいてい厄介だ。
「何でしょうか」
「縁談が来始めています」
ミリアが、持っていた紙を落としかけた。
セレスティアは、目を瞬かせる。
「……縁談、ですか」
「ええ。あなたに」
分かっている。
分かっているが、聞き返したくなった。
「なぜ今」
ローゼン侯爵夫人は、むしろ当然という顔をした。
「正式役職、王妃基金、宰相府預かり、公爵令嬢、王太子殿下の元婚約者。さらに社交界の同情と再評価。縁談としては、非常に価値が上がっています」
「商品説明のように言わないでください」
「社交界の縁談は、半分商品取引です」
セレスティアは深く息を吐いた。
カインの眉が、わずかに動いた。
「どこからだ」
声が低い。
ローゼン侯爵夫人は、扇の陰でほんの少し目を細めた。
「南部の伯爵家、王都の侯爵家分家、それから財務卿筋の遠縁。まだ正式申し込みではなく、打診です」
「政治利用か」
「ほぼ」
夫人はあっさり言った。
「王妃基金監査補佐官になったセレスティア様と縁を結べば、王妃基金や宰相府に近づけると考える家は出ます」
セレスティアは、任命状を受け取った時の重さを思い出した。
仕事に名前がついた。
その喜びのすぐ後に、今度はその名前が縁談の価値になる。
社交界は、本当に油断ならない。
「私に、結婚の意思はありません」
セレスティアは言った。
ローゼン侯爵夫人が頷く。
「そう答えると思いました」
「では、お断りを」
「早すぎます」
「なぜですか」
「過剰に断ると、また別の噂になります」
セレスティアは額を押さえたくなった。
「そればかりですね」
「社交界ですから」
ローゼン侯爵夫人は平然としている。
「まずは『現在は王妃基金監査補佐官としての職務を優先する』でよろしい」
カインが即座に言った。
「それで統一しろ」
セレスティアは彼を見る。
「宰相府として、ですか」
「宰相府預かりの役職だ。職務に影響する打診は処理する」
「私的な縁談でも?」
「政治利用の可能性があるなら、公的な影響がある」
ローゼン侯爵夫人が微笑んだ。
「便利な理屈ですわね」
「事実だ」
カインは短く返した。
セレスティアは、少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
守られている。
だが、同時に甘えてはいけないとも思う。
「私からも、同じ文言で返答します」
セレスティアは言った。
「現在は職務を優先する。縁談については検討しない、と」
ローゼン侯爵夫人が頷く。
「よろしい。ただし、感情的に拒絶したように見せないこと」
「難しいですね」
「あなたならできます」
短い励ましだった。
カインも言った。
「君が望まない縁談を受ける必要はない」
セレスティアは、少しだけ息を止めた。
その言葉は、思ったより深く響いた。
かつて、自分の婚約は家と王家の間で決まっていた。
自分もそれを受け入れていた。
当然だと思っていた。
だが今、望まない縁談を受ける必要はないと言われている。
それだけで、胸の奥にあった古い鎖が少し緩む気がした。
「はい」
セレスティアは、静かに答えた。
「受けません」
その日の夕方、リリアナから手紙ではなく本人が来た。
王太子府での講習帰りらしく、手には規程と報告書、そしてなぜか少し怒った顔をしている。
「お姉様」
「どうしました」
「縁談の噂を聞きました」
直球だった。
ミリアがそっと退出しようとしたが、リリアナが「あ、ミリア様はいてください。変なことは言いません」と止めた。
ミリアは困った顔で残った。
セレスティアは、少し笑いそうになる。
「リリアナ、変なことを言う予定がある人は、だいたいそう言います」
「言いません。たぶん」
「たぶん」
リリアナは、真剣な顔で続けた。
「お姉様は、縁談を受けるのですか」
「受けません」
即答すると、リリアナは明らかにほっとした。
「よかった……」
「そんなに心配でしたか」
「はい」
リリアナは、少し俯いた。
「だって、またお姉様が誰かの都合で決められてしまうのではないかと」
セレスティアは、胸が少し痛んだ。
「今回は、自分で断ります」
「本当に?」
「はい」
「お父様が何か言っても?」
「今の父は、少なくとも表向きには口を出せません」
「裏では?」
「出すかもしれません」
「お姉様」
「でも、受けません」
リリアナは、じっと姉を見た。
そして、小さく頷いた。
「では、私も言います」
「何を?」
「お姉様は今、王妃基金監査補佐官の職務を優先されています、と」
セレスティアは少し驚いた。
「あなたも?」
「はい。社交界で聞かれたら、そう言います」
「ありがとう」
「それから……」
リリアナは少し口ごもった。
「宰相閣下との噂について聞かれたら、分からないので答えません、と言います」
ミリアが咳き込んだ。
セレスティアも固まった。
「リリアナ」
「だって、分からないので」
「そうですが」
「でも、お姉様が幸せならよいです」
「話が飛んでいます」
「飛んでいますか?」
「かなり」
リリアナは少し考えた。
「では、王妃基金監査補佐官としてお姉様が無理をしすぎないことが先です」
「それは正しいです」
「はい。そちらを言います」
セレスティアは、少し笑ってしまった。
妹は本気だ。
本気で心配してくれている。
その心配の方向が時々迷子になるだけで。
「ありがとう、リリアナ」
セレスティアが言うと、リリアナはぱっと顔を明るくした。
「はい。明日も規程を読みます」
「そこにつながるのですね」
「はい。私が分からないままだと、また変な噂に流されそうなので」
それは、とてもよい自覚だった。
夜、セレスティアは寄付者向け概要報告書制度案の第一稿を完成させた。
表紙には、王妃基金監査補佐官として初めて自分の役職名を入れた。
『作成補佐:王妃基金監査補佐官 セレスティア・エルフォード』
その文字を見て、少しだけ胸が震える。
怖い。
でも、やはり嬉しい。
覚書には、こう書いた。
『正式任命後の初仕事。寄付者向け概要報告書制度案』
次に。
『寄付者の善意を、必要な場所へより確実に届けるため。概要版にはこの言葉を使う』
さらに。
『縁談の打診が来始めた。私は受けない。現在は職務を優先する』
少し考えて、もう一行。
『望まない縁談を受ける必要はない、と宰相閣下に言われた。古い鎖が少し緩んだ気がした』
書いた後、顔が少し熱くなった。
だが、消さない。
今日の大事な言葉だった。
扉の外から、いつもの声がした。
「寝ろ」
「はい」
「今日は一枚か」
「少しだけ二枚目に入りました」
「監査補佐官」
「はい」
「初日から規程違反か?」
セレスティアは思わず笑った。
「覚書に規程はありません」
「作るか」
「作らないでください」
扉の向こうで、わずかに笑う気配がした。
「縁談の件は、こちらでも処理する」
「ありがとうございます。でも、私も自分で断ります」
「それでいい」
「はい」
「無理なら言え」
「はい」
その返事は、以前より自然に出た。
助けを求めることは、弱さではない。
確認保留と同じ。
立ち止まるための手順だ。
「寝ます」
「ああ」
灯りを落とす。
王妃基金監査補佐官としての初日は、寄付者向け報告書と望まぬ縁談で終わった。
仕事に名前がつけば、その名前を利用しようとする者も出る。
けれど、もう流されない。
自分で選ぶ。
断る。
必要なら、制度で守る。
セレスティアは、暗い部屋の中で静かに目を閉じた。
明日もまた、自分の名前で紙を書く。
今度は、誰かに使われるためではなく。
必要な場所へ届く仕組みを守るために。




