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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第54話 王妃基金監査補佐官、セレスティア・エルフォード

任命式は、拍子抜けするほど小さなものだった。


 大広間ではない。


 王族の謁見の間でもない。


 宰相府の奥にある、小さな会議室。


 出席者は限られていた。


 王弟宰相カイン。

 王宮会計室のローレン副監。

 法務官オルド。

 記録官ミリア。

 そして、セレスティア・エルフォード。


 ただ、それだけ。


 社交界が想像するような華やかな任命式ではない。


 花も少ない。

 音楽もない。

 拍手を送る大勢の貴族もいない。


 机の上に置かれているのは、一通の任命状と、職務範囲を定めた別紙、報酬規定、確認保留手順、三か月ごとの見直し条項、過重負担時の申し出手順。


 華やかさはない。


 けれど、セレスティアには、それが何よりもありがたかった。


 飾りではなく、仕事として扱われている。


 そのことが、紙の一枚一枚から伝わってくる。


 カインが、任命状を手に取った。


 いつものように表情は大きく動かない。


 だが、声は少しだけ改まっていた。


「セレスティア・エルフォード」


「はい」


 セレスティアは立ち上がる。


 胸の奥が、静かに鳴っていた。


 緊張している。


 でも、逃げたくはなかった。


「本日付で、王妃基金監査補佐官に任命する」


 その言葉が、部屋に落ちた。


 王妃基金監査補佐官。


 昨日まで任命案だった言葉が、今、正式な役職名になった。


 カインは続ける。


「任期は初期一年。ただし三か月ごとの職務見直しを行う。所属は宰相府預かり、実務上は王宮会計室および法務局との共同とする。報酬は王宮会計室より直接支給。公爵家を経由しない」


 公爵家を経由しない。


 その一文で、セレスティアの胸が少し熱くなる。


 自分の働きが、家の名誉や王太子妃候補としての献身に吸い込まれない。


 仕事として、対価が支払われる。


 それは、とても現実的で、だからこそ重かった。


「職務内容は、王妃基金関連行事における支援目的明記の確認、返還金再配分報告書および寄付者向け概要報告書の作成補佐、慈善茶会運営規程の遵守確認、支援先聞き取り記録の整理、三者確認会議への参加」


 カインは、一度そこで言葉を切った。


「また、確認不能事項については、確認保留を申し出る権限を持つ」


 セレスティアは、静かに頷いた。


 確認保留権。


 リリアナの言葉から形になった制度。


 それが、自分の役職にも入っている。


 守るための権限として。


「加えて、過重負担または職務範囲逸脱が疑われる場合、本人から職務見直しを申し出ることができる」


 これは、カインが入れろと言った条項だった。


 セレスティア自身を守るための手順。


 彼女は、その項目を聞きながら少しだけ目を伏せた。


 自分は、また抱え込みそうになるかもしれない。


 だからこそ、あらかじめ紙にしておく。


 制度は、人を疑うためだけにあるのではない。


 弱くなる瞬間の自分を守るためにもある。


 カインが任命状を差し出した。


「受けるか」


 形式上の問い。


 けれど、セレスティアには形式だけではなかった。


 受けるか。


 選べる。


 昨日も言われた言葉だ。


 彼女は、まっすぐ任命状を見た。


 そこに、自分の名前がある。


 セレスティア・エルフォード。


 切り取られた署名ではない。

 誰かが勝手に使うための名でもない。

 父の家の飾りでも、王太子府の便利な裏方でもない。


 自分が選んだ仕事の上にある名前。


 セレスティアは、深く息を吸った。


「お受けいたします」


 声は、少し震えた。


 だが、はっきりしていた。


「王妃基金監査補佐官として、職務範囲と手続きを守り、必要な場所へ支援が届くよう努めます」


 カインが頷く。


「よし」


 それだけだった。


 だが、その「よし」は、どんな長い祝辞より胸に届いた。


 ローレン副監が拍手した。


 オルドも静かに手を叩く。


 ミリアは、少し泣きそうな顔で拍手していた。


「ミリア」


 セレスティアが小さく呼ぶと、ミリアは慌てて目元を押さえた。


「すみません。嬉しくて」


「泣くほどですか」


「泣くほどです」


 ミリアは、少し笑って言った。


「セレスティア様の仕事に、ようやく正しい名前がついたので」


 昨日も似たことを言われた。


 仕事が名前を持つ。


 その言葉が、今になってより深く響く。


 セレスティアは、任命状を両手で受け取った。


 紙は少し重かった。


 だが、鎖の重さではない。


 自分で持つと決めた重さだった。


 任命の知らせは、すぐに王宮内へ回った。


 正式文書は短い。


『セレスティア・エルフォードを王妃基金監査補佐官に任命する』


『王妃基金関連行事、返還金再配分報告書、支援先聞き取り記録、慈善茶会運営規程確認を補佐する』


『職務は宰相府預かり、王宮会計室および法務局との共同とする』


 その文書は、王宮会計室、法務局、儀礼局、王太子府、関係貴族家へ送られた。


 社交界へも、当然のように広がった。


「セレスティア様が、正式に王妃基金監査補佐官に」


「まあ、ついに役職まで」


「王太子妃候補ではなく、王宮の役職ですのね」


「報酬も王宮から直接だとか」


「公爵家を経由しないそうよ」


「それは……大きいですわね」


「エルフォード公爵は、どんな顔をなさっているのかしら」


 そして、もちろん。


「宰相閣下の後押しでしょう?」


「そうでしょうね」


「でも、会計室と法務局との共同ですって」


「なら、ただの寵愛ではないわね」


「ただの、という言い方もどうかしら」


「あなた、そういう話が好きね」


「社交界ですもの」


 噂は止まらない。


 けれど、今回は噂だけでは済まなかった。


 任命状には、職務範囲があった。

 報酬規定があった。

 確認保留権があった。

 三者確認があった。

 過重負担時の申し出手順まであった。


 誰かに見初められて置かれた飾りではない。


 仕事としての任命。


 その形が、噂の余地を狭めていた。


 完全には消さない。


 社交界は、消してもまた生やす。


 それでも、セレスティアの名前はもう、噂だけでは説明できない場所に置かれた。


 王太子府に任命通知が届いたとき、ジュリアスは王妃基金規程の講習を受けていた。


 机の上には、規程、返還金再配分報告書第一号、試行茶会の概要資料が並んでいる。


 講師役の会計官が説明を中断し、侍従長が文書を差し出した。


「殿下。宰相府より通知です」


 ジュリアスは封を開けた。


 数行読んだだけで、表情が少し変わった。


 隣に座っていたリリアナが、小さく尋ねる。


「殿下?」


「セレスティアが、王妃基金監査補佐官に任命された」


 リリアナは、ぱっと顔を明るくした。


「正式に、ですか?」


「ああ」


「よかった……」


 心からの声だった。


 ジュリアスは、その横顔を見た。


 以前のリリアナなら、姉が正式な役職を得たと聞いて、素直に喜べただろうか。


 分からない。


 少なくとも、今のリリアナは喜んでいる。


 姉が評価されたことを、自分の価値が下がることとして受け取っていない。


 それもまた、大きな変化だった。


 ジュリアスは、任命通知をもう一度見た。


 セレスティア・エルフォード。


 王妃基金監査補佐官。


 胸の奥に、苦いものが滲む。


 かつて彼女は、自分の隣に立つはずだった。


 王太子妃候補として。


 だが、自分はその働きを見ていなかった。


 いや、見ようとしなかった。


 彼女の書く案内状も、席次表も、支援先説明も、会計区分も、当たり前にそこにあるものとして扱っていた。


 今、その力は自分の隣ではなく、王妃基金の前に立っている。


 その方が、彼女らしい。


 そう思った。


 苦しいほどに。


「殿下」


 リリアナがそっと言った。


「お祝いの言葉を送っても、よいでしょうか」


「もちろんだ」


 ジュリアスは少しだけ笑った。


「王太子府としても送るべきだろう」


「王太子府として、ですか」


「ああ。王妃基金の改革において、正式に協力を願う立場として」


 リリアナは、少し緊張した。


「私個人としても、書きたいです」


「書くといい」


 ジュリアスは、任命通知を丁寧に畳んだ。


「私も書く」


 リリアナは驚いたように彼を見る。


「殿下も?」


「ああ」


 少し間を置いて、ジュリアスは言った。


「祝意と、協力を」


 謝罪ではない。


 今この場で書くべきは、それではない。


 セレスティアの任命を、自分の後悔の場にしてはいけない。


 彼もまた、少しずつ学んでいた。


 祝うべきときは、祝う。

 協力すべきときは、協力する。

 後悔を混ぜて、相手の仕事を曇らせない。


 それが、今の自分にできる線引きだった。


 エルフォード公爵邸に知らせが届いたのは、少し遅れて午後だった。


 当主執務室には、グレアムとエヴァンジェリンがいた。


 外部監査官との会計確認を終えた直後で、机には通常支出の承認記録が並んでいる。


 そこへ、宰相府からの通知が届けられた。


 グレアムは、封を開ける。


 文面を読み、しばらく黙った。


 エヴァンジェリンが尋ねる。


「何の通知ですか」


 グレアムは、少し間を置いて答えた。


「セレスティアが、王妃基金監査補佐官に任命された」


 エヴァンジェリンの表情が、ぱっと変わった。


「まあ……」


 喜びと、驚きと、少しの痛み。


 そのすべてが混じっていた。


「正式な役職なのですね」


「ああ」


 グレアムは、文書を机に置いた。


 任命通知には、職務範囲が明記されている。


 報酬は王宮会計室より直接支給。

 公爵家を経由しない。


 その一文が、彼には特に重かった。


 娘の働きが、家を通らなくなった。


 かつて当たり前のように家のため、王太子府のため、国のためと使っていた力が、もう自分の管理下にはない。


 それは喪失だった。


 同時に、当然でもあった。


「あなた」


 エヴァンジェリンが静かに言った。


「お祝いを書きましょう」


 グレアムは、顔を上げる。


「私が?」


「はい」


「……どんな顔で」


「今の顔で」


 エヴァンジェリンは、少し厳しく答えた。


「誇らしいなら誇らしいと。悔しいなら悔しいと。分からないなら分からないと。ただし、邪魔をしてはいけません」


 グレアムは黙った。


 邪魔をしてはいけない。


 以前の自分なら、任命を政治的にどう使うか考えただろう。


 公爵家の名誉回復になるか。

 セレスティアを再び家の影響下に置けるか。

 王宮との関係修復に使えるか。


 だが、それを考えた瞬間、娘はさらに遠ざかる。


 もう分かっていた。


「……誇らしい、のだろうな」


 グレアムは、低く言った。


 自分でも不慣れな言葉だった。


「だが、同時に苦い」


「それを書けばよいのでは」


「苦いと?」


「ええ。娘の任命を喜ぶのに、苦さが混じるほど遅かったのだと」


 エヴァンジェリンの言葉は優しくない。


 だが、逃げ道を塞ぐ正直さがあった。


 グレアムはしばらく黙り、やがて便箋を取った。


 今度は、前より少しだけ早く書き始めた。


『セレスティアへ』


 まだ、お父様と呼ばれることは期待しない。


 彼は、それを理解している。


『王妃基金監査補佐官への任命を知った』


 次の一文で止まる。


 誇りに思う。


 書いてよいのか。


 自分にその資格があるのか。


 しばらく迷い、それでも書いた。


『誇らしく思う』


 その下に、少し間を空けて続ける。


『同時に、その仕事をお前に正しく認められる前に、私はお前の力を家の都合に使おうとしたのだと、苦く思っている』


 長い。


 不器用だ。


 だが、言い訳ではない。


 エヴァンジェリンが横で静かに見守っていた。


 グレアムは最後に書いた。


『任命を邪魔しない。お前の職務が、王妃基金と支援先のために正しく果たされることを願う』


 少し迷い、もう一行。


『無理をするな、と言える立場ではないかもしれないが、無理はするな』


 書いてから、自分でも少し顔をしかめた。


 父親らしいことを言うには遅すぎる。


 だが、消さなかった。


 エヴァンジェリンは、静かに微笑んだ。


「そのままでよいと思います」


「そうか」


「はい」


 グレアムは、個人印で封をした。


 当主印ではない。


 もう、それは間違えなかった。


 リリアナからの手紙は、夕方前に届いた。


 封筒には、いつもより少し丁寧な文字で「お姉様へ」と書かれている。


 セレスティアは、任命後の書類整理をしながら開いた。


『お姉様へ』


『王妃基金監査補佐官へのご任命、おめでとうございます』


『この言葉を書けることが、とても嬉しいです。以前の私なら、お姉様が正式に認められたことを素直に喜べなかったかもしれません。今も少しだけ、自分が情けなくなる気持ちはあります。でも、それ以上に嬉しいです』


『お姉様の仕事に名前がついたことが、嬉しいです』


『私はまだ規程を読み終えていません。でも、お姉様が監査補佐官になられたから安心して任せる、ではなく、私も読めるところから読みます』


『分からないことは、また質問します』


『本当におめでとうございます』


 セレスティアは、便箋を持ったまましばらく動けなかった。


 仕事に名前がついた。


 ミリアと同じ言葉だ。


 リリアナも、そう見てくれている。


 セレスティアは胸が温かくなった。


 そして、少しだけ目元が熱くなった。


 そこへ、ミリアが入ってくる。


「あ……すみません」


「大丈夫です」


「泣いていらっしゃいますか」


「泣いていません」


「では、泣きそう?」


「……少し」


 正直に答えると、ミリアは柔らかく笑った。


「今日は、少し泣いてもいい日だと思います」


「任命初日に泣く補佐官は、頼りなくありませんか」


「人間らしくてよいと思います」


「ミリアまで、そういうことを言うようになりましたね」


「セレスティア様の周りは強くなる傾向がありますから」


 またそれだ。


 セレスティアは、少し笑った。


 泣かずに済んだ。


 王太子府からの正式な祝意文は、実務的で丁寧だった。


『王妃基金監査補佐官へのご任命を祝すとともに、王太子府として今後の監査、講習、関連行事運営に誠実に協力する』


 署名はジュリアス。


 その下に、王太子府会計責任者代理の名もある。


 以前なら、こういう文書は美辞麗句が多かった。


 今回は違う。


 協力項目が具体的だった。


 監査報告閲覧。

 会計講習。

 慈善茶会支援目的明記。

 王太子府費と王妃基金費の区分。


 セレスティアは、それを読んで小さく頷いた。


 よい文書だと思った。


 華やかではない。


 だが、今はその方が信頼できる。


 ジュリアス個人からの短い手紙も添えられていた。


『セレスティアへ』


『任命、おめでとう』


『君が王妃基金の前に立つ姿を、昨日見て、当然の任命だと思った』


『王太子府は、今後君の監査を受ける側でもある。過去を考えれば、複雑ではあるが、必要なことだと受け止めている』


『協力する』


 短い。


 けれど、以前の彼よりずっと誠実だった。


 セレスティアは、その手紙を読んで静かに息を吐いた。


 胸に痛みはある。


 でも、以前のように乱れない。


 彼もまた、自分の立場を少しずつ理解し始めている。


 そのことを、手紙から感じた。


 父からの手紙が届いたのは、日が傾きかけた頃だった。


 個人印。


 セレスティアは、それを見て少しだけ息を整えた。


 読むか迷った。


 だが、今日は読める気がした。


 封を切る。


『セレスティアへ』


『王妃基金監査補佐官への任命を知った』


『誇らしく思う』


 その一文で、胸が詰まった。


 父から、誇らしいと書かれた。


 かつて欲しくて、でも今さら欲しいと言えなくなっていた言葉。


 それが、遅すぎる形で届いた。


 続きがある。


『同時に、その仕事をお前に正しく認められる前に、私はお前の力を家の都合に使おうとしたのだと、苦く思っている』


 セレスティアは、目を閉じた。


 父は、少しずつ自分の言葉で書き始めている。


 まだ不器用だ。


 まだ遅い。


 でも、逃げてはいない。


『任命を邪魔しない。お前の職務が、王妃基金と支援先のために正しく果たされることを願う』


『無理をするな、と言える立場ではないかもしれないが、無理はするな』


 最後の一文で、セレスティアは少しだけ笑ってしまった。


 不器用すぎる。


 父らしい。


 そして、少しだけ父親らしい。


 許したわけではない。


 でも、手紙は受け取れる。


 セレスティアは、父への返事を書いた。


『グレアム・エルフォード様』


『手紙を受け取りました』


『任命への祝意は、受け取ります』


 少し迷い、次を書く。


『この職務は、私自身の意思で受けました。王妃基金と支援先のために、職務範囲と手続きを守って務めます』


『無理をしないための条項も、任命規定に入っています』


 最後に、少しだけ手が止まる。


 そして書いた。


『お気遣いは、受け取ります』


 署名。


 セレスティア・エルフォード。


 これでいい。


 許しではない。


 和解でもない。


 けれど、受け取るものが少しずつ増えている。


 夕方、セレスティアは任命状の控えを持って、カインの執務室へ向かった。


 報告のためだ。


 扉を叩くと、すぐに返事があった。


「入れ」


 中へ入ると、カインは書類から顔を上げた。


「どうした」


「本日の任命関係の文書整理が終わりました。王太子府、エルフォード公爵家、ローゼン侯爵夫人、リリアナからの書簡も受領しています」


「反応は」


「概ね、祝意と協力です。父からも、任命を邪魔しないと」


 カインは少しだけ目を細めた。


「そうか」


「はい」


 セレスティアは、少し間を置いて言った。


「宰相閣下」


「何だ」


「ありがとうございました」


「何に対して」


「選ばせてくださったことです」


 カインは黙った。


 セレスティアは続ける。


「もし命令されていたら、私は受けていたと思います。でも、それでは昔と同じでした」


「だから命令しなかった」


「はい」


「君が選ぶ必要があった」


 セレスティアは、任命状を胸元に抱えた。


「選べてよかったです」


 カインは、少しだけ表情を緩めた。


「なら、よかった」


 それだけ。


 けれど、その言葉に胸が温かくなる。


 セレスティアは、ふと小さく笑った。


「今日は、寝ろ、と言われる前に寝ます」


 カインが眉を上げる。


「珍しい」


「任命初日なので、制度を守ります」


「いい心がけだ」


「ただ、覚書は書きます」


「一枚まで」


「はい」


「本当に一枚だぞ」


「はい」


 セレスティアは、少しだけ笑った。


 こんな会話が、当たり前のようになってきている。


 それが少し不思議で、少し怖くて、でも嫌ではなかった。


 その夜、覚書にはこう書いた。


『王妃基金監査補佐官に任命された』


 次に。


『任命状には、私の名前があった。切り取られる名前ではなく、私が選んだ仕事の名前として』


 さらに。


『リリアナは、私の仕事に名前がついたことが嬉しいと書いた』


『王太子府は、協力すると書いた』


『父は、誇らしく思うと書いた。苦く思うとも。任命を邪魔しない、と』


 少しだけ手が止まる。


 そして。


『宰相閣下に、選ばせてくださってありがとうございましたと言った』


 最後に一行。


『私は、この仕事を続けたい』


 そこでペンを置いた。


 一枚に収まった。


 約束通りだ。


 引き出しを開け、覚書を重ねる。


 扉の外から声がした。


「寝ろ」


 セレスティアは笑った。


「今日は、一枚で終わりました」


「よし」


「褒め方が短いです」


「王妃基金監査補佐官、よく守った」


 新しい役職名で呼ばれた。


 胸が、思ったより大きく揺れた。


「……ありがとうございます」


「明日から仕事だ」


「はい」


「任命状を抱いて寝るな」


「しません」


「本当に?」


「しません」


 少しだけ、抱いて寝たい気持ちがあった。


 だが、しない。


 任命状は机の上に置く。


 自分の胸の中には、選んだという事実を置く。


 セレスティアは灯りを落とした。


 暗くなる前に、机の上の任命状が見えた。


 王妃基金監査補佐官、セレスティア・エルフォード。


 その名前は、もう誰かの影ではない。


 自分で選んだ場所にある。


 明日から、その名で仕事をする。


 怖い。


 でも、続けたい。


 その気持ちを抱えて、セレスティアは眠りについた。

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