第53話 任命状には、私の名前がありました
試行慈善茶会の翌日、宰相府には朝から書簡が積まれていた。
茶会の感想。
王妃基金改革案への意見。
支援先説明札の写しを求める依頼。
返還金再配分報告書の概要版を、各家の若い令嬢教育に使いたいという申し出。
そして、いくつかの茶会招待状。
セレスティアは、その山を見て、静かに息を吐いた。
「増えましたね」
ミリアが横で苦笑する。
「はい。昨日の茶会以降、明らかに」
「王妃基金への関心が戻ってきた、ということでしょうか」
「それもあります」
「それも?」
ミリアは、少しだけ言いにくそうに視線を泳がせた。
「セレスティア様ご自身への関心も、かなり」
「……そうですか」
セレスティアは、できるだけ平静に答えた。
分かっていた。
試行茶会で前に立った以上、注目される。
しかも、王妃基金の説明は成功した。支援先の代表者たちからも反応があり、社交界にも報告書の言葉が広がっている。
評価が上がる。
名前が出る。
それは悪いことではない。
悪いことではないのに、胸の奥が少し落ち着かない。
評価というものは、風に似ている。
昨日まで地味だと言っていた者が、今日は才女だと言う。
昨日まで妹を持ち上げていた者が、今日は姉こそ本物だったと言う。
その移り変わりを、セレスティアはもう簡単には信じられなかった。
ミリアが、次の封筒を手に取る。
「こちらはローゼン侯爵夫人からです」
「また何か厳しいお言葉でしょうか」
「封筒だけでは分かりません」
「開ける前から分かったら怖いですね」
そう言うと、ミリアが小さく笑った。
封を切る。
中の便箋には、簡潔な文字が並んでいた。
『昨日の説明はよく届きました。硬さは相変わらずでしたが、硬さが信用になる場でした』
セレスティアは、少しだけ頬を緩めた。
褒められている。
たぶん。
『ただし、評価が上がる時ほど足元を見なさい。社交界は、失脚も再評価も娯楽にします。あなたの仕事は娯楽ではありません』
やはり厳しい。
だが、ありがたい。
『王妃基金を支える役職が正式に設けられるなら、あなたは逃げずに考えるべきです。受けるか受けないかは、誰かの期待ではなく、あなた自身の意思で』
セレスティアの手が止まった。
役職。
正式に設けられるなら。
まだ、彼女は何も聞いていない。
だが、ローゼン侯爵夫人の耳に入っているということは、王宮内で何か動いているのだろう。
ミリアも同じ箇所を読み、目を丸くした。
「役職、ですか」
「……そのようですね」
セレスティアは便箋を丁寧に畳んだ。
胸の奥が、少しだけ速く鳴る。
正式な役職。
もし、それが自分に関わるものなら。
嬉しいより先に、怖さが来た。
正式に名が置かれるということは、責任も置かれるということだ。
また背負うのか。
そう思ってしまう。
けれど、今回は違うのだろうか。
誰かに勝手に決められるのではなく、自分で選べるのだろうか。
その問いが浮かんだところで、扉が叩かれた。
「セレスティア様。宰相閣下がお呼びです」
来た。
セレスティアは、ゆっくり立ち上がった。
カインの執務室には、すでにオルドとローレン副監がいた。
机の上には、封緘された文書が一つ。
国王印ではない。
宰相府の正式文書だ。
セレスティアが入ると、カインが顔を上げた。
「座れ」
「はい」
いつもの短い言葉。
だが、今日の声は少しだけ慎重だった。
セレスティアは椅子に座る。
カインは、机の上の文書へ手を置いた。
「試行茶会の結果を受け、王妃基金改革案は正式運用へ移行する方向で進む」
「正式運用……」
「ああ。細部の修正は続くが、支援目的の明記、会計区分、確認保留権、返還金再配分報告書は制度として残る」
セレスティアは、静かに息を吸った。
紙の上で作ったものが、制度になる。
試行ではなく、正式に。
「それに伴い、王妃基金監査と運用確認を継続する役職を設ける」
カインは文書を開いた。
「王妃基金監査補佐官」
その言葉が、部屋に落ちた。
セレスティアは、思わず背筋を伸ばした。
「監査補佐官……」
「主担当は王宮会計室と法務局。だが、基金理念、支援先報告、慈善茶会運用、関係者向け概要文書の整備を横断的に見る者が必要だ」
ローレン副監が頷く。
「正直、会計室だけでは概要版の整備まで手が回りません。数字は見られますが、支援先の声をどう文書に戻すかは、セレスティア様の力が必要です」
オルドも続ける。
「法務局は手続きの穴を塞げます。ただ、制度を現場に伝わる言葉へ変える部分は、あなたが最も適任です」
適任。
必要。
以前なら、その言葉は鎖のように聞こえた。
あなたにしかできない。
国のために。
王妃基金のために。
支援先のために。
そう言われれば、断れなかった。
今回も、同じ言葉が並んでいる。
けれど、少し違う。
目の前にあるのは、勝手に切り取られた署名欄ではない。
正式な任命案だ。
仕事内容も、権限も、報酬も、確認手順も、書かれている。
カインが言った。
「命令ではない」
セレスティアは顔を上げた。
「え?」
「これは任命案だ。受けるかどうかは、君が選べ」
胸の奥が、静かに震えた。
君が選べ。
その言葉は、簡単に聞こえる。
でも、セレスティアにとっては重かった。
父の家で、選べなかった。
王太子府で、選んだつもりでも選べていなかった。
婚約破棄の後も、勝手に実務だけ残されかけた。
だからこそ、今「選べ」と言われることが、こんなにも苦しい。
選ぶとは、責任を引き受けることだ。
同時に、断る自由があることでもある。
セレスティアは、任命案を手に取った。
『王妃基金監査補佐官』
役割。
一、王妃基金関連行事における支援目的明記の確認。
二、返還金再配分報告書および寄付者向け概要報告書の作成補佐。
三、慈善茶会運営の暫定規程遵守確認。
四、王宮会計室、法務局、宰相府との三者確認会議への参加。
五、支援先聞き取り記録の整理。
六、確認不能事項について、確認保留を申し出る権限。
最後の項目を見て、セレスティアは少しだけ目を見開いた。
「私にも、確認保留権が明記されるのですか」
カインが頷く。
「当然だ。制度を作った者が持たないのはおかしい」
「でも、補佐官が保留を申し出ると、上位者の判断を止めることになります」
「止めるべき時は止めろ」
短い。
だが、明確だった。
ローレン副監が言う。
「会計室としても、その方が助かります。セレスティア様が違和感を覚えたところを、正式に保留として上げられるなら、後から曖昧になりません」
オルドも頷く。
「むしろ、その権限がなければ、また便利な実務担当にされる恐れがあります」
便利な実務担当。
その言葉は刺さった。
でも、事実だった。
権限のない有能さは、誰かに使われる。
責任だけを背負わされる。
だから、役職には権限が必要だ。
そして、拒める手順が必要だ。
自分が作った制度が、自分を守る側にも回っている。
セレスティアは、そのことを不思議に思った。
「任期は初期一年。三か月ごとに見直し」
カインが続ける。
「報酬あり。公爵家経由ではなく、王宮会計室から直接支給。所属は宰相府預かり、実務上は王宮会計室・法務局との共同」
セレスティアは、その項目を見て息を止めた。
報酬あり。
公爵家経由ではなく、直接。
これも、大きかった。
これまで自分の働きは、家の役目や王太子妃候補の義務として扱われてきた。
無償同然。
名誉という名の曖昧な報酬。
だが、今回は違う。
仕事として認められる。
対価がある。
それは、とても現実的で、とても大切なことだった。
「……考える時間をいただけますか」
セレスティアは言った。
即答はできなかった。
したくなかった。
どれほど魅力的でも、必要だと分かっていても、すぐに頷けばまた昔の自分に戻ってしまう気がした。
カインは、すぐに頷いた。
「今日中でなくていい」
「ありがとうございます」
「ただし、誰かの期待を理由に受けるな」
セレスティアの胸に、その言葉が入る。
「はい」
「王妃の遺志でも、支援先の感謝でも、私の評価でもない。君がやると決めるなら受けろ」
私の評価。
その言葉が、少しだけ胸に引っかかった。
カインは、やはり気づいているのだ。
自分が誰かの期待や評価に弱いことを。
セレスティアは、静かに頷いた。
「分かりました」
執務室を出ると、ミリアが廊下で待っていた。
「どうでしたか」
セレスティアは、任命案を胸元に抱えたまま答えた。
「王妃基金監査補佐官の任命案でした」
ミリアの顔がぱっと明るくなる。
「正式な役職ですか」
「はい。まだ受けるとは決めていません」
「あ……そうですよね」
ミリアは慌てて表情を整えた。
その様子が少し可笑しくて、セレスティアは小さく笑った。
「喜んでくれたのですか」
「はい。とても」
「なぜ?」
「セレスティア様の仕事が、正式に名前を持つからです」
その言葉に、セレスティアは胸を突かれた。
仕事が名前を持つ。
そうだ。
これまで自分の仕事は、誰かの影に隠れていた。
王太子府の円滑な運営。
公爵家の務め。
王太子妃候補の献身。
姉だから当然。
けれど、今度は違う。
王妃基金監査補佐官。
仕事そのものに名がつく。
「ミリアは、受けた方がよいと思いますか」
尋ねてから、少し後悔した。
誰かの意見を聞きすぎると、また期待に寄ってしまう。
だが、ミリアは慎重に答えた。
「私個人としては、セレスティア様に受けていただけたら心強いです。でも、セレスティア様が苦しくなるなら、受けてほしいとは言えません」
「苦しくなるかどうかは、まだ分かりません」
「では、分からないまま頷かない方がいいですね」
ミリアが、ごく自然に言った。
セレスティアは瞬いた。
そして、少し笑った。
「そうですね」
自分たちが作ってきた言葉が、こうして返ってくる。
分からないまま頷かない。
それは、誰に対しても必要なことだった。
セレスティアは、その日の午後、リリアナを呼んだ。
王妃基金規程の質問票を確認する名目だったが、本当の目的は別にある。
リリアナは小会議室に入ると、いつものように規程と付箋だらけの冊子を持っていた。
「お姉様。今日は質問票の確認でしょうか」
「それもあります。ただ、その前に少し話があります」
リリアナの顔が緊張する。
「私、何か間違えましたか」
「違います」
セレスティアは、任命案の写しを机に置いた。
「王妃基金監査補佐官という役職の任命案をいただきました」
リリアナの目が大きく開いた。
「お姉様が?」
「はい。ただ、受けるかはまだ決めていません」
「どうしてですか?」
素直な問いだった。
責めているのではない。
本当に不思議なのだ。
リリアナにとって、姉が正式に認められることは喜ばしいことに見えるのだろう。
セレスティアは、言葉を探した。
「怖いからです」
リリアナは、少し驚いた。
でも、笑わなかった。
「怖いのですか」
「はい。正式な役職になるということは、また多くの期待を受けます。王妃基金のため、支援先のため、王宮のため。そう言われると、私は断るのが下手です」
リリアナは、静かに聞いていた。
「でも、今回は断る権利があります。報酬も、任期も、確認保留権も書かれています。だから、昔とは違うと分かっています」
「でも、怖いのですね」
「はい」
リリアナは少し考えた。
それから、ぽつりと言った。
「私なら、受けてほしいと思ってしまいます」
セレスティアは、胸が少しだけ苦しくなった。
やはり、そう言われると揺れる。
だが、リリアナは慌てて続けた。
「でも、それは私が安心したいからです」
「安心?」
「はい。お姉様がその役職にいてくださったら、王妃基金は大丈夫だと思えるから。私が分からないことを聞けるから。だから、受けてほしいと思ってしまいます」
リリアナは、自分の胸元をぎゅっと握った。
「でも、それは私の都合です。お姉様の選択ではありません」
セレスティアは、言葉を失った。
リリアナが、ここまで言えるようになった。
自分の願いと、相手の選択を分けている。
それは、とても大きな変化だった。
「だから……」
リリアナは、少しだけ照れたように続けた。
「受けてくださったら嬉しいです。でも、お姉様が苦しいなら、断ってもいいと思います」
セレスティアは、ゆっくり息を吐いた。
「ありがとう、リリアナ」
「私、ちゃんと言えましたか」
「はい。とても」
リリアナは、ほっとしたように笑った。
「では、質問票も見ていただけますか」
「もちろん」
その切り替えが少し可笑しくて、セレスティアは小さく笑った。
「明日も規程を読むために?」
「はい。今日は少し進みました」
妹のその言葉が、なぜか心強かった。
夕方、セレスティアは一人で王宮の西回廊を歩いた。
以前、カインと並んで庭を見た場所だ。
今日は一人で来た。
考えるために。
任命案を受けるかどうか。
答えは、もう心の底では決まりかけている。
受けたい。
そう思っている。
王妃基金を、もっとよくしたい。
返還金が届く先を見たい。
支援先の声を報告書に戻したい。
リリアナのように分からない者にも届く概要版を作りたい。
誰かの署名欄が、もう切り取られない仕組みを守りたい。
これは、誰かの期待ではない。
自分の中から出てきた望みだ。
そう認めるのが、少し怖かった。
望めば、傷つく可能性も増える。
失敗すれば、自分の責任になる。
だが、それでも。
「ここにいたか」
後ろから声がした。
カインだった。
セレスティアは振り返る。
「探されていましたか」
「少しな」
「仕事を放り出しているわけではありません」
「知っている」
カインは隣に立った。
二人の間に、少しだけ静かな時間が落ちる。
庭には夕方の光が差していた。
セレスティアは、手元の任命案を見た。
「受けたいと思っています」
自然に言葉が出た。
カインは、こちらを見ないまま聞いている。
「誰かに言われたからではなく。王妃陛下の期待に応えたいからだけでもなく。支援先に感謝されたからだけでもなく」
「それで?」
「私が、続けたいと思っています」
口にした瞬間、胸の奥が震えた。
怖い。
でも、はっきりした。
「王妃基金を、必要な場所へ届く仕組みに戻す仕事を、続けたいです」
カインは、少しだけこちらを見た。
「なら、受けろ」
「はい」
「ただし、条件をつけろ」
セレスティアは瞬いた。
「条件?」
「君が苦しくなった時、職務範囲を見直せる条項。三か月ごとの見直しはあるが、それとは別に、過重負担時の申し出手順を入れろ」
「そこまで必要でしょうか」
「必要だ」
即答だった。
「君は、できると言って抱える」
「最近は、少し改善しています」
「少しな」
「……はい」
反論できない。
カインは続けた。
「制度は他人を守るためだけではない。君自身も守れ」
その言葉が、静かに胸へ落ちた。
自分が作った制度。
確認保留権。
職責範囲。
拒否ではなく、立ち止まる手順。
それは、自分にも必要だ。
「入れます」
「よし」
カインは頷いた。
それから、少しだけ声を柔らかくした。
「正式に受けるなら、明日、任命状を用意する」
「はい」
「君の名前でな」
その一言で、セレスティアは息を止めた。
任命状に、自分の名前が書かれる。
切り取られるためではない。
利用されるためでもない。
正式な役職として。
自分で選んだ仕事として。
「……はい」
声が少し震えた。
カインは、それをからかわなかった。
ただ、静かに言った。
「よく選んだ」
胸が熱くなった。
セレスティアは、庭の光を見つめながら、ゆっくり頷いた。
その夜、セレスティアは覚書を書いた。
『王妃基金監査補佐官の任命案』
次に。
『命令ではない。受けるかどうかは私が選べる、と言われた』
さらに。
『リリアナは、受けてほしいのは自分が安心したいからだと言った。私の選択とは分けてくれた』
少し手を止める。
今日、一番大事なことを書く。
『私は、続けたいと思った』
その文字を見た瞬間、胸が少し熱くなった。
誰かのため、だけではない。
自分が続けたい。
そう書けた。
さらに一行。
『制度は他人を守るためだけではない。私自身も守る』
最後に。
『明日、任命状に私の名前が書かれる』
ペンを置く。
扉の外から、いつもの声。
「寝ろ」
「はい」
「今日は決めたな」
「はい」
「よく選んだ」
夕方と同じ言葉だった。
セレスティアは、少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
「明日は忙しい」
「任命状ですね」
「ああ」
「緊張します」
「していい」
「していいのですか」
「するなと言ってもするだろう」
「その通りです」
扉の向こうで、低く笑う気配がした。
「だから寝ろ」
「はい」
引き出しを閉じる。
灯りを落とす。
暗くなる前に、机の上の任命案が目に入った。
そこには、まだ正式な印はない。
けれど、明日には任命状になる。
セレスティア・エルフォード。
その名前が、今度は自分で選んだ仕事の上に置かれる。
任命状は、鎖ではない。
きっと、鍵だ。
そう思って、セレスティアは目を閉じた。




