第52話 私は、自分の仕事の前に立ちました
試行慈善茶会の朝、セレスティアはいつもより早く目が覚めた。
まだ空は淡い灰色で、窓の外には朝霧が薄く残っている。王宮の庭園も、遠くの尖塔も、輪郭がぼんやりしていた。
寝不足ではない。
昨夜、カインに台本を取り上げられたからだ。
「もう直すな」
そう言われ、半ば強制的に寝かされた。
だから、身体は休めている。
それなのに、胸の奥だけが落ち着かない。
今日、自分は表に立つ。
王太子の隣ではない。
父の家名の後ろでもない。
宰相カインの影でもない。
自分の仕事の前に立つ。
そう決めたはずなのに、いざ朝になると、指先が少し冷えていた。
机の上には、試行慈善茶会の説明台本が置かれている。
何度も直した。
何度も削った。
ミリアに読んでもらい、リリアナに試読してもらい、ローレン副監に会計部分を確認してもらい、オルドに法務上の表現を整えてもらった。
そして最後に、カインから言われた。
君の言葉で締めろ、と。
セレスティアは、台本の最後の一文を目でなぞった。
『王妃基金を、誰かの善意の飾りではなく、必要な場所へ届く仕組みに戻すため、本日はその最初の一歩にしたいと考えております』
硬い。
自分らしい。
でも、逃げてはいない。
セレスティアは、台本を閉じた。
扉が叩かれる。
「セレスティア様。ミリアです」
「どうぞ」
入ってきたミリアは、いつもより少し華やかな装いだった。とはいえ、あくまで宰相府の記録官としての控えめな服装である。
「おはようございます。よく眠れましたか」
「眠れました」
「本当に?」
「……途中で三度ほど目が覚めました」
「それは、よく眠れたに入るのでしょうか」
「昨日よりは」
ミリアは小さく笑った。
「では、合格にしておきます」
彼女は手に持っていた箱を開けた。
中には、小さな髪飾りが入っている。
銀細工の葉に、淡い青の石が一つだけついたものだった。
「これは?」
「ローゼン侯爵夫人からです。『派手すぎず、しかし隠れすぎないものを』と」
セレスティアは、思わず息を止めた。
派手すぎず、隠れすぎない。
まるで今日の自分への言葉のようだった。
「ありがたく使わせていただきます」
ミリアが微笑んだ。
「お似合いになると思います」
「目立ちすぎませんか」
「今日のセレスティア様は、少し目立ってよいのです」
その言葉に、胸が少し揺れた。
少し目立ってよい。
以前なら、そんなことを言われても困っただろう。
でも今日は、受け取る。
「お願いします」
セレスティアが椅子に座ると、ミリアが髪飾りをつけてくれた。
鏡の中の自分は、いつもと少し違って見えた。
華美ではない。
けれど、隠れてもいない。
セレスティアは鏡の中の自分へ、小さく頷いた。
試行慈善茶会の会場である東翼の小広間は、朝から静かな緊張に包まれていた。
花は多すぎない。
白と淡い黄色を基調に、北方から届いた乾燥花が少しだけ混ぜられている。
菓子台には、蜂蜜を使った小さな焼き菓子と、保存果実を添えた薄焼きパン。
ただし、今回は菓子の横に小さな札が置かれていた。
『西部養蜂組合より適正価格にて購入。継続購入契約再開準備中』
『北方保存果実。冬季栄養補助品として孤児院支援にも使用』
香茶の横にも説明札がある。
ただ珍しい味として並べるのではない。
どこから来て、何につながるのか。
それを示す。
これだけのことなのに、以前は消えていた。
セレスティアは、札の位置を一つ直した。
「少し右へ。菓子皿に近すぎると、読まずに取られてしまいます」
給仕係が頷く。
「承知いたしました」
ミリアが横から記録する。
「説明札配置、菓子皿から半歩分離」
「そんな細かいことまで記録するのですか」
「次回のためです」
ミリアは、少し得意げだった。
その顔を見て、セレスティアは小さく笑った。
「頼もしいですね」
「セレスティア様の周りは強くなる傾向があるそうですので」
「それ、宰相閣下の言葉ですね」
「はい」
そこへ、その本人が入ってきた。
カインは、いつも通り黒に近い濃紺の礼服を着ている。過度な装飾はないのに、部屋の空気が少し引き締まった。
「準備は」
「概ね整いました」
セレスティアは答えた。
カインは会場を見回し、説明札、席次、資料台、会計室の控え席まで確認した。
「悪くない」
「ありがとうございます」
「声は出るか」
「出します」
「練習通りに読もうとしすぎるな」
セレスティアは少し目を瞬いた。
「台本通りでは駄目ですか」
「台本は道具だ。君が読むのではなく、君が話せ」
また難しいことを言う。
でも、その意味は少し分かった。
今日、前に立つのは台本ではない。
自分だ。
「努力します」
「努力ではなく、やれ」
「……はい」
カインは短く頷いた。
その淡々としたやり取りに、ミリアが少し笑いをこらえていた。
セレスティアは見ないふりをした。
客が入り始めたのは、正午少し前だった。
最初に来たのはローゼン侯爵夫人。
彼女は会場へ入るなり、説明札を一つ一つ見て、満足そうに頷いた。
「よろしい。花より先に札へ目が行く配置です」
「褒められているのでしょうか」
「かなり」
またその言い方だった。
セレスティアは微笑んだ。
「髪飾り、ありがとうございました」
「隠れすぎないように、という忠告も込めました」
「受け取りました」
「よろしい」
次に、若い貴族夫人たちが数名。
彼女たちは最初、やはりセレスティアとカインの距離をちらちら見ていた。
だが、菓子台の説明札に気づくと、表情が変わった。
「この蜂蜜、茶会用だけではないのですね」
「継続購入契約再開準備中……」
「適正価格という注もありますわ」
その会話を聞いて、セレスティアは少しだけ息をついた。
読まれている。
まずは、それだけでいい。
やがて、ジュリアスとリリアナも到着した。
ジュリアスは王太子としての礼装だが、以前のような華やかさだけの笑みはない。少し緊張しているようにも見えた。
リリアナは淡い藤色のドレスだった。派手ではないが、柔らかく似合っている。手には小さな冊子を抱えていた。
王妃基金規程の簡易版だった。
セレスティアは、それに気づいて少しだけ口元を緩めた。
「リリアナ」
「お姉様」
リリアナは小さく礼をした。
「今日の説明、楽しみにしています」
「楽しみ、なのですか」
「少し怖いです。でも、聞きたいです」
正直な言葉だった。
セレスティアは頷いた。
「私も怖いです」
リリアナは驚いたように顔を上げる。
「お姉様も?」
「はい」
「……そうなのですね」
「そうです」
リリアナは、少しだけ安心したように笑った。
「では、一緒に怖がります」
「あなたは聞く側でしょう」
「それでも、少し一緒です」
その言い方が、妙に妹らしかった。
セレスティアは、胸の奥が温かくなるのを感じた。
ジュリアスが静かに言った。
「今日の茶会は、王太子府としても学ぶ場だと思っている」
セレスティアは彼を見る。
「そう受け止めていただけるなら、意味があります」
少し硬い返答だった。
だが、以前より棘は少なかった。
ジュリアスは、静かに頷いた。
「聞かせてもらう」
茶会が始まった。
最初の挨拶はカインが行った。
短く、淡々としたものだった。
「本日は、王妃基金関連行事および慈善茶会運営改革案の暫定運用として、試行茶会を開く。華美な場にするためではなく、制度が実際に機能するかを確認するための場だ」
会場が少し静まる。
「本日の中心説明は、改革案起草に関わったセレスティア・エルフォードが行う」
視線が一斉に集まった。
セレスティアは、ゆっくり立ち上がった。
手の中に台本はある。
けれど、握りしめすぎないようにした。
前へ出る。
小広間の中央に立つ。
目の前には貴族夫人たち。
支援先の代表。
王太子府。
リリアナ。
ジュリアス。
ローゼン侯爵夫人。
カイン。
すべての視線が、自分へ向いている。
怖い。
だが、逃げたいとは思わなかった。
セレスティアは、最初の一文を話した。
「本日の茶会には、三つの目的があります」
声は、思ったより通った。
「一つ目は、王妃基金が何のためにあるのかを、参加者の皆様と確認すること。二つ目は、返還金がどこへ戻されたのかを報告すること。三つ目は、地方産品をただ珍しい品としてではなく、生活と産業を支えるものとして知っていただくことです」
会場は静かだった。
誰も茶器を鳴らさない。
セレスティアは続けた。
「亡き王妃陛下は、慈善茶会を『貴族の善意を見せる場ではなく、普段届かぬ声へ耳を向ける場』と記されました」
ローゼン侯爵夫人が、わずかに目を伏せた。
リリアナは、胸の前で冊子を握っている。
「これまでの王妃基金関連行事の一部では、この理念が十分に守られていませんでした。支援目的が案内状から消え、地方産品が珍しい菓子や香茶としてのみ扱われ、会計区分が曖昧になり、返還すべき金が支援先ではない場所へ流れていました」
会場に、緊張が走る。
ここを曖昧にしてはいけない。
セレスティアは、声を落としすぎないようにした。
「本日の茶会では、その反省を隠しません。ラドクリフ商会からの返還金は、寄付ではありません。損害返還です」
何人かが息を呑んだ。
はっきり言ったからだ。
「そして、その返還金の一部は、北方施療院の暖房支援、王都東区孤児院の冬季栄養補助品、西部養蜂組合との継続購入準備へ戻されます」
セレスティアは、菓子台の方を示した。
「本日お出ししている蜂蜜菓子は、西部養蜂組合より適正価格にて購入した蜂蜜を用いています。適正価格とは、安く買いたたくことでも、高く見せかけることでもありません。品物と働きに見合った価格で、継続して支えるための価格です」
これは、リリアナの言葉だった。
リリアナが小さく目を見開く。
自分の言葉が使われたことに気づいたのだろう。
セレスティアは続ける。
「保存果実は、茶会では菓子になります。しかし、孤児院では冬季の食事を補う品にもなります。同じ品であっても、どこへ届くかによって意味が変わります」
若い伯爵夫人が、手元の菓子を見つめた。
それでいい。
ただ味わうだけではなく、少し考える。
それが今日の茶会の目的だった。
「北方施療院では、昨冬、灯油支援の遅れにより夜間診療室の暖房時間が短くなりました。今回の追加支援は、そこへ戻されます。帳簿上の差額は、誰かの寒さにつながることがあります」
その言葉で、会場の空気がさらに変わった。
帳簿上の差額。
誰かの寒さ。
貴族の夫人たちは、その二つが同じ線上にあることを、あまり考えてこなかったのかもしれない。
セレスティアは、台本から少し目を離した。
ここからは、自分の言葉で話す。
「本日の茶会で、すべてが正されるわけではありません。失われた信用も、届かなかった支援も、一度の報告で戻るものではありません」
声が、少しだけ震えた。
だが、続けた。
「それでも、どこで失われたのかを隠さず、どこへ戻すのかを記録することはできます。王妃基金を、誰かの善意の飾りではなく、必要な場所へ届く仕組みに戻すため、本日はその最初の一歩にしたいと考えております」
最後の一文を言い終えた瞬間、会場は静まり返った。
一拍。
二拍。
そして、ローゼン侯爵夫人が静かに拍手をした。
派手ではない。
だが、はっきりとした拍手だった。
続いて、若い夫人たち。
支援先代表。
ローレン副監。
ミリア。
オルド。
拍手が広がった。
リリアナは、少し泣きそうな顔で拍手していた。
ジュリアスは、まっすぐセレスティアを見ていた。
カインは拍手こそしていなかったが、静かに頷いた。
それだけで、セレスティアには十分だった。
茶会の後半は、思っていた以上に会話が多かった。
ただし、噂話ではない。
いや、多少はあったのだろう。
けれど、少なくともセレスティアの耳に届く範囲では、支援の話が多かった。
「北方施療院の暖房支援は、毎年必要なのですか」
若い伯爵夫人が、修道会代表へ尋ねた。
修道女は少し驚きながらも答える。
「はい。特に夜間診療室は、冬場の燃料が不足しがちです」
「毛布では足りないのですね」
「薬湯や処置がありますので、部屋そのものの温度が必要になります」
別の夫人は、西部養蜂組合の代理人へ質問していた。
「継続購入契約とは、どのくらいの期間を想定するのですか」
「一年単位で数量を決めていただけると、巣箱の管理計画が立ちます。一度きりの大量注文より、少しずつでも続く方がありがたいです」
「なるほど……茶会用に珍しい品を買うのとは、意味が違うのですね」
「はい」
セレスティアは、それらの会話を少し離れた場所から聞いていた。
胸の奥が熱い。
今日、茶会の意味が少し変わっている。
菓子を褒めるだけではない。
花を眺めるだけではない。
支援先の声を聞いている。
まだ小さな変化だ。
でも、確かにある。
リリアナが近づいてきた。
「お姉様」
「リリアナ」
「私の言葉、使ってくださいましたね」
「適正価格の説明ですね」
「はい」
リリアナは、照れたように目を伏せた。
「少し恥ずかしかったです。でも、分かりやすかったと、さっき若い夫人が言ってくださいました」
「よい説明でしたから」
「お姉様が直してくださったからです」
「あなたの言葉です」
セレスティアがそう言うと、リリアナは目を潤ませた。
「私の言葉が、誰かの役に立つこともあるのですね」
「あります」
短く答えた。
リリアナは、小さく頷いた。
「もっと勉強します」
「はい」
「明日も規程を読みます」
セレスティアは、少し笑った。
「知っています」
そのやり取りを、少し離れた場所でジュリアスが見ていた。
彼は近づいてきて、静かに言った。
「今日の説明は、よかった」
「ありがとうございます」
「私は、王妃基金を王宮の中の制度としてしか見ていなかった」
ジュリアスは、手元の概要版を見た。
「今日、少しだけ外が見えた気がする」
「それなら、意味がありました」
セレスティアは答えた。
ジュリアスは、何かを言いかけて、やめた。
謝罪か、後悔か。
今ここでは、どちらも違うと思ったのだろう。
彼は代わりに言った。
「講習を、続ける」
「はい」
「リリアナと一緒に」
「よいことだと思います」
それだけだった。
でも、それでよかった。
茶会が終わる頃、ローゼン侯爵夫人がセレスティアのそばへ来た。
「初めてにしては、上出来でした」
「ありがとうございます」
「少し硬かったですが」
「自覚はあります」
「でも、硬さが信用になる場もあります」
夫人は、会場を見回した。
「今日は、社交界が少しだけ黙りましたね」
「少しだけ、ですか」
「ええ。明日にはまた喋ります」
「でしょうね」
「ですが、今日の話題は恋の噂だけでは済まないでしょう。灯油と蜂蜜と適正価格の話も、必ず混じります」
それは、かなり大きなことだった。
恋の噂を消すことはできない。
でも、別の話題を同じ場所に置くことはできる。
自分の仕事が、噂に飲み込まれないように。
「よかったです」
セレスティアが言うと、ローゼン侯爵夫人は満足そうに頷いた。
「あなたは、もう少し自分の仕事を誇りなさい」
「努力します」
「そこは、はい、でよろしい」
「……はい」
なぜか、カインと似たことを言われた。
セレスティアは少し笑ってしまった。
片づけが始まった頃、カインが近づいてきた。
人目のある場所だったので、セレスティアはきちんと礼をする。
「宰相閣下」
「よく話した」
「ありがとうございます」
「台本よりよかった」
「台本から外れていましたか」
「少しな」
カインは、菓子台の説明札を見た。
「だが、君の言葉だった」
胸が、静かに熱くなる。
「怖かったです」
セレスティアは言った。
周囲には聞こえない程度の声だった。
カインも、同じくらい低い声で答える。
「立っていた」
「はい」
「それでいい」
短いやり取りだった。
でも、今日のセレスティアには十分だった。
彼の隣に立つのではない。
自分の仕事の前に立つ。
そう思っていたはずなのに、こうして言葉をもらうと、やはり少し心が揺れる。
この感情に、まだ名前はつけない。
今はまだ、茶会が終わったばかりだ。
仕事の余韻を大切にしたかった。
その夜、セレスティアはいつもより長く覚書を書いた。
『試行慈善茶会、実施』
次に。
『自分の仕事の前に立った。怖かった。でも、立った』
さらに。
『王妃基金は、貴族の善意を見せる場ではなく、普段届かぬ声へ耳を向ける場。その言葉が、会場に届いたと思う』
少し間を置いて、リリアナのことを書く。
『リリアナの適正価格の説明を使った。あの子は、自分の言葉が役に立つこともあるのですね、と言った』
ジュリアスのことも書く。
『王太子殿下は、外が少し見えたと言った。遅い。でも、見ないよりよい』
ローゼン侯爵夫人。
『社交界は明日にはまた喋る。でも、灯油と蜂蜜と適正価格の話も混じる、と言われた』
最後に、カインの言葉。
『宰相閣下に、よく話した、と言われた。台本よりよかった、とも』
そこまで書いて、少しだけ恥ずかしくなった。
でも、消さなかった。
今日の自分には、残してよい言葉だった。
扉の外から、声がした。
「寝ろ」
「はい」
「今日は長く書いているな」
「今日だけです」
「明日も言いそうだな」
「言いません」
「本当に?」
「……たぶん」
扉の向こうで、低く笑った気配がした。
「茶会は成功だ」
セレスティアは、ペンを持ったまま顔を上げた。
「そう言ってよいのでしょうか」
「試行としては」
「試行としては、ですね」
「正式運用まで気を抜くな」
「はい」
「だが、今日は成功でいい」
胸の奥が、ゆっくり温かくなった。
「ありがとうございます」
「だから寝ろ」
「はい」
引き出しを閉じる。
灯りを落とす。
暗い部屋の中で、今日の拍手がまだ耳の奥に残っていた。
それは、社交界の軽い賞賛ではなかった。
王妃基金の最初の一歩を、確かに誰かが受け取った音だった。
セレスティアは、静かに目を閉じた。
今日、自分は隠れなかった。
自分の名前で、前に立った。
その事実を胸に、眠りについた。




