第51話 私の仕事は、もう隠すものではありません
次回慈善茶会の試行運用案がまとまったのは、朝の会議が終わる少し前だった。
場所は王宮の東翼にある小広間。
大規模な舞踏会を開くような華やかな部屋ではない。天井は高いが、壁の装飾は控えめで、窓からは王宮庭園の端と、その向こうに続く王都の屋根が見える。
亡き王妃エレオノーラが、生前よく使っていた広間でもあった。
その話を聞いたとき、セレスティアは少しだけ胸が詰まった。
王妃基金の試行茶会。
改革案第三稿の暫定運用を、初めて実際の場に落とし込む茶会。
支援目的の明記。
地方産品の適正価格購入。
慈善茶会費と社交費の区分。
確認保留権。
返還金再配分報告書の概要説明。
寄付者向け使途確認。
紙の上で何度も整えた項目が、今度は人の前に出る。
成功すれば、王妃基金への信頼回復はさらに進む。
失敗すれば、保守派は言うだろう。
やはり改革など机上の空論だった、と。
セレスティアは、机の上に並べられた席次案を見つめた。
茶会の参加者は多くない。
ローゼン侯爵夫人をはじめとする王妃基金支援経験のある夫人たち。
若手貴族夫人。
王宮会計室と法務局の関係者。
北方施療院への支援に関わる修道会代表。
西部養蜂組合の代理人。
王太子府からはジュリアスとリリアナ。
そして、宰相府からカイン。
問題は、セレスティア自身の位置だった。
裏方として資料を整え、進行台本を書き、会計区分を確認し、支援先説明札を用意する。
そこまでは当然だった。
だが、会議の最後にローレン副監が言った。
「当日の概要説明は、セレスティア様がなさるのが自然ではありませんか」
その瞬間、セレスティアは手元のペンを止めた。
「私が、ですか」
「はい。今回の改革案と返還金再配分報告書の流れを最も把握しているのは、セレスティア様です」
オルドも淡々と頷く。
「法務上の説明は私が補足できますが、支援目的と運営改革の全体説明は、あなたが適任です」
ミリアは、少し心配そうにセレスティアを見ていた。
カインは、まだ何も言わない。
セレスティアは、席次案へ視線を落とした。
表に出る。
茶会の場で、自分が説明する。
それは、かつて王太子妃候補として求められていた役割とは違う。
美しく笑って、王太子の隣で支援を語るのではない。
自分の仕事として、王妃基金の改革を説明する。
それでも、怖かった。
社交界はすでに彼女を見ている。
王妃基金改革の中心人物として。
宰相府で重用される令嬢として。
そして、カインとの噂の相手として。
ここで前に立てば、さらに注目が集まる。
また、誰かが言うだろう。
セレスティア様は、王太子殿下に捨てられた後、宰相閣下の後ろ盾で表舞台へ戻られたのだ、と。
違う。
そう思う。
でも、噂は違うと言えば止まるものではない。
セレスティアは、静かに言った。
「私は、裏方に徹した方がよいのではないでしょうか」
部屋の空気が少し変わった。
ローレン副監が眉を寄せる。
「なぜですか」
「私が前に出ることで、茶会の趣旨よりも私個人への注目が強まる可能性があります」
これは本音だった。
同時に、半分は逃げでもあった。
自分でも分かっていた。
「特に、今は社交界で余計な噂もあります。王妃基金の試行茶会が、私個人の再評価や……別の話題に寄りすぎるのは避けたいです」
別の話題。
そう濁したが、全員分かっている。
カインとの噂だ。
ミリアが少しだけ視線を落とした。
オルドは表情を変えない。
ローレン副監は、困ったように腕を組んだ。
カインは、そこでようやく口を開いた。
「却下だ」
短かった。
あまりにも短かった。
セレスティアは思わず顔を上げる。
「却下、ですか」
「ああ」
「理由を伺っても?」
「君の仕事だからだ」
その一言で、胸の奥が揺れた。
カインは続けた。
「君が作った制度だ。もちろん単独ではない。会計室、法務局、関係者、支援先、リリアナ嬢の試読まで含めた仕事だ。だが、その中心で線を引き続けたのは君だ」
部屋が静まり返る。
「その仕事を、噂があるから隠すのか」
セレスティアは言葉に詰まった。
隠す。
その言葉は痛かった。
自分は、また隠れようとしているのか。
王太子府で裏方に回り続けていた頃のように。
父の意向を読み、名前だけ使われ、成果だけ別の誰かのものになっていた頃のように。
「私は……」
言いかけて、止まった。
カインは、責める声ではなかった。
ただ、事実を置いている。
「君の仕事は、もう隠すものではない」
その言葉が、静かに落ちた。
セレスティアは、手元の席次案を見つめた。
自分の名前が、進行補佐欄に小さく書かれている。
それは慣れた位置だった。
端に置かれる名前。
裏で機能する名前。
必要なのに、前には出ない名前。
その方が安全だと思っていた。
目立たなければ、叩かれない。
目立たなければ、噂にならない。
目立たなければ、誰かを刺激しない。
だが、本当にそうだろうか。
目立たなかったからこそ、署名欄を切り取られた。
目立たなかったからこそ、旧候補者として実務だけ残されかけた。
目立たなかったからこそ、王太子府は彼女の仕事を当たり前に使った。
もちろん、前に立てば傷つく。
噂にもなる。
だが、隠れていれば守られるわけではない。
セレスティアは、ゆっくり息を吸った。
「私が前に立つことで、宰相閣下との噂が強まる可能性があります」
あえて言った。
逃げではなく、確認として。
カインは表情を変えない。
「だろうな」
「それでも、ですか」
「それでもだ」
即答だった。
「噂を避けるために君の仕事を隠せば、噂より悪いものが残る。誰がやったのか分からない改革、誰の責任で動いたのか分からない制度、誰の言葉で支援先へ戻ったのか見えない報告書。それは、君が嫌ってきたものだろう」
セレスティアは、何も言えなかった。
その通りだった。
誰の責任か分からない。
誰の名前か分からない。
誰の確認か分からない。
その曖昧さが、今回の問題を生んだ。
なら、自分の仕事も曖昧にしてはいけない。
「ただし」
カインは続けた。
「君一人の茶会にはしない。私も、会計室も、法務局も、リリアナ嬢も、それぞれの役割を明確に出す。君は中心を説明する。私の隣に立つのではない。自分の仕事の前に立つ」
自分の仕事の前に立つ。
セレスティアは、その言葉を胸の中で繰り返した。
カインの隣ではなく。
王太子の隣でもなく。
父の家名の後ろでもなく。
自分の仕事の前に。
それなら。
少しだけ、立てる気がした。
「……分かりました」
セレスティアは言った。
声は小さかったが、逃げてはいなかった。
「当日の概要説明を担当します」
ミリアが、ほっとしたように息を吐いた。
ローレン副監は満足そうに頷く。
オルドはすぐに記録した。
カインは、短く言った。
「いい判断だ」
その言葉で、セレスティアの胸はまた少しだけ熱くなった。
試行茶会の準備は、そこから急に現実味を帯び始めた。
説明台本は、セレスティア自身が書き直すことになった。
最初の草案は、裏方用の進行メモだった。
『開会挨拶後、支援目的説明。返還金再配分報告書概要配布。北方施療院支援、西部養蜂組合継続購入、孤児院栄養補助品説明』
これでは、前に立つ言葉にならない。
セレスティアは、白紙に向かって書き始めた。
『本日の茶会は、華やかな社交のためだけに開かれるものではありません』
少し硬い。
消す。
『本日の茶会には、三つの目的があります』
こちらの方がよい。
続ける。
『一つ目は、王妃基金が何のためにあるのかを、参加者の皆様と確認すること。二つ目は、返還金がどこへ戻されたのかを報告すること。三つ目は、地方産品をただ珍しい品としてではなく、生活と産業を支えるものとして知っていただくことです』
書きながら、胸が少しずつ落ち着いていく。
前に立つことは怖い。
だが、何を言うかが決まれば、怖さの輪郭も見える。
ミリアが横で読み、言った。
「分かりやすいです」
「硬すぎませんか」
「少し。でも、セレスティア様らしいです」
最近、よく言われる。
硬いが、安心する。
それなら、少しはよいのかもしれない。
そこへ、リリアナが試読のために呼ばれた。
彼女は台本を受け取り、真剣な顔で読んだ。
途中で何度か付箋を貼る。
セレスティアは、今度も黙って待った。
やがてリリアナが顔を上げる。
「お姉様」
「はい」
「最初の『王妃基金が何のためにあるのか』というところ、とてもよいと思います。でも、その後に王妃様の言葉があると、もっと聞く方の心に残るかもしれません」
「王妃様の言葉?」
「『貴族の善意を見せる場ではなく、普段届かぬ声へ耳を向ける場』という……あれです」
セレスティアは、少し驚いた。
「覚えていたのですか」
「はい。あの言葉は、私にも分かりました」
リリアナは少し照れたように言った。
「難しい規程より、ずっと胸に残りました」
セレスティアは、しばらく妹を見た。
リリアナは、王妃の言葉を覚えている。
ただ暗記したのではない。
胸に残したのだ。
「入れましょう」
セレスティアは台本に書き加えた。
『亡き王妃陛下は、慈善茶会を「貴族の善意を見せる場ではなく、普段届かぬ声へ耳を向ける場」と記されました』
その一文が入るだけで、台本の背骨が通った。
リリアナは、小さく息を吐いた。
「よかったです」
「ありがとう。よい指摘でした」
そう言うと、リリアナは少しだけ頬を赤くした。
「お役に立てたなら、嬉しいです」
その言い方は、以前のような甘えた響きではなかった。
本当に、仕事の一部として役に立てたことを喜んでいた。
セレスティアは、胸が少し温かくなった。
準備が進む一方で、社交界の噂も当然のように進んだ。
試行茶会でセレスティアが概要説明を担当する。
その情報は、どこからか漏れた。
「ついにセレスティア様が表へ出られるのね」
「王太子府から離れて、宰相府で花開かれたということかしら」
「宰相閣下が背中を押されたのでは?」
「まあ、それは素敵」
「でも、王妃基金の説明でしょう。恋の話にするのは不謹慎では」
「不謹慎な話ほど広がるものですわ」
その通りだった。
セレスティアは、ミリアから報告を受けて、軽くこめかみを押さえた。
「素敵ではありません」
「何がですか」
「宰相閣下が背中を押した、という部分が」
ミリアは少しだけ首を傾げた。
「でも、背中を押されたのですよね」
「そうですが」
「では、事実では」
「言い方の問題です」
「難しいですね」
ミリアは、明らかに少し面白がっていた。
セレスティアは、それを見てため息をついた。
「ミリアまで社交界側にならないでください」
「失礼しました」
まったく反省していない顔だった。
そこへカインが入ってきた。
「何の話だ」
「何でもありません」
セレスティアは即答した。
ミリアは咳払いして書類へ視線を落とす。
カインは、二人を交互に見た。
「噂か」
鋭い。
「はい」
隠しても仕方ないので、セレスティアは認めた。
「私が概要説明をすることと、宰相閣下が背中を押したという話が、少し……」
「事実だな」
「言い方の問題です」
「背中を押したのは事実だ」
「そうですが」
カインは、少しだけ考えた。
「では、こう言えばいい。宰相府として、担当者が自身の仕事を説明することを適切と判断した」
「急に公的になりましたね」
「噂対策だ」
ミリアが小さく笑いをこらえている。
セレスティアは、困ったように息を吐いた。
「ありがとうございます。その表現で回答します」
カインは頷いた。
そして、セレスティアの手元の台本を見た。
「見せろ」
「まだ途中です」
「途中を見る」
逃げられない。
セレスティアは台本を渡した。
カインは黙って読んだ。
最初から最後まで、意外なほど丁寧に。
やがて言った。
「王妃の言葉を入れたのか」
「リリアナの提案です」
「いい」
「はい」
「最後が弱い」
容赦ない。
セレスティアは姿勢を正した。
「どこでしょう」
「ここだ。『本日の茶会が、今後の王妃基金運営の一助となれば幸いです』」
「無難かと」
「無難すぎる」
カインは台本を机へ置いた。
「君が説明する意味が薄れる」
「では、どうすれば」
「君の言葉で締めろ」
セレスティアは、少しだけ困った。
「私の言葉」
「ああ」
カインは静かに言った。
「この茶会で何を始めたいのか。君自身の言葉で」
セレスティアは、台本を見つめた。
何を始めたいのか。
王妃基金の試行運用。
返還金再配分報告。
地方産品支援。
確認保留権。
それらは全部ある。
でも、自分が本当に始めたいことは何だろう。
少し考えて、ペンを取る。
『本日の茶会で、すべてが正されるわけではありません。失われた信用も、届かなかった支援も、一度の報告で戻るものではありません』
書きながら、胸が少し震えた。
『それでも、どこで失われたのかを隠さず、どこへ戻すのかを記録することはできます。王妃基金を、誰かの善意の飾りではなく、必要な場所へ届く仕組みに戻すため、本日はその最初の一歩にしたいと考えております』
書き終えて、セレスティアは息を吐いた。
カインが読む。
少しだけ間があった。
「いい」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
その夜、セレスティアは覚書を書いた。
『試行茶会で概要説明を担当することになった』
次に。
『裏方に徹したいと言った。宰相閣下に却下された』
少し考え、続ける。
『君の仕事は、もう隠すものではない、と言われた』
その一文を書いた瞬間、胸が少し熱くなった。
さらに。
『私は、誰かの隣ではなく、自分の仕事の前に立つ』
ペンを置こうとして、もう一行書く。
『怖い。でも、立つ』
扉の外から、カインの声がした。
「寝ろ」
「はい」
「台本は、もう直すな」
「最後だけ少し」
「直すな」
「……はい」
「明日は読む練習だ」
「読む練習もあるのですか」
「当然だ。前に立つなら、聞こえる声で話せ」
セレスティアは、少しだけ笑った。
「厳しいですね」
「必要なことだ」
「私の真似ですか」
「似てきたか?」
「少し」
扉の向こうで、わずかに笑った気配がした。
「光栄だな」
セレスティアは、覚書を閉じた。
灯りを落とす。
試行茶会が近づいている。
噂もある。
視線も集まる。
けれど、もう隠れない。
自分の名前を、仕事の前に置く。
切り取られる署名ではなく、前に立つ名前として。
そう決めて、セレスティアは目を閉じた。




