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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第50話 社交界は、すぐ恋の話にしたがります

 社交界は、善行だけでは満足しない。


 誰かが失脚すれば理由を求める。

 誰かが再評価されれば裏側を探る。

 誰かと誰かが同じ廊下を歩けば、翌日には婚約の噂になる。


 王妃基金の返還金再配分報告書第一号は、確かに社交界の空気を変えた。


 北方施療院への暖房支援。

 王都東区孤児院への冬季栄養補助品。

 西部養蜂組合との継続購入。


 これまで茶会の飾りとして見られがちだった品々が、誰かの生活に繋がっているのだと、多くの夫人たちがようやく口にし始めた。


 それは、よい変化だった。


 だが、よい変化だけでは終わらない。


 社交界は、すぐに別の匂いを嗅ぎつけた。


「セレスティア様、最近ますます宰相閣下のおそばにいらっしゃるそうですわね」


「王妃基金改革案も、ほとんどお二人で進めているとか」


「いえ、会計室や法務局も関わっているでしょう」


「でも、宰相閣下があれほど一人の令嬢を庇われるなんて、珍しいことですわ」


「庇うというより、信頼なさっているのでは?」


「信頼だけかしら」


「まあ」


 その「まあ」には、何十行分もの勝手な物語が含まれていた。


 王太子に捨てられた公爵令嬢。

 王妃の遺志を継ぎ、基金を立て直す才女。

 その隣に立つ冷徹王弟宰相。


 あまりにも、社交界好みの構図だった。


 しかも、そこには事実の欠片がある。


 カインは、確かにセレスティアを監査補助者として重用している。

 セレスティアは、確かに宰相府で多くの文書を作っている。

 カインは、彼女が揺れたときに止める。

 寝ろ、とも言う。


 最後の一つは社交界に知られていないはずだが、知られていなくてよかったとセレスティアは心から思った。


 もし知られたら、三日で婚約話に加工される。


 いや、二日かもしれない。


 そういう場所なのだ、社交界は。


 噂がセレスティアの耳に入ったのは、ローゼン侯爵夫人からだった。


 宰相府の応接室。


 夫人は今日も背筋を伸ばし、黒紫のドレスを隙なく着こなしていた。


 テーブルには、返還金再配分報告書第一号の写しと、次回慈善茶会の試行案が置かれている。


 真面目な話をしに来たはずだった。


 少なくとも、最初は。


「報告書はよくできていました」


 ローゼン侯爵夫人は言った。


「会計の詳細を崩さず、概要版は読みやすい。リリアナ様の試読協力も効いていましたね」


「ありがとうございます」


「支援先からの反応も、社交界に響いております。特に北方施療院の一文は強い」


「王妃様はまだ覚えていてくださったのか、ですね」


「ええ。あれは誰にも作れない言葉です」


 夫人は紅茶を置いた。


 その所作が、少しだけ間を作る。


 セレスティアは、嫌な予感がした。


 ローゼン侯爵夫人が、こういう間を置くときは、たいてい厄介な話が来る。


「ところで」


 来た。


「はい」


「宰相閣下との噂が出始めています」


 セレスティアは、紅茶を飲んでいなくてよかったと思った。


 飲んでいたら、確実にむせていた。


「……噂、ですか」


「ええ。恋の噂です」


 夫人は、あまりにも当然のように言った。


 セレスティアは、数秒ほど言葉を失った。


 王妃基金。

 損害返還。

 外部監査。

 追加処分。

 確認保留権。


 ここまで来て、なぜ恋の噂になるのか。


 いや、社交界だからだ。


 理解はできないが、理解はできる。


「事実ではありません」


 セレスティアは、少し早口で言った。


 ローゼン侯爵夫人は、わずかに目元を緩める。


「その反応は、少し危ないですわね」


「危ない?」


「否定が早すぎます」


「事実ではありませんので」


「ええ。そうおっしゃると思いました」


 夫人は、扇を開いた。


「ですが、社交界では事実かどうかより、語りやすいかどうかが先に立ちます」


 セレスティアは、額に手を当てたくなった。


 だが、我慢した。


「私と宰相閣下は、監査と改革案で関わっているだけです」


「その通りです」


「でしたら」


「その『だけ』を、社交界は信じません」


 きっぱりと言われた。


 セレスティアは、少しだけ肩を落とした。


「どう対応すべきでしょうか」


「まず、過剰に否定しないこと」


「なぜですか」


「過剰な否定は、燃料です」


 言い方が容赦ない。


「次に、仕事上の関係であることを、第三者も含めた形で見せること。宰相閣下と二人だけで進めているのではなく、会計室、法務局、王妃基金関係者、支援先、リリアナ様まで含めた公的な枠組みだと示し続けなさい」


「それは、今もしているつもりです」


「ええ。だから、その方針を続けるのです」


 ローゼン侯爵夫人は、少しだけ声を柔らかくした。


「ただし、もう一つ」


「何でしょう」


「あなた自身が、その噂に過剰に傷つかないことです」


 セレスティアは、返事に詰まった。


 傷つく。


 そう言われて初めて、自分が少し傷ついていることに気づいた。


 カインとの関係を、勝手に恋の噂にされる。


 それは、恥ずかしいから嫌なのだと思っていた。


 でも、それだけではない。


 自分が必死に積み上げてきた仕事を、また別の物語に回収される感じがするのだ。


 王太子に捨てられた令嬢が、今度は王弟宰相に見初められる。


 それは、読者受けのよい物語かもしれない。


 社交界も好むだろう。


 だが、セレスティアにとっては違う。


 彼女は、誰かに選ばれるためにここまで来たのではない。


 自分の名前を取り戻すために来た。


 王妃基金を立て直すために来た。


 それを、恋の話だけにされるのは、少し悔しい。


「……私は」


 セレスティアは、ゆっくり言った。


「また、誰かとの関係で私の価値を語られることが嫌なのだと思います」


 ローゼン侯爵夫人は、静かに頷いた。


「よく分かっているではありませんか」


「王太子殿下の婚約者だったから、ではなく。宰相閣下に重用されているから、でもなく。私は、私の仕事で評価されたいです」


「その気持ちは、正しい」


 夫人は、扇を閉じた。


「ですが、覚えておきなさい。社交界は、人を単純な物語にしたがります。そこで大切なのは、物語にされないことではありません。物語に飲み込まれないことです」


「飲み込まれないこと」


「ええ。噂は出ます。止めきれません。けれど、あなたが自分の仕事を続け、文書を残し、関係者を広く巻き込めば、噂はあなたの全部にはなりません」


 セレスティアは、その言葉を胸に落とした。


 噂は全部ではない。


 評価も全部ではない。


 それは、悪評でも好意的な噂でも同じなのだろう。


「ありがとうございます」


「どういたしまして。それから」


 ローゼン侯爵夫人は、少しだけ面白がるような目をした。


「宰相閣下があなたを大切にしていること自体は、否定しても無駄ですわよ」


 セレスティアは、今度こそ固まった。


「ローゼン侯爵夫人」


「恋かどうかは別として、です」


「……それは」


「そこまで否定しない方がよろしい」


 夫人は、楽しそうに紅茶を飲んだ。


 セレスティアは、返す言葉を見つけられなかった。


 その日の午後、噂は別の形で宰相府にも届いた。


 ミリアが、少し困った顔で書類を持ってきた。


「セレスティア様。社交界から次回慈善茶会の見学希望が増えているのですが」


「よい傾向ですね」


「はい。ただ……一部、宰相閣下とセレスティア様が共同で挨拶されるのか、という問い合わせが」


 セレスティアは目を閉じた。


 来た。


「共同挨拶は予定していません」


「ですよね」


 ミリアも少し苦笑している。


「他にも、『王弟殿下が王妃基金改革を支えるセレスティア様をどうご評価されているか聞きたい』という遠回しな問い合わせが」


「それは慈善茶会の趣旨と関係ありません」


「私もそう思います」


 ミリアは、少しだけ声を落とした。


「でも、セレスティア様への注目が高まっているのは確かです」


「はい」


「困りますか」


 セレスティアは、すぐには答えられなかった。


 困る。


 けれど、完全に困るだけでもない。


 注目が集まれば、王妃基金の改革も進めやすい。

 支援先の声も届きやすい。

 寄付者も増える。


 しかし、自分自身が噂の中心になるのは怖い。


 また、誰かの物語にされる。


 セレスティアは、ゆっくり答えた。


「困ります。でも、利用できる部分は利用します」


 ミリアが微笑む。


「ローゼン侯爵夫人みたいなことをおっしゃいますね」


「影響を受けていますね」


「よい影響です」


 そこへ、カインが部屋に入ってきた。


「何の話だ」


 ミリアが一瞬、固まる。


 セレスティアも少しだけ背筋を伸ばした。


「次回慈善茶会への問い合わせについてです」


「そうか」


 カインは資料を受け取る。


 目を通して、わずかに眉をひそめた。


「共同挨拶?」


「予定しておりません」


「当然だ」


 即答だった。


 なぜか、その即答に少しだけ胸がちくりとした。


 いや、当然でよい。


 当然で。


 セレスティアは自分に言い聞かせた。


 カインは、さらに問い合わせを読む。


「私が君をどう評価しているか聞きたい、か」


「慈善茶会とは関係ありませんので、断ります」


「いや」


 カインが言った。


 セレスティアは顔を上げる。


「答えは用意しておけ」


「答えるのですか」


「恋の噂に答える必要はない。だが、監査補助者としての君の評価を問われた場合は、公的に答えた方がいい」


 セレスティアは、少しだけ戸惑った。


「どのように」


 カインは、あまりにも淡々と言った。


「セレスティア・エルフォードは、王妃基金改革において不可欠な実務能力を示している。特に、支援目的、会計区分、関係者向け報告の整備において、王宮として高く評価している」


 部屋が静かになった。


 ミリアが、少し目を輝かせている。


 セレスティアは、何と言えばいいか分からなかった。


 公的評価。


 そう分かっている。


 恋の話ではない。


 だが、カインの口から自分が高く評価されていると聞くのは、思った以上に胸に来た。


「……ありがとうございます」


 どうにかそれだけ言う。


 カインは、平然としていた。


「事実だ」


 まただ。


 この人は、こういうことを平然と言う。


 社交界が噂にする理由が、少しだけ分かってしまうのが悔しい。


 セレスティアは咳払いした。


「では、その方向で回答案を作ります」


「ミリア、草案を」


「はい」


 ミリアは嬉しそうに筆を取った。


 セレスティアは、少しだけ恨めしく思った。


 ミリアも最近、楽しむところを覚え始めている。


 悪い傾向ではない。


 たぶん。


 夕方、リリアナから手紙が届いた。


 今日は、いつもの規程に関する質問票ではなかった。


『お姉様へ』


『社交界で、お姉様と宰相閣下の噂が出ています』


 直球だった。


 セレスティアは、思わず便箋を机に伏せそうになった。


 だが、読まないわけにもいかない。


 続きを読む。


『私が言うことではないかもしれませんが、勝手な噂は嫌だと思います。私も以前、お姉様は冷たいとか、殿下にふさわしくないとか、周りの言葉をそのまま聞いていました』


『今思えば、そういう言葉でお姉様を見ていたことも、私は悪かったと思います』


『でも、宰相閣下がお姉様を大切にしていることは、少し分かります。恋かどうかは、私には分かりません。分からないので、分からないと書きます』


 セレスティアは、そこで力が抜けた。


 リリアナ。


 そこでも「分からない」と書くのか。


 しかも、妙に律儀に。


 最後まで読む。


『ただ、お姉様が誰かとの噂だけで語られるのは嫌です。お姉様は、報告書を作った方です。王妃基金を戻している方です。私に分からないと言うことを教えてくださった方です』


『それは、噂とは別に残ると思います』


『明日も規程を読みます。あと、噂はあまり読みません』


 セレスティアは、便箋を持ったまましばらく黙った。


 胸の奥が、じんわり温かい。


 妹が、自分を噂から守ろうとしている。


 昔なら信じられなかった。


 リリアナは、社交界の華やかな言葉に流される側だった。


 その彼女が今、噂と仕事を分けて見ようとしている。


 分からないものを、分からないと書きながら。


 セレスティアは、返事を書いた。


『リリアナへ』


『噂について知らせてくれてありがとう。勝手な噂は、確かにあまり気持ちのよいものではありません』


『ですが、噂をすべて止めることはできません。今は、王妃基金の仕事を続け、公的な関係者を広く明確にし、私一人や宰相閣下お一人の物語にしないことが大切だと思っています』


『あなたが「噂とは別に残る」と書いてくれたことは、嬉しく受け取りました』


 少し迷ってから、次を書いた。


『宰相閣下が私を大切にしてくださっているかどうかについては、私にもまだ分かりません。分からないので、分からないと書きます』


 書いた後、顔が熱くなった。


 これは送ってよいのか。


 いや、リリアナが書いてきたのだから、返してもいい。


 たぶん。


 最後に書く。


『明日も規程を読みましょう。噂はほどほどに』


 署名する。


 封をする前に、もう一度読み返し、少し悩んだ。


 だが、そのまま封じた。


 夜、セレスティアは覚書を書いた。


『社交界が、宰相閣下との噂をし始めた』


 その一文を書くだけで、少し顔が熱い。


 次に。


『私は、また誰かとの関係で私の価値を語られることが嫌なのだと思う』


 さらに。


『噂に飲み込まれない。仕事を続ける。関係者を広く見せる』


 少し手が止まる。


 夕方のカインの言葉が蘇る。


 王宮として高く評価している。


 事実だ。


 その言葉を、覚書に残すか迷った。


 残せば、恥ずかしい。


 しかし、覚書は感情の帳簿だ。


 恥ずかしいことも残していい。


 そう昨日決めたばかりだ。


 セレスティアは、ゆっくり書いた。


『宰相閣下に、公的に高く評価していると言われた。嬉しかった。少し困った』


 書いた瞬間、扉の外から声がした。


「寝ろ」


 セレスティアは、反射的に覚書を隠しかけた。


 扉は閉まっている。


 見えているはずがない。


 なのに、なぜか見られた気がした。


「はい」


「今日は妙に返事が遅いな」


「気のせいです」


「そうか」


 間があった。


「噂のことは、気にしすぎるな」


 セレスティアは、手を止めた。


 やはり知っている。


 当然だ。


 宰相府にまで問い合わせが来ているのだから。


「はい」


「完全に無視もしなくていい。利用できるものは利用しろ」


「ローゼン侯爵夫人にも同じことを言われました」


「あの人は正しいことをよく言う。言い方は鋭いが」


「宰相閣下も似ています」


「そうか?」


「はい」


 扉の向こうで、少しだけ沈黙があった。


「それは光栄だな」


 低い声だった。


 なぜか、胸が少しだけ跳ねた。


 セレスティアは、覚書を閉じた。


「寝ます」


「ああ」


 灯りを落とす。


 暗い部屋の中で、噂のざわめきがまだ遠く聞こえる気がした。


 社交界は、自分をまた物語にしようとしている。


 けれど、自分はもう、誰かの婚約者だったから価値があるわけではない。


 誰かに見初められたから価値があるわけでもない。


 自分の名前で確認し、文書を作り、支援先へ金を戻した。


 それは、噂とは別に残る。


 リリアナが言ったように。


 そして、カインがくれた評価もまた、噂とは別に残しておきたいと思った。


 その気持ちには、まだ名前をつけない。


 今は、まだ。

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