第49話 報告書は、誰かの冬へ届きました
返還金再配分報告書第一号が出た翌日、宰相府にはいつもより多くの手紙が届いた。
貴族からの意見書ではない。
王太子府からの照会でもない。
商会からの弁明でも、公爵家からの抗議でもない。
支援先からの手紙だった。
最初に届いたのは、北方施療院からだった。
封筒は厚くない。紙も上等ではない。王都の貴族が使うような香りのついた便箋でもなく、少しざらついた実用紙だった。
だが、その封筒を手に取った瞬間、セレスティアは背筋を伸ばした。
王妃基金の本来の相手から届いた手紙。
それは、どんな貴族の意見書よりも重かった。
ミリアが開封手続きを済ませる。
セレスティアは、ゆっくり読み始めた。
『王妃基金御担当者各位』
『このたび、暖房支援追加のご連絡をいただきました。当院では昨冬、灯油の節約のため夜間診療室の暖房時間を短縮しておりました。患者には毛布を増やし、看護人も交代で湯を運びましたが、寒さの厳しい日は薬湯の温度がすぐに下がり、十分とは言えませんでした』
そこまで読んで、セレスティアは一度目を閉じた。
薬湯の温度が下がる。
帳簿には出てこない現実だった。
金貨や銀貨の差額表には、「灯油支援一部翌期繰り越し」としか書かれない。
だが、その裏には、冷めた薬湯がある。
湯を運ぶ看護人がいる。
毛布を増やされた患者がいる。
彼女は続きを読んだ。
『今回の追加支援により、夜間診療室の暖房時間を戻せる見込みです。王妃基金の名を聞いて、年配の患者が「王妃様はまだ覚えていてくださったのか」と申しました』
その一文で、ミリアが小さく息を呑んだ。
セレスティアも、胸の奥が熱くなるのを感じた。
亡き王妃の名は、まだ届いている。
王宮の中では、基金は帳簿になり、茶会になり、署名欄になり、処分案になっていた。
けれど、支援先では違う。
王妃様はまだ覚えていてくださったのか。
その言葉が、すべてだった。
セレスティアは、手紙を机に置いた。
しばらく、誰も口を開かなかった。
カインが静かに言った。
「報告書を出した意味があったな」
「はい」
声が少し震えた。
「ありました」
次に届いたのは、王都東区孤児院からの手紙だった。
こちらは、院長の筆跡に加えて、子どもたちの絵が同封されていた。
蜂蜜の壺。
果物。
湯気の立つ皿。
絵は拙い。
だが、どれも妙に明るかった。
手紙にはこうあった。
『冬の食事に甘みが加わると、子どもたちの顔が変わります。蜂蜜や保存果実は贅沢品ではなく、食欲の落ちる子に一口食べさせるための助けになります』
セレスティアは、その一文を何度も読んだ。
蜂蜜は、茶会の菓子だけではない。
昨日、報告書にそう書いた。
今日、その意味が別の言葉で返ってきた。
甘みが、子どもの顔を変える。
その現実を、自分はどこまで分かっていただろう。
西部養蜂組合からの手紙は、さらに素朴だった。
『継続購入再開の知らせを受け、組合員一同、安堵しております。一度きりの茶会用注文ではなく、来季以降の見通しが立つことが何よりありがたいです。蜂を育てるには年をまたぐ準備が必要です。王都で召し上がられる菓子のためだけでなく、私どもの生活を見ていただけたことに感謝いたします』
生活。
その言葉が、静かに残った。
王妃基金は、派手な善行のためにあるのではない。
誰かの生活を途切れさせないためにある。
セレスティアは、三通の手紙を並べた。
北方施療院。
王都東区孤児院。
西部養蜂組合。
返還金は、紙の上で配分された。
だが、今日、それは人の言葉になって戻ってきた。
報告書第一号の反応は、社交界にも広がった。
最初は、いつものような噂だった。
「ラドクリフ商会、五年も外されたそうですわ」
「寄付ではなく損害返還と明記されたとか」
「厳しいわね」
「でも、当然ではなくて?」
「返還金が施療院や孤児院へ行くと書かれていたわ」
「蜂蜜が、茶会の菓子ではなく栄養補助品として扱われているの、少し驚きました」
「私たち、今まで何を見ていたのかしら」
その最後の言葉は、いくつかの茶会で不思議な沈黙を生んだ。
社交界は、反省を嫌う。
誰かを責めるのは得意だが、自分たちが何を見落としてきたかを考えるのは苦手だ。
けれど、返還金再配分報告書は、責める言葉だけで作られていなかった。
ラドクリフ商会の責任は明記されている。
不適切差額処理も書かれている。
だが、それ以上に、金がどこへ戻るのかが書かれていた。
灯油。
栄養補助品。
継続購入。
その具体性が、社交界の夫人たちの会話を少しだけ変えた。
ローゼン侯爵夫人の茶会では、報告書の概要版が回し読みされた。
ある若い伯爵夫人が、少し恥ずかしそうに言った。
「私、北方蜂蜜の菓子を珍しいと思っていただけでした」
ローゼン侯爵夫人は、責めなかった。
「珍しいと思うこと自体は悪くありません」
「そうなのですか」
「ええ。ただ、その珍しさの向こうに誰がいるのかを忘れると、茶会は飾りになります」
夫人は、報告書を扇の先で軽く示した。
「これは、その向こうを思い出させる紙です」
別の夫人が言った。
「セレスティア様は、ずいぶん強くなられましたわね」
ローゼン侯爵夫人は、紅茶を一口飲んでから答えた。
「強くなられたのではありません。ようやく、強さが見える場所に立たれたのです」
その言葉は、また静かに広がった。
セレスティア・エルフォードは、ただの捨てられた元婚約者ではない。
王妃基金を立て直す者。
傷つけられても、制度と言葉で戻していく者。
そういう評価が、社交界で形を取り始めていた。
王太子府にも、報告書第一号は届いた。
ジュリアスは、概要版と詳細版の両方を読んだ。
以前なら、詳細版は事務方に回していただろう。
今は、最後まで読んだ。
時間はかかった。
何度か同じ行へ戻った。
それでも、閉じなかった。
隣にはリリアナがいた。
彼女も同じ概要版を読んでいる。
自分の名前が末尾に小さく載っていることに、まだ少し慣れない様子だった。
『概要版試読協力:リリアナ・エルフォード』
ジュリアスは、その行を見た。
「君の名前がある」
「はい……まだ、変な感じがします」
「誇っていいと思う」
リリアナは、少し目を伏せた。
「誇るというより、怖いです」
「怖い?」
「はい。私が読んで分かるように直したものを、他の方も読むのですよね。間違えられないと思うと、怖いです」
ジュリアスは、以前の自分ならここで「気にしなくていい」と言っただろうと思った。
だが、それは違う。
気にしなくていいのではない。
気にするべきなのだ。
だから彼は言葉を選んだ。
「怖いと思えるなら、次も確認できる」
リリアナは、驚いたように顔を上げた。
「殿下」
「私も、今は少し怖い」
ジュリアスは、報告書を見た。
「これまで、自分が見なかったものが、こうして紙になるのが」
リリアナは黙った。
彼の声には、軽さがなかった。
王太子としての華やかな言葉ではなく、一人の男としての疲れた正直さがあった。
「でも、見ない方がもっと怖いですね」
リリアナが言うと、ジュリアスは小さく頷いた。
「ああ」
二人はしばらく、同じ報告書を読んだ。
華やかな未来の話ではない。
茶会の花でも、舞踏会の衣装でもない。
灯油と蜂蜜と保存果実の話。
だが、その紙を一緒に読む時間は、以前のどんな甘い会話よりも、少しだけ本物に近かった。
宰相府では、報告書第一号への反応が次々に整理されていた。
支援先からの返礼。
社交界からの問い合わせ。
王太子府からの追加学習資料請求。
複数の貴族夫人からの「次回慈善茶会で支援先説明を聞きたい」という申し出。
ミリアは、嬉しそうに書類を分類していた。
「王妃基金への寄付申し出も増えています。ただ、今回から使途確認を求める方が多いです」
セレスティアは頷いた。
「よい傾向です」
「以前なら、使途を聞くのは失礼だと思われていたかもしれません」
「今後は、失礼ではなく責任にしたいですね」
ローレン副監が横から言った。
「寄付者向けの使途報告も整える必要がありますね」
「はい。返還金再配分報告書を基礎にできます」
オルドも資料を見ながら言う。
「ただし、寄付者が使途を細かく指定しすぎると、基金の公平性が崩れます。そこは線引きが必要です」
「寄付者の関心と、基金の判断を分ける」
セレスティアが言うと、カインが短く頷いた。
「また仕事が増えたな」
「必要な仕事です」
「そう言うと思った」
そのやり取りに、ミリアが小さく笑った。
少し前なら、宰相府の空気はもっと張り詰めていた。
今も重い問題は山ほどある。
父の追加処分。
商会の未提出帳簿。
王太子府の再監査。
公爵家の会計承認権停止。
だが、報告書第一号が出たことで、部屋の中にほんの少しだけ前向きな空気が生まれていた。
責任を追うだけではない。
戻すべきものを戻している。
その実感があった。
セレスティアは、支援先からの手紙を丁寧に束ねた。
「この三通は、報告書第一号の後続資料として保管してください」
ミリアが頷く。
「はい」
少し迷ってから、セレスティアは言った。
「写しを、リリアナにも送ってください」
ミリアが顔を上げる。
「リリアナ様に?」
「はい。試読協力者として、報告書がどう届いたか知る権利があります」
カインが、こちらを見た。
反対はしない。
むしろ、少しだけ満足そうに見えた。
「いい判断だ」
セレスティアは静かに頷いた。
リリアナが返還金の行き先を見たいと言った。
なら、届いた言葉も見せるべきだ。
責任だけでなく、戻ったものも。
その日の夕方、セレスティアは一人で廊下を歩いていた。
支援先からの手紙の写しを届けた後、少しだけ休憩を取るようにとカインに追い出されたのだ。
追い出された、という表現がふさわしい。
「休憩しろ」
「まだ整理が」
「休憩しろ」
「一通だけ」
「廊下を一周してこい」
結局、廊下を歩かされている。
王宮の西回廊は、夕方になると人通りが少ない。
窓の外には庭が見え、斜めに差し込む光が石床を淡く染めていた。
セレスティアは、歩きながら少しだけ息を吐いた。
報告書第一号。
支援先からの手紙。
社交界の反応。
どれも、嬉しい。
けれど、同時に怖い。
評価が上がる。
名前が広がる。
王妃基金の立て直し役として見られ始める。
それは、かつて王太子妃候補として期待されていた頃とは別の重さだった。
また誰かの期待を背負いすぎるのではないか。
そう思ってしまう。
窓辺で足を止めていると、後ろから声がした。
「休憩の仕方が下手だな」
振り返ると、カインがいた。
「宰相閣下こそ、お仕事は」
「君を追い出したついでに、私も追い出された」
「誰にですか」
「ミリアに」
セレスティアは思わず笑った。
「ミリア、強くなりましたね」
「君の周りは強くなる傾向がある」
「私のせいでしょうか」
「君が、言っていい空気を作るからだろう」
その言葉に、セレスティアは少し黙った。
言っていい空気。
かつて、自分が一番ほしかったものだった。
分からないと言っていい。
確認できないと言っていい。
怖いと言っていい。
おかしいと言っていい。
それが少しずつ周囲に広がっているのだとしたら。
それは、報告書の数字以上に大切な変化かもしれない。
カインが隣に立つ。
二人はしばらく庭を見ていた。
沈黙は、重くなかった。
以前なら、上位者の隣で黙っているだけで緊張しただろう。
今は、不思議と落ち着く。
カインは、余計な慰めを言わない。
大丈夫だとも、頑張れとも、許せとも言わない。
ただ、必要な時に線を引く。
止める。
寝ろと言う。
それが、今のセレスティアにはとてもありがたかった。
「報告書第一号」
カインが言った。
「よくできていた」
「ありがとうございます」
「支援先からの手紙を読んだ時の顔は、少し危なかったが」
「危ない?」
「全部背負い直す顔だった」
セレスティアは、言葉に詰まった。
「……そんな顔をしていましたか」
「していた」
「自覚がありませんでした」
「だから言っている」
カインは、庭を見たまま続けた。
「王妃基金の信頼回復は、君一人の仕事ではない」
「はい」
「王妃の遺志も、君一人で背負うものではない」
「はい」
「支援先からの感謝も、君一人で受け取るものではない」
セレスティアは、胸の奥にその言葉を入れた。
感謝も、一人で受け取るものではない。
責任だけでなく、感謝も。
その考えは、新しかった。
「では、誰と受け取ればよいのでしょう」
自然に問いが出た。
カインは少しだけこちらを見た。
「関わった者全員だ。会計室、法務局、ミリア、ローゼン夫人、リリアナ嬢、支援先。そして君」
最後に、きちんと自分も入れてくれた。
それが、少し嬉しかった。
「宰相閣下は?」
セレスティアが尋ねると、カインは一瞬だけ黙った。
「私も、多少は」
「かなり、では?」
「多少だ」
「そこは控えめなのですね」
「立場上な」
セレスティアは少し笑った。
夕方の光の中で、少しだけ肩の力が抜けた。
カインが低く言う。
「君は、よくやっている」
その言葉は、これまでのどの称賛とも違って聞こえた。
社交界の再評価とも違う。
父に認められたいと思っていた頃の飢えとも違う。
ただ、今ここで、今日の自分を見て言われた言葉だった。
セレスティアは、胸が熱くなるのを感じた。
「ありがとうございます」
それだけ答えた。
それ以上言うと、余計なものがこぼれそうだった。
カインも、それ以上は言わなかった。
二人はしばらく、夕方の庭を見ていた。
その夜、リリアナから手紙が届いた。
『お姉様へ』
『支援先からのお手紙の写しを読みました。北方施療院の「王妃様はまだ覚えていてくださったのか」という言葉で、少し泣きました』
『私は今まで、王妃基金を王宮の中のものだと思っていました。でも、本当は王宮の外へ届くものなのですね』
『概要版試読協力として名前が載ったことは、まだ怖いです。でも、今日初めて、少しだけ役に立てたのかもしれないと思いました』
『明日も規程を読みます。支援先報告書も読みます。分からないところは、また質問します』
セレスティアは、その手紙を読んで、静かに微笑んだ。
明日も規程を読みます。
その言葉は、もうリリアナの決まり文句のようになっていた。
だが、最初の頃とは意味が違う。
今のリリアナは、本当に読むつもりで書いている。
セレスティアは返事を書いた。
『リリアナへ』
『支援先からの手紙を読んだこと、よいと思います。王妃基金は、王宮の中で完結するものではありません。あなたの言う通り、王宮の外へ届くものです』
『試読協力は、役に立ちました。あなたが分かりにくいと感じた箇所を直したことで、概要版はよくなりました』
『怖さは残しておいてよいと思います。怖いから、次も確認できるのだと思います』
少し迷って、最後に書いた。
『明日も読みましょう。私も読みます』
署名する。
セレスティア・エルフォード。
その文字は、以前より少し柔らかく見えた。
覚書には、こう書いた。
『返還金再配分報告書第一号、支援先へ届いた』
次に。
『北方施療院。王妃様はまだ覚えていてくださったのか』
少し手が止まる。
それから。
『感謝も、一人で受け取るものではない』
最後に。
『宰相閣下に、よくやっていると言われた。社交界の評価とは違う重さだった』
書いてから、少し恥ずかしくなった。
消そうかと思った。
だが、残した。
これは覚書だ。
自分の感情の帳簿。
恥ずかしいことも、残していい。
扉の外から、いつもの声がした。
「寝ろ」
「はい」
「今日は、比較的素直だな」
「休憩したので」
「効果があるな」
「廊下一周制度を作りますか」
「君専用で」
セレスティアは笑った。
「それは少し困ります」
「必要なら作る」
「では、必要にならないよう寝ます」
「いい判断だ」
引き出しを閉じる。
灯りを落とす。
今日、返還金は支援先へ向かい始めた。
王妃基金の信頼は、まだ完全には戻らない。
けれど、最初の一歩は届いた。
社交界はセレスティアを再評価し始めている。
リリアナは、王宮の外を見るようになった。
カインとの距離も、少しだけ変わった気がする。
それが何なのか、今はまだ名前をつけない。
ただ、夕方の庭で並んで立った時間が、胸の中に静かに残っていた。




