第45話 商会主は、責任を銀貨のように滑らせました
ラドクリフ商会主エドガー・ラドクリフは、王宮へ来るには少し派手な服を着ていた。
深緑の上着。
金糸の刺繍が入った襟。
指には、宝石のついた太い指輪が二つ。
商人としては品がよい方なのだろう。
だが、宰相府の聞き取り室では、その装いが少し浮いて見えた。
ここは茶会ではない。
交渉の応接室でもない。
王妃基金関連取引に関する正式聴取の場である。
エドガーは、入室すると丁寧に礼をした。
「ラドクリフ商会、エドガー・ラドクリフにございます。本日は、王宮よりのお呼び出しを受け、参上いたしました」
声は柔らかい。
表情も穏やかだ。
だが、セレスティアはその目を見て、すぐに分かった。
この男は、怯えている。
そして、怯えながら計算している。
聞き取り室には、カイン、法務官オルド、王宮会計室のローレン副監、記録官ミリア、そしてセレスティアがいた。
セレスティアは主尋問者ではない。
今日の役目は、過去の慈善茶会資料と取引記録の照合補助。
それでも、商会主の視線は何度か彼女へ向いた。
値踏みするように。
探るように。
使える隙を見つけようとするように。
セレスティアは、机の上の資料から目を逸らさなかった。
今日、自分は揺れるかもしれない。
昨夜、そう書いた。
だからこそ、最初に決めている。
言葉を感情で受けない。
相手の言い換えに飲まれない。
確認したものと、確認していないものを分ける。
商会の責任と、公爵家の責任と、王太子府の責任を分ける。
混ぜない。
それが、今日の自分の役目だった。
オルドが聴取開始を宣言する。
「これより、ラドクリフ商会主エドガー・ラドクリフ殿への正式聴取を開始します。対象は、王妃基金関連取引における単価差、差額処理、エルフォード公爵家および王太子府との調整記録です」
ミリアの筆が動き始める。
オルドが問う。
「ラドクリフ商会は、過去五年にわたり、王妃基金関連行事および支援事業に関する物資を納入していましたね」
「はい。北方蜂蜜、保存果実、薬草、香茶、布地、灯油などを中心に、誠心誠意お納めしてまいりました」
誠心誠意。
美しい言葉だった。
ローレン副監が、すぐに一枚の表を差し出す。
「では、この単価差について説明してください。こちらは王妃基金側の購入帳簿。こちらはラドクリフ商会側の納品控え写しです。同一日、同一品目、同一数量にもかかわらず、単価が異なります」
エドガーは表を受け取り、目を通した。
表情は大きく崩れない。
だが、指輪のついた指が一瞬だけ止まった。
「これは、輸送費、保管費、品質選別費を含めた総合単価でございます」
予想通りの答えだった。
ローレン副監は表情を変えない。
「その内訳書は」
「持参しております」
エドガーは、後ろに控えていた番頭へ合図した。
番頭が厚い書類束を出す。
ローレン副監が受け取り、数枚めくった。
すぐに眉を寄せる。
「この内訳書、作成日が昨日ですね」
エドガーの笑みが、ほんの少し硬くなった。
「王宮より照会を受け、急ぎ過去資料を整理したものでございます」
「元資料は」
「商会内の各部署控えをもとに」
「元資料そのものを提出してください」
エドガーは、わずかに沈黙した。
「一部、倉庫ごとに保管されており、本日すべては」
カインが口を開いた。
「照会状には、過去五年分の関連帳簿および明細を持参せよと書いた」
静かな声だった。
エドガーは、深く頭を下げる。
「申し訳ございません。商会の記録は膨大でございまして」
「膨大なのは理由にならない」
カインは言った。
「王妃基金の金も膨大に消えている可能性がある」
聞き取り室の空気が冷えた。
エドガーの額に汗が滲む。
オルドが続けた。
「エルフォード公爵家会計室から、『補』帳簿が発見されています。そこには、ラドクリフ商会との単価差が、王府補填、公爵家交際費、商会手数料に振り分けられた記録があります」
エドガーの目が動いた。
初めて、明確に動揺した。
おそらく、そこまで出ているとは知らなかったのだ。
彼は、すぐに柔らかい表情を戻そうとした。
「商会手数料という表現については、先方の帳簿上の書き方かと存じます。当方としては、あくまで正当な取扱手数料で」
「正当な取扱手数料なら、なぜ王妃基金側の請求書に明記されていないのですか」
ローレン副監が即座に問う。
「包括単価で」
「包括単価とする合意書は」
「……エルフォード公爵家会計室との慣例でございました」
慣例。
また、美しくないものを包む言葉が出た。
セレスティアは、その言葉を書き留めた。
慣例。
注意すべき言葉だ。
便利だからという理由で、記録が薄くなる場所に現れる。
オルドが問う。
「その慣例は、誰と確認しましたか」
「公爵家会計室のマルクス殿を通じて」
「グレアム公爵本人とは」
エドガーは、一瞬だけ口を閉じた。
「直接、細かな単価までは」
「細かな単価ではなく、差額を調整費として用いる仕組みについてです」
エドガーは、唇を湿らせた。
「……概要については、ご認識があったものと理解しております」
ミリアの筆が走る。
概要については認識があった。
エルフォード公爵家側で、マルクスが言った言葉と重なる。
父の責任が、またひとつ濃くなる。
セレスティアは胸の奥が痛んだ。
だが、ペンを持つ手は止めなかった。
エドガーは、そこから少しずつ言い方を変え始めた。
最初は、正当な手数料だと言った。
次に、公爵家会計室との慣例だと言った。
その次には、王太子府側からも求められていたと口にした。
「王太子府から?」
オルドが聞き返す。
エドガーは、深く頷いた。
「はい。王太子府の行事は、急な変更が多うございました。茶会の花、菓子、贈答品、香茶。納品直前の差し替えや追加も多く、その都度、通常単価では対応が難しい場面がございました」
「それが王妃基金関連取引の単価差とどう関係しますか」
「王太子府側より、全体で調整してほしいとのご要望がありました」
「誰から」
エドガーは、慎重に答えた。
「侍従長補佐のアルノー殿、また会計責任者バゼル殿を通じて」
バゼルの名が出た。
アルノーの名も。
王太子府の責任が、また具体的になる。
「全体で調整とは、王妃基金で購入する物資の単価を上げ、その差額で王太子府の別費用を補填するという意味ですか」
オルドの声は容赦がない。
エドガーは、すぐには答えなかった。
「そこまで露骨な表現ではございません」
「実態を聞いています」
「……結果として、そのような処理になったことはございます」
また記録される。
セレスティアは、資料の一枚を開いた。
王太子府春の交流茶会。
香茶と保存果実の追加納品。
表向きは王妃基金関連の地方産品紹介として処理されている。
だが、実際の茶会目的は若手貴族交流。
支援先説明は省かれていた。
まさに改革案で問題にした部分だ。
オルドが、セレスティアへ視線を向けた。
「セレスティア様。照合補足をお願いします」
セレスティアは頷き、資料を示した。
「こちらの春の交流茶会について、私が王太子府在籍時に作成した原案では、北方保存果実は越冬支援の報告を伴う品目でした。案内状にも支援目的を記載する予定でした」
エドガーが彼女を見る。
セレスティアは続ける。
「しかし、実施時の案内状では支援目的が削除されています。さらに保存果実の納品単価が、私の原案作成時の見積もりより上がっています」
ローレン副監が資料を確認する。
「原案見積もりでは一箱銀貨二枚。実施帳簿では銀貨二枚五十銅貨。商会控えでは銀貨二枚十銅貨」
差額がある。
エドガーは、そこで口を開いた。
「セレスティア様の原案は、非常に厳密でございました。しかし、現場ではその後、王太子府様から華やかさを増したいとのご要望があり、品質を上げた品を」
「品質を上げた記録はありますか」
セレスティアは静かに尋ねた。
エドガーは、少しだけ目を細めた。
「当時の品は、商会として最良の」
「記録はありますか」
同じ問いを繰り返す。
エドガーは、笑みを保てなくなりつつあった。
「品質選別は、現場判断で」
「では、私の原案より単価が上がった理由を、品質向上として確認できる記録はないのですね」
聞き取り室が静まり返る。
エドガーは、やむなく答えた。
「現時点では、確認できる記録を持参しておりません」
ミリアが記録する。
セレスティアは資料を閉じた。
「では、私の原案を理由に、実施時の単価差を正当化することはできません」
はっきり言った。
エドガーの顔色が少し変わる。
商人は、彼女の過去資料を盾にしようとした。
セレスティア様の原案が厳密だった。
現場では調整が必要だった。
つまり、彼女の計画も差額の一因だった。
そういう方向へ持っていきたかったのだろう。
だが、線は引いた。
原案と実施。
見積もりと請求。
品質向上の主張と記録の有無。
混ぜない。
カインが、短く言った。
「続けろ」
オルドが頷き、次の資料へ進む。
聴取が進むにつれ、エドガーの言葉はさらに滑り始めた。
「王太子府から求められた」
「公爵家会計室の慣例だった」
「商会としては便宜を図った」
「地方産品を安定供給するには、多少の調整が不可欠だった」
「セレスティア様時代の厳密な資料に合わせるには、現場で柔軟な処理が必要だった」
責任が、銀貨のように机の上を滑っていく。
王太子府へ。
公爵家へ。
商会の現場へ。
そして、時折セレスティアの名へ。
だが、そのたびにオルドとローレン副監が数字を置いた。
カインが言葉を切った。
セレスティアが資料を分けた。
銀貨は、やがて滑る場所を失っていく。
オルドが問う。
「ラドクリフ商会は、差額の一部を商会手数料として受け取りましたか」
エドガーは長く黙った。
「……通常より高い手数料を受け取ったことはございます」
「王妃基金名義の取引であることを知っていましたか」
「はい」
「支援目的のある金だと認識していましたか」
「認識しておりました」
「では、その金額が王太子府の別費用、公爵家交際費、商会手数料へ回ることに問題があるとは考えませんでしたか」
エドガーは、目を伏せた。
「商会としては、発注元のご意向に従ったまでで」
「違います」
セレスティアの声が、思わず出た。
部屋の視線が彼女へ集まる。
カインが少しだけ目を細めた。
止めるかどうかを見ている。
セレスティアは、息を整えた。
感情で押し切らない。
言葉を選ぶ。
「発言してもよろしいでしょうか」
カインが頷いた。
「許可する」
セレスティアは、エドガーを見た。
「ラドクリフ商会は、単なる発注先ではありません。地方産品支援の流通を担う業者として、王妃基金の目的を説明され、適正価格と継続購入の重要性を共有していました」
エドガーの目が動く。
「それは、セレスティア様が担当されていた頃の」
「はい。私が担当していた頃の資料にも残っています」
セレスティアは、一冊の写しを開いた。
「こちらは、私が作成したラドクリフ商会向け取引確認書です。そこには、王妃基金関連取引では、支援目的、購入先への適正支払、手数料の明記が必要であると記載しています。受領欄には、ラドクリフ商会の確認印があります」
ローレン副監が写しを受け取る。
「確かに、商会確認印がありますね」
エドガーは、黙った。
セレスティアは続ける。
「つまり、商会は王妃基金の目的を知っていました。発注元の要望に従っただけ、とは言えません」
言葉は静かだった。
だが、はっきりしていた。
「公爵家と王太子府の責任は別に追及されるべきです。しかし、商会が目的を知りながら差額処理に応じた責任も、別に存在します」
エドガーは、初めて目に見えて肩を落とした。
責任をどこかへ滑らせようとしていた商人に、机の上で線が引かれた。
公爵家。
王太子府。
商会。
それぞれの責任は、混ざらない。
混ぜさせない。
聴取の終盤、エドガーは一通の追加資料を出した。
それは、商会内部の手控えだった。
王太子府、エルフォード公爵家会計室、ラドクリフ商会の三者間で行われた会合の記録。
正式議事録ではない。
番頭が作った内輪の控えに近い。
だが、そこには日付と出席者、簡単な内容が残されていた。
『王府春茶会不足分、北方産品紹介費にて調整可能』
『公爵家側了承。セレスティア様式資料は細かすぎるため、今後は包括単価処理』
『王太子府側、華やかさ優先。支援説明は簡略化』
その一文を読んだ瞬間、セレスティアの胸が冷えた。
セレスティア様式資料は細かすぎる。
また、その言葉。
細かすぎる。
厳密すぎる。
重い。
そう言って、彼女の確認を外し、包括単価処理へ移った。
その結果、差額が生まれた。
エドガーは、苦しそうに言った。
「当方としても、王太子府様、公爵家様双方のご意向がありまして」
オルドが問う。
「この会合に、グレアム公爵本人は出席していましたか」
「この回には、出席されておりません」
「では誰が」
「公爵家側はマルクス殿。王太子府側はアルノー殿。商会側は私と番頭です」
「グレアム公爵への報告は」
「マルクス殿が、当主には報告すると」
「あなた自身がグレアム公爵へ説明したことは」
エドガーは、また黙った。
「ございます」
ついに、そう言った。
会議室の空気が変わる。
「いつ」
「別日、エルフォード公爵邸にて。詳細な金額ではなく、包括単価処理の利便性と、王太子府関連費の調整が可能になる旨を」
「グレアム公爵は何と」
エドガーは、目を伏せた。
「『家と王太子府が滞らぬならよい』と」
ミリアの筆が止まらない。
セレスティアは、資料から目を離さなかった。
父の言葉。
家と王太子府が滞らぬならよい。
そのために、王妃基金が滞った。
支援先への金が削られた。
自分の名前が使われた。
怒りはある。
だが、今は泣く時間ではない。
セレスティアは、静かに言った。
「その発言は、商会側手控えに残っていますか」
エドガーは苦い顔をした。
「……番頭の控えに」
「提出してください」
短く言った。
エドガーは、観念したように番頭へ合図した。
番頭が別の書類を出す。
そこには、荒い字で確かに記されていた。
『公爵曰く、家と王府滞らぬならよし。細目は会計室に任す』
セレスティアは、胸の奥がひどく痛んだ。
けれど、言葉は出た。
「保全してください」
オルドが頷く。
「保全します」
聴取が終わったのは、夕方近くだった。
エドガー・ラドクリフは、来たときより明らかに小さく見えた。
派手な刺繍の上着も、指輪も、今はどこか重荷のようだった。
彼は退室前に、セレスティアへ向かって一礼した。
「セレスティア様。商会として、あなた様の資料を軽んじたことは」
セレスティアは遮った。
「私個人への謝罪より、王妃基金と支援先への説明を準備してください」
エドガーは、言葉を失った。
「損害額の確定、差額の返還、取引先への補償、支援遅延への対応。それを先に」
彼女の声は冷静だった。
商会主は、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
彼が出ていくと、聞き取り室に長い沈黙が落ちた。
セレスティアは、手元の資料を閉じた。
指先が少し震えている。
カインが近くに来る。
「混ぜなかったな」
「混ぜそうになりました」
「だが、戻った」
「はい」
そう答えた瞬間、どっと疲れが出た。
父の言葉。
商会の言い逃れ。
自分の名を盾にしようとする声。
すべてが胸に残っている。
それでも、今日は最後まで立っていた。
ローレン副監が、差額表に新しい項目を加える。
「商会側手控えが出たので、グレアム公爵本人の認識は一段強くなります」
オルドも頷いた。
「追加処分検討は避けられません」
セレスティアは、静かに頷いた。
分かっている。
父への処分は、また重くなるかもしれない。
今日、自分もその証拠保全を求めた。
痛い。
だが、必要だった。
夜、セレスティアは覚書を書いた。
『ラドクリフ商会主聴取』
次に。
『商会は、公爵家と王太子府から求められた調整だったと主張した』
さらに。
『私の過去資料を盾にしようとした。原案と実施、見積もりと請求、品質向上の主張と記録の有無を分けた』
少し手が止まる。
父の言葉を書くべきか迷った。
だが、書いた。
『家と王府が滞らぬならよい。細目は会計室に任す』
その一文の下に、しばらく何も書けなかった。
やがて、最後に一行。
『そのために、王妃基金が滞った』
ペンを置く。
胸が痛い。
カインの声が、扉の外から聞こえた。
「寝ろ」
「今日は、少し難しいかもしれません」
正直に言った。
少し間があった。
「茶を持ってこさせる」
「ありがとうございます」
「資料は閉じろ」
「はい」
「覚書も、もう増やすな」
セレスティアは、机の上の紙を見た。
追加で書きたいことは、まだあった。
けれど、今日はもう十分だと思った。
「閉じます」
「よし」
彼女は引き出しを開け、覚書を重ねた。
小さな音を立てて閉じる。
灯りを落とす前に、机の上の差額表を一度だけ見た。
数字は冷たい。
言葉はもっと冷たいことがある。
けれど、冷たい数字と言葉をきちんと並べなければ、支援先へ温かいものは戻らない。
セレスティアは、深く息を吐いた。
明日、また続きが始まる。
責任を滑らせようとする者たちから、ひとつずつ事実を取り戻すために。




