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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第44話 商会主は、王宮へ呼び出されました

損害額の暫定集計が王宮へ上がった日の翌朝、空気は明らかに変わっていた。


 それまでの監査は、王妃基金の理念を取り戻すためのものだった。

 セレスティアの名を無断で使った者たちを追うものだった。

 王太子府と公爵家の歪んだ仕組みを正すものだった。


 だが、数字が出た瞬間、問題は別の重さを持ち始めた。


 金貨十九枚、銀貨八十二枚相当。


 しかも、それは過去一年分の一部にすぎない。


 五年分を全件照合すれば、金貨百枚を超える可能性がある。


 可能性。


 まだ確定ではない。


 しかし、王宮という場所では、可能性だけで人の顔色が変わることがある。


 特に、それが金と商会と王妃基金に関わる場合は。


 宰相府の会議室では、朝から追加処分に関する検討が行われていた。


 机の上には、三種類の資料が並んでいる。


 一つは、ラドクリフ商会関連取引の差額一覧。


 一つは、エルフォード公爵家『補』帳簿の写し。


 そしてもう一つは、王妃基金支援先への影響推定表だった。


 セレスティアは、その三つ目の資料を最も重く感じていた。


 差額一覧だけなら、まだ数字だ。


 金貨、銀貨、銅貨。


 冷たい単位で済む。


 けれど、影響推定表には、数字の先が書かれている。


『北方施療院 灯油支援一部翌期繰り越し』


『孤児院冬季栄養補助品 追加購入見送り』


『西部養蜂組合 継続購入量減少』


『乾燥薬草納入契約 単年度で停止』


 どれも、帳簿の端に小さく書かれるようなものではない。


 誰かの冬であり、誰かの食事であり、誰かの仕事だった。


 ローレン副監が、計算盤の横に手を置いた。


「現時点で確定できる損害額は、金貨十九枚、銀貨八十二枚相当。ただし、これは照合済み品目のみです。未照合分については推定扱いとし、確定額には含めません」


 カインが頷く。


「推定額は」


「過去五年分のうち、ラドクリフ商会関与が確認されている取引全体へ同程度の差額率が適用された場合、最大で金貨百十二枚前後。ただし、現時点ではあくまで上限推定です」


 オルドが淡々と続けた。


「法務上、追加処分の根拠にできるのは確定額と、差額発生の仕組みが確認された品目です。ただし、第三案留保事項――当主権限一部制限の検討を開始するには、十分な材料です」


 当主権限一部制限。


 その言葉が会議室に落ちるたび、セレスティアの胸はわずかに痛んだ。


 父の権限が、削られるかもしれない。


 エルフォード公爵家の中へ、王宮がさらに深く入るかもしれない。


 それは当然だと思う。


 でも、当然だと思うことと、痛まないことは違った。


 カインがセレスティアを見た。


「意見は」


 セレスティアは、資料を一度閉じた。


 数字を見続けていると、父への怒りと支援先への痛みが混ざりそうになる。


 混ぜない。


 この数週間で、彼女はそればかり学んできた。


「追加処分の検討開始は妥当だと思います」


 声は静かだった。


「ただし、当主権限制限の範囲は、確定損害額と、父本人の承認範囲が固まってからにすべきです。差額率による上限推定だけで踏み込むと、また争点がずれます」


 オルドが頷く。


「同意します」


 ローレン副監も言った。


「まず、ラドクリフ商会側の帳簿と証言が必要です。公爵家側の帳簿だけでは、差額がどこでどう作られたかの全体像が足りません」


 カインは、机の上の召喚状案に目を落とした。


「だから、商会主を呼ぶ」


 ラドクリフ商会。


 王都でも指折りの大商会であり、王宮や高位貴族家との取引も多い。


 表向きは堅実な商会だった。


 北方産品の輸送、保存果実の仕入れ、蜂蜜、薬草、灯油、布地。扱う品は広く、特に地方産品を王都へ運ぶ流通網に強みを持っている。


 王妃基金が地方産品支援を始めた頃から、ラドクリフ商会は頻繁に使われるようになった。


 最初は、便利だった。


 遠方の品をまとめて運べる。

 納期も早い。

 請求書も整っている。

 品質も安定している。


 セレスティアも、かつてはそう評価していた。


 だが今、その整いすぎた帳簿の裏に、差額が見つかっている。


「ラドクリフ商会主、エドガー・ラドクリフを王宮へ召喚する」


 カインの声は低い。


「任意聴取ではなく、王妃基金関連取引に関する正式照会だ。帳簿、納品控え、運搬費明細、品質選別費明細、王太子府およびエルフォード公爵家との取引記録を持参させる」


 オルドが確認する。


「召喚日は明日午前でよろしいですか」


「ああ。逃がすな」


「承知しました」


 ミリアが記録する筆の音が、いつもより鋭く聞こえた。


 セレスティアは、ラドクリフ商会の名を見つめた。


 父だけではない。


 王太子府だけでもない。


 商会。


 金の流れには、必ず運ぶ者、請求する者、受け取る者がいる。


 誰か一人の悪意ではなく、複数の都合が噛み合っていた。


 だからこそ、歪みは長く続いた。


 ラドクリフ商会へ召喚状が届いたのは、昼過ぎだった。


 王都南区にある本店は、商人たちが行き交う大通りに面している。


 三階建ての石造りの建物。


 入口には真鍮の看板が掲げられ、倉庫へ続く裏口には荷馬車が何台も並んでいる。


 商会主エドガー・ラドクリフは、その日も二階の応接室で取引先と会っていた。


 五十代前半。

 丸い体つきに、よく手入れされた口髭。

 柔らかい笑顔と、油断ならない目を持つ男だった。


 彼は、どんな相手にも丁寧だった。


 下級商人にも、貴族家の使者にも、港の荷運びにも。


 なぜなら、金はどこから流れてくるか分からないからだ。


 だが、王宮からの使者が来たと聞いた瞬間、その笑顔は少しだけ固まった。


「王宮から?」


「はい。宰相府および王宮会計室の連名でございます」


 番頭が差し出した封筒には、王宮会計室の印と宰相府の印がある。


 エドガーは、ゆっくり封を切った。


 読み始めてすぐに、額に汗が浮いた。


『王妃基金関連取引に関する正式照会』


『過去五年分の納品控え、請求書、運搬費明細、品質選別費明細、エルフォード公爵家および王太子府関連取引記録を持参のこと』


『出頭日時、明日午前』


 明日。


 猶予がない。


 エドガーは、封筒を机に置いた。


 応接室にいた取引先は、空気を読んでそそくさと退室した。


 番頭だけが残る。


「旦那様」


「倉庫帳簿を確認しろ」


 エドガーの声は低かった。


「北方蜂蜜、保存果実、薬草、香茶、灯油。王妃基金絡みのものだ」


「すべてでございますか」


「すべてだ」


 番頭は青ざめた。


「裏控えも、でしょうか」


 エドガーは、番頭を睨んだ。


 だが、怒鳴らなかった。


 怒鳴れば、焦っていると認めるようなものだ。


「……必要なものだけ出す」


「王宮は、過去五年分と」


「全部出せば、商会が終わる」


 小さな声だった。


 だが、番頭にははっきり聞こえた。


 エドガーは、窓の外を見る。


 大通りには、人が流れている。


 誰も、自分の商会が今まさに崖の縁へ立たされているとは知らない。


 ラドクリフ商会は、大きくなりすぎた。


 貴族家と取引し、王太子府へ納め、王妃基金の地方産品支援にも関わった。


 最初は、小さな手数料だった。


 輸送の手間。

 保管の危険。

 品質選別の損耗。


 それらを少し多めに乗せる。


 誰も気づかない。


 気づいても、便利だから黙る。


 公爵家会計室は、差額の使い道を求めた。

 王太子府は、足りない社交費の補填を望んだ。

 商会は、手数料を増やした。


 三者の都合が噛み合った。


 それだけだ。


 エドガーは、ずっとそう思ってきた。


 だが、王妃基金という名が今、彼の喉に重く引っかかっている。


 相手がただの貴族家なら、まだ交渉できた。


 しかし、王妃基金は違う。


 亡き王妃の名がある。


 そして今、宰相府が本気で動いている。


「旦那様」


 番頭が恐る恐る言った。


「エルフォード公爵家へ、先に知らせますか」


 エドガーは少し考えた。


 以前なら、すぐ使者を送った。


 公爵家と口裏を合わせる。


 それが常だった。


 だが今、公爵家には外部監査官が入っている。


 使者を送れば、それ自体が記録される可能性がある。


「送るな」


「しかし」


「今は動くな。余計な動きは見られる」


 エドガーは、召喚状をもう一度見た。


 明日、王宮へ行く。


 帳簿を持って。


 どこまで出すか。


 どこまで隠せるか。


 それを考えなければならない。


 だが、彼はまだ知らなかった。


 すでにエルフォード公爵家会計室から『補』帳簿が出ていることを。


 商会側の納品控えと照合されていることを。


 そして、王宮は彼が出す帳簿ではなく、彼が出さなかった帳簿を見つける準備をしていることを。


 王宮では、追加処分の検討が国王側へ上がっていた。


 国王アレクシスは、暫定損害額表を読み、長く黙っていた。


 金貨十九枚、銀貨八十二枚。


 確定額だけで、これだ。


 その数字の横に、支援影響が書かれている。


 孤児院冬季栄養補助品。


 北方施療院灯油支援。


 乾燥薬草納入契約。


 国王は、静かに資料を閉じた。


「金の話だけではないな」


 カインは頷いた。


「はい」


「エレオノーラが最も嫌った形だ」


 その声には、静かな怒りがあった。


 亡き王妃の基金が、華やかな茶会と公爵家の交際費と商会の手数料に削られていた。


 その可能性が、数字になり始めている。


 国王は、ラドクリフ商会主への召喚状控えを見た。


「商会側の聴取で、差額の仕組みが固まれば、グレアムの追加処分も避けられまい」


「はい」


「当主権限制限まで行くか」


 カインは少し考えた。


「商会側帳簿で、公爵本人の承認または利益誘導が明確になれば」


「明確でなければ」


「外部監査延長、会計室再編、家令処分強化。公爵本人については登城制限延長が現実的です」


 国王は、低く息を吐いた。


「公爵家を潰したいわけではない」


「分かっています」


「だが、王妃基金を食い物にした者を、家格で守ることはできん」


 その言葉は重かった。


 国王は、しばらくしてから言った。


「セレスティア嬢には、商会主聴取に同席させるのか」


「迷っています」


 カインは正直に答えた。


「彼女はラドクリフ商会との実務記録を知っています。照合には有用です。ただ、父の処分に直結する聴取になります」


「本人は何と言うだろうな」


「同席すると言うでしょう」


「だろうな」


 国王は、わずかに目を細めた。


「では、止めすぎるな。ただし、支える者を置け」


「承知しました」


 その日の夕方、セレスティアはカインから翌日の聴取予定を告げられた。


「ラドクリフ商会主が来る」


「はい」


「君には、同席を求める可能性がある」


 セレスティアは、予想していた。


 だから、驚きは小さかった。


「実務照合のためですね」


「ああ。過去の取引資料を君が把握している。特に、北方産品支援と茶会資料の照合には君の記憶が必要だ」


「同席します」


 即答だった。


 カインは、少しだけ眉を上げる。


「早いな」


「考えていました」


「父親の追加処分に繋がる可能性がある」


「分かっています」


「商会主は、君を揺さぶるかもしれない」


「私を、ですか」


「君も取引を見ていた、と言うかもしれない。君の確認資料を利用した、と言うかもしれない。君が気づかなかったのも責任だ、と」


 胸の奥が、少し冷えた。


 あり得る。


 むしろ、商人ならそうする。


 責任を分散しようとするだろう。


 セレスティアは、自分の手元の資料を見た。


 過去の支援先一覧。


 茶会資料。


 購入記録の控え。


 自分が見ていたもの。


 見ていなかったもの。


 確認していたもの。


 名だけ使われていたもの。


 それらを分けなければならない。


「揺れると思います」


 セレスティアは言った。


「でも、分けます。私が確認したものと、確認していないもの。私が見落とした可能性があるものと、私の名を使われたもの。商会の責任と公爵家の責任と王太子府の責任」


 カインは、しばらく彼女を見ていた。


「いい」


「ただ」


「ただ?」


「もし私が混ぜ始めたら、止めてください」


 カインの目がわずかに柔らかくなる。


「ああ。止める」


「お願いします」


 セレスティアは、静かに頭を下げた。


 ひとりで完璧に立つ必要はない。


 それも、最近ようやく覚えたことだった。


 その夜、リリアナから手紙が届いた。


『お姉様へ』


『ラドクリフ商会主が王宮へ呼ばれると聞きました。私も、その商会の菓子や香茶を茶会で選んでいました』


『私は、その裏にある数字を知りませんでした。知ろうともしませんでした』


『今は、支援先の報告書を読んでいます。灯油の支援が遅れたという記録を見ました。寒い地方で灯油が遅れることが、どういうことか、想像して苦しくなりました』


『お姉様は、明日同席されるのでしょうか。もし同席されるなら、どうか無理をしすぎないでください』


『私が言うのも変ですが、無理をしすぎるのは、お姉様の悪い癖だと思います』


 最後の一文を読んで、セレスティアは思わず目を瞬かせた。


 リリアナに言われるとは。


 少し前なら、笑うどころか怒っていたかもしれない。


 だが今は、少しだけ可笑しかった。


 そして、少しだけ嬉しかった。


 妹が、姉の癖を見ている。


 責めるためではなく、心配するために。


 セレスティアは返事を書いた。


『リリアナへ』


『明日の聴取には、実務照合のため同席する予定です』


『無理をしすぎる癖については、指摘として受け取ります。最近は周囲にも同じことを言われています』


『ラドクリフ商会の菓子や香茶を選んでいたことについては、あなたが当時知らなかったことと、今知ろうとしていることを分けて考えてください。苦しくなることは悪いことではありませんが、苦しさだけで止まらないようにしてください』


『支援先の報告書を読むことは、よい判断です。数字の先を見る練習になります』


 最後に少し迷い、一文を添えた。


『明日、私は無理をしすぎないようにします。たぶん』


 書いてから、少し笑った。


 たぶん。


 リリアナは、きっとその「たぶん」に不安になるだろう。


 でも、今の自分に書ける正直な返事だった。


 夜、セレスティアは覚書を書いた。


『ラドクリフ商会主、明日召喚』


 次に。


『商会側の帳簿が出れば、父への追加処分が現実味を帯びる』


 さらに。


『私は同席する。揺れる可能性がある。止めてもらうことを頼んだ』


 そこで、少し手が止まった。


 頼んだ。


 昔の自分なら、それを書かなかった。


 誰かに止めてもらうことを、弱さだと思っていた。


 今は違う。


 線を越えそうになったとき、止めてくれる人がいることは、制度と同じくらい大切なのだ。


 もう一行書く。


『一人で全部背負わないことも、確認手順の一つかもしれない』


 ペンを置く。


 引き出しを開け、紙を重ねる。


 扉の外から、カインの声。


「寝ろ」


「はい」


「明日は長い」


「分かっています」


「予習は一枚まで」


 セレスティアは、机の上に置いた資料束を見た。


 十枚ほど読むつもりだった。


「……三枚では」


「一枚」


「二枚」


「一枚」


「交渉の余地がありません」


「商会主相手に明日使え」


 セレスティアは少し笑った。


「はい。一枚にします」


「よし」


 灯りを落とす前に、彼女はラドクリフ商会の名が書かれた資料を一枚だけ手に取った。


 読みすぎない。


 抱えすぎない。


 明日、必要な分だけ確認する。


 それもまた、自分の名前を守るための手順だった。

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