第43話 損害額は、感情よりも冷たく積み上がりました
エルフォード公爵家会計室から最初の異常値が見つかったのは、外部監査官が入って二日目の昼前だった。
見つけたのは、若い補佐官だった。
彼はまだ二十代前半で、王宮会計室に入って三年目。普段は先輩監査官の後ろで数字を書き写していることが多い、目立たない青年である。
だが、そういう者ほど、数字の違和感に気づくことがある。
「クロス監査官」
補佐官は、声を抑えて言った。
「この蜂蜜の単価、おかしくありませんか」
エドウィン・クロス監査官は、別の帳簿から顔を上げた。
「どれだ」
「北方産品支援費の帳簿では、一瓶あたり銀貨三枚で購入したことになっています。しかし、同じ月のラドクリフ商会側の納品控えでは、一瓶あたり銀貨二枚一銅貨五十です」
「差額は」
「一瓶あたり銅貨五十。数量は、二百四十瓶」
クロス監査官は、無言で補佐官の示した二つの帳簿を見比べた。
王妃基金側帳簿。
ラドクリフ商会納品控え。
品目、数量、納品日、受領印。
すべてほぼ一致している。
違うのは、単価だけ。
クロス監査官の目が細くなった。
「差額は銀貨百二十枚相当か」
「はい。ただし、この月だけです」
補佐官の声は少し震えていた。
クロス監査官は、その意味を理解した。
この月だけで銀貨百二十枚。
同じ仕組みが複数月、複数品目にあれば。
王妃基金の損害額は、想定より大きくなる。
「関連品目を並べろ。蜂蜜、保存果実、乾燥薬草、香茶、布地、灯油。ラドクリフ商会が噛んでいるものを全部だ」
「承知しました」
補佐官たちが一斉に動き出す。
紙がめくられる音。
帳簿を照合する音。
小さな計算盤の珠が弾かれる音。
会計室の空気が変わった。
そこにいたマルクスは、顔色を失っていた。
彼は分かっていた。
いつか見つかるかもしれないとは思っていた。
だが、こんなに早く、こんなに正確に、単価差から掘られるとは思っていなかった。
クロス監査官は、マルクスを見た。
「この差額について説明できますか」
マルクスは、すぐには答えなかった。
視線が一瞬だけ棚へ逃げる。
だが、そこに逃げ道はない。
「運搬費、保管費、品質選別費を含めた調整でございます」
ようやく出た答えは、古い言い訳だった。
クロス監査官は、表情を変えない。
「では、運搬費、保管費、品質選別費の内訳書を出してください」
マルクスは黙った。
「ないのですか」
「……一部は、商会側の包括請求で」
「包括請求書は」
「確認します」
「今、確認してください」
クロス監査官の声は穏やかだった。
穏やかだからこそ、逃げられなかった。
マルクスは、会計室の奥の棚へ向かった。
手が少し震えている。
彼は、三冊の控え帳を出した。
そのうち一冊には、表紙に小さく『補』と書かれていた。
補填。
帳簿には、また別の言葉が出てきた。
宰相府に速報が届いたのは、その日の午後だった。
セレスティアは、王妃基金改革案の試行準備として、次回慈善茶会の試験運用資料を整理していた。
そこへ、ミリアが駆け込むように入ってきた。
「セレスティア様。エルフォード公爵家外部監査より、緊急速報です」
彼女の声が硬い。
セレスティアは、手元の資料を置いた。
カインも顔を上げる。
「読め」
ミリアは速報文を開いた。
「ラドクリフ商会関連取引において、王妃基金帳簿上の購入単価と商会納品控えの単価に差異を確認。現時点で確認済みの品目は、北方蜂蜜、保存果実、乾燥薬草、香茶、灯油。差額累計、暫定で金貨十二枚、銀貨四十六枚相当」
部屋の空気が止まった。
金貨十二枚。
銀貨四十六枚。
少なくない。
孤児院の冬季燃料なら、いくつもの施設を越冬させられる額だ。
施療院の薬草なら、何か月分にもなる。
セレスティアは、指先が冷えるのを感じた。
「暫定、ですね」
「はい。過去五年分のうち、現在確認できたのは一年分の一部のみとのことです」
ローレン副監が、すぐに計算盤を引き寄せた。
「一年分の一部で金貨十二枚……全期間だと、かなり広がります」
オルドが低く言う。
「差額の行き先は?」
ミリアは、次の頁を見た。
「『補』帳簿に、一部差額が公爵家交際費、王太子府関連調整費、商会手数料として振り分けられている可能性あり。詳細照合中」
セレスティアは、目を伏せた。
予想はしていた。
けれど、実際に数字として出ると、重さが違う。
今まで見ていたのは、仕組みだった。
署名欄。
略式確認印。
実務残置案。
支出区分の曖昧さ。
今、そこに損害額が乗った。
王妃基金から、本来の支援先へ届くはずだった金が、どれだけ削られていたのか。
数字は冷たい。
言い訳を聞かない。
カインがセレスティアを見る。
「大丈夫か」
「大丈夫ではありません」
セレスティアは、いつものように正直に答えた。
「ですが、確認できます」
カインは頷く。
「なら確認しろ。ただし、感情で金額を見積もるな」
「はい」
セレスティアは速報文を受け取った。
目を通す。
蜂蜜。
保存果実。
乾燥薬草。
香茶。
灯油。
品目が並んでいる。
どれも、慈善茶会や支援事業で見覚えのあるものだった。
北方の蜂蜜は、冬季の栄養補助として孤児院にも回されていた。
乾燥薬草は、施療院で薬湯や湿布に使われた。
灯油は、寒冷地の施設で命に関わる。
それが、単価差として抜かれていた。
華やかな贈答品や茶会の飾りではない。
生活に直結する物資だ。
セレスティアは、静かに言った。
「損害額の算定には、差額だけでなく、支援遅延による影響も別項目で記録すべきです」
ローレン副監が顔を上げる。
「支援遅延?」
「はい。差額が出ていた品目の一部は、過去の支援報告で数量不足や翌期繰り越しがありました。差額がなければ追加購入できた可能性があります」
カインが目を細める。
「具体例は」
「北方施療院の灯油支援です。昨年、予算不足で一部が翌期へ回されています。その月にラドクリフ商会経由の灯油単価差があったなら、単なる会計上の損害だけではなく、支援遅延の影響が出ています」
ローレン副監がすぐに資料棚へ向かった。
「北方施療院の報告書を出します」
ミリアも記録を始める。
セレスティアは、速報文を机に置いた。
感情ではなく、事実。
数字だけではなく、数字の先にいる人。
王妃基金は、帳簿のためにあるのではない。
声の小さき者へ必要な支援を届けるためにある。
その理念が、今ほど胸に刺さったことはなかった。
エルフォード公爵邸では、『補』帳簿の存在が屋敷全体を揺らしていた。
会計室の奥から見つかったその帳簿には、表向きの帳簿とは異なる記載があった。
差額。
調整。
交際費。
王府補填。
商会礼金。
言葉は散らばっている。
だが、意味はひとつだった。
王妃基金の名で動いた金の一部が、別の場所へ流れていた。
クロス監査官は、帳簿を保全しながらマルクスへ尋ねた。
「この『王府補填』とは、王太子府関連費を指しますか」
マルクスは、顔を伏せたまま答える。
「そのように扱ったことがあります」
「何の費用ですか」
「茶会費、贈答品費、広報費……不足分の一部です」
「王妃基金から出すべき費用ですか」
「本来は、違います」
その言葉が記録される。
クロス監査官は続ける。
「『公爵家交際費』とは」
マルクスは苦しそうに息を吸った。
「王宮関係者との折衝、社交上必要な支出として処理したものです」
「王妃基金と関係がありますか」
「……直接は、ありません」
また記録される。
法務局監督官が口を挟む。
「グレアム公爵本人は、この『補』帳簿の存在を知っていましたか」
マルクスは、長く沈黙した。
答えれば、主人の責任はさらに重くなる。
答えなければ、自分がすべてを背負うことになる。
以前の彼なら、迷わず後者を選んだかもしれない。
だが今、この屋敷は変わり始めている。
エヴァンジェリンが使用人たちに言った。
隠してはいけない。
リリアナも言った。
家のために嘘を言う必要はない。
マルクスは、ゆっくり答えた。
「概要は、ご存じでした」
「概要とは」
「差額を調整費として用いることです。個別金額までは、すべてご覧になっていたか分かりません」
「承認記録は」
「一部、当主執務室で口頭承認でした」
「口頭承認の記録は」
「……私の手控えにございます」
クロス監査官の目が鋭くなった。
「提出してください」
マルクスは頷いた。
その瞬間、彼はまたひとつ、かつて守っていたものを差し出すことになった。
リリアナは、自室でその報告を聞いた。
知らせてくれたのは、母エヴァンジェリンだった。
「ラドクリフ商会との取引で、差額が見つかったそうよ」
「差額……」
リリアナは王妃基金規程の頁から顔を上げた。
「それは、どういう意味ですか」
エヴァンジェリンは、言葉を選んだ。
「王妃基金では高く買ったことになっている。でも、商会側の控えでは、もっと安く納めたことになっている。その差のお金が、別の用途へ回っていた可能性があるの」
リリアナは、少しずつ理解した。
いや、理解しようとした。
「本来なら、支援先に使えたお金ですか」
「そうね」
胸が冷たくなる。
リリアナは、机の上の質問票を見た。
そこには以前、自分が書いた問いが残っている。
『地方産品を購入することが、なぜ支援になるのか』
姉は、青いインクで答えてくれた。
適正価格で買うこと。
継続購入につなげること。
支援先の産業や生活を支えること。
では、適正価格を装って差額を作れば。
それは支援ではない。
支援の顔をした搾取だ。
リリアナは、唇を震わせた。
「私……茶会で、北方蜂蜜の菓子を可愛いと言いました」
エヴァンジェリンは、静かに娘を見る。
「その蜂蜜の取引にも差額があったのですか」
「まだ全部は分からないわ」
「でも、あるかもしれないのですね」
「ええ」
リリアナは、胸を押さえた。
自分が可愛いと言った菓子。
珍しいと笑った香茶。
それらの裏で、本来届くべき金が削られていたかもしれない。
知らなかった。
でも、知らなかっただけでは済まない。
それを何度も学んできた。
「お母様」
「何?」
「私、支援先の報告書も読みたいです」
エヴァンジェリンは、少し驚いた。
「王妃基金規程だけでなく?」
「はい。数字だけだと、まだ分からないことが多いです。でも、そのお金がどこへ行くはずだったのかを知りたいです」
エヴァンジェリンの目が揺れた。
かつてのリリアナなら、絶対に言わなかった言葉だった。
「手配しましょう」
「ありがとうございます」
リリアナは、机に向き直った。
新しい紙に書く。
『差額とは、本来届くはずだった支援が別の場所へ行くこと』
少し考えて、もう一行。
『可愛い菓子の裏にも、帳簿がある』
その一文を書いたとき、胸が痛んだ。
でも、書いた。
グレアムが『補』帳簿の発見を知ったのは、午後遅くのことだった。
マルクスが、当主執務室に報告へ来た。
顔色は土のように悪い。
「旦那様。会計室より、『補』帳簿が発見されました」
グレアムは、椅子に座ったまま動かなかった。
「どこまで見つかった」
「ラドクリフ商会との単価差、王府補填、公爵家交際費への振替の一部が」
「……そうか」
怒鳴らなかった。
マルクスは、その方がかえって恐ろしかった。
「申し訳ございません」
グレアムは、机の上のセレスティアの返事を見た。
『今後の処分や監査は、手紙とは別に、事実と手続きに基づいて進みます』
その通りになっている。
手紙を書いた。
娘は受け取った。
それでも、監査は止まらない。
止まるはずがない。
グレアムは、低く言った。
「私が知らなかったとは言えんな」
マルクスは顔を上げた。
「旦那様」
「概要は知っていた」
その言葉を口にした瞬間、グレアムの中で何かが崩れた。
これまで、何度も言い換えてきた。
調整。
補填。
交際費。
円滑化。
家のため。
王太子府のため。
だが、結局は知っていた。
数字の全てを見ていなくても、仕組みを知っていた。
差額が作られていることを。
それが別の用途に回されていることを。
グレアムは、目を閉じた。
「マルクス。監査官には、知っていることを話せ」
マルクスは息を呑んだ。
「よろしいのですか」
「もう、よろしいも何もない」
グレアムの声は疲れていた。
「隠せば、さらに悪くなる」
それは、エヴァンジェリンとリリアナが屋敷に広げ始めた言葉でもあった。
グレアム自身が、それを口にしたのは初めてだった。
マルクスは、深く頭を下げた。
「承知いたしました」
部屋を出た後、マルクスは廊下でしばらく立ち止まった。
長い間、公爵家を守ることは、隠すことだと思っていた。
今、その考えが崩れている。
遅すぎる。
だが、それでも崩れ始めている。
宰相府では、夕方までに損害額の暫定表が作られた。
ローレン副監が中心になり、セレスティア、ミリア、会計補佐官たちが支援報告と照合していく。
表には、三つの欄がある。
一、帳簿上の差額。
二、流用先推定。
三、支援遅延または支援不足への影響。
蜂蜜。
差額、銀貨百二十枚。
推定流用先、王太子府茶会費補填、公爵家交際費。
影響、孤児院栄養補助品の追加購入見送りの可能性。
保存果実。
差額、銀貨七十八枚。
推定流用先、広報費調整。
影響、北方三州産品の継続購入量減少。
灯油。
差額、金貨三枚相当。
推定流用先、贈答品費補填。
影響、北方施療院暖房費一部翌期繰り越し。
セレスティアは、その表を見つめた。
数字は冷たい。
だが、影響欄に言葉を入れると、急に人の顔が見えてくる。
孤児院の子ども。
施療院の患者。
冬の施設。
産品を作る北方の人々。
王妃基金の損害は、帳簿の中だけではない。
届かなかった温かさ。
買われなかった蜂蜜。
遅れた灯油。
そういうものとして積み上がる。
「損害額は、現時点でどこまで出ますか」
カインが尋ねる。
ローレン副監が答える。
「確定ではありませんが、過去一年分の一部で金貨十九枚、銀貨八十二枚相当まで上がりました。五年分を全件照合すれば、金貨百枚を超える可能性があります」
金貨百枚。
ミリアが小さく息を呑んだ。
セレスティアも、胸が重くなるのを感じた。
カインの声が冷える。
「第三案の留保事項が現実味を帯びてきたな」
当主権限の一部制限。
追加処分。
父への処分は、さらに重くなるかもしれない。
セレスティアは、目を閉じそうになった。
だが、閉じなかった。
「確定金額と推定金額は分けてください」
彼女は言った。
「金貨百枚を超える可能性がある、という表現だけが先に出ると、社交界で数字が独り歩きします」
ローレン副監が頷く。
「その通りです。確定額、確認中額、影響推定額を分けましょう」
カインが短く言う。
「いい判断だ」
セレスティアは、静かに頷いた。
父に不利な数字だからこそ、慎重に扱う。
それが、今の自分にできる線引きだった。
夜。
セレスティアは、今日の覚書を書いた。
『ラドクリフ商会との差額取引が数字になった』
次に。
『損害額は、感情よりも冷たく積み上がる』
少し手が止まる。
胸の奥が重い。
それでも、続きを書いた。
『蜂蜜、保存果実、灯油。失われたのは金額だけではない』
さらに。
『父への追加処分の可能性が高まった。だからこそ、確定額と推定額を分ける』
ペンを置く。
引き出しを開け、覚書を重ねる。
扉の外から、カインの声。
「寝ろ」
「はい」
「今日は数字が重かったな」
「はい」
「夢で計算するなよ」
セレスティアは少し笑った。
「それは、ありそうで嫌です」
「なら寝る前に帳簿を見るな」
「見ません」
「本当に?」
「本当に」
カインの気配が少しだけ和らいだ。
「よし」
セレスティアは灯りを落とした。
暗い部屋の中で、今日の数字が頭に浮かぶ。
金貨十九枚。
銀貨八十二枚。
金貨百枚を超える可能性。
冷たい数字。
けれど、その先には人がいる。
王妃基金は、数字のためではなく、人のためにあった。
だからこそ、数字を正しくしなければならない。
セレスティアは目を閉じた。
明日も、数字と向き合う。
父の名が絡む数字と。
王妃の遺志に関わる数字と。
そして、自分の名前を取り戻すための数字と。




