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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第42話 外部監査官が、エルフォード公爵邸に入りました

 エルフォード公爵邸の正門が、朝から開かれていた。


 普段なら、客人の馬車が来る時刻でもない。


 社交の招待でも、王宮からの使者でもない。


 それでも門番は、いつもより硬い顔で立っていた。門扉の金具は磨かれ、玄関前の石畳には水が撒かれている。屋敷は、いつも通り美しく整えられていた。


 だが、その美しさは今日は少しだけ空々しかった。


 やがて、王宮会計室の紋章をつけた馬車が二台、静かに門をくぐった。


 続いて、法務局の小型馬車。


 最後に、宰相府の封印箱を積んだ荷馬車。


 エルフォード公爵家に、外部監査官が入る日だった。


 玄関ホールには、グレアム・エルフォード公爵が立っていた。


 背筋は伸びている。


 礼服も乱れていない。


 顔には、公爵家当主としての威厳を保とうとする硬さがあった。


 だが、使用人たちは気づいていた。


 旦那様の目の下には、昨夜までなかった陰がある。


 王妃基金関連事務からの恒久的排除。

 王宮会計関連諮問からの停止。

 一定期間の登城制限。

 公爵家会計室への外部監査官常駐。


 その文言は、すでに屋敷中へ行き渡っていた。


 表向き、誰も口にしない。


 けれど、皆が知っている。


 この屋敷で絶対だった当主の権限に、外から鍵がかけられたのだ。


 最初に馬車から降りたのは、王宮会計室の監査官だった。


 名をエドウィン・クロスという。


 四十代半ばの、痩せた男である。濃紺の上着に銀の留め具をつけ、手には黒革の書類鞄を持っている。見た目は地味だが、目が鋭い。


 彼の後ろには、若い補佐官が二名。


 さらに法務局から派遣された監督官が一名。


 グレアムは、彼らを玄関ホールで迎えた。


「エルフォード公爵家当主、グレアム・エルフォードである」


 低い声。


 監査官クロスは、礼を返した。


「王宮会計室監査官、エドウィン・クロスです。本日より、国王裁可に基づき、エルフォード公爵家会計室の外部監査を担当いたします」


 丁寧だが、ひるまない声だった。


 グレアムは一瞬だけ目を細めた。


 以前なら、この屋敷に入る官吏は、公爵家当主を前にすれば少なからず萎縮した。


 だが、今日は違う。


 彼らは、国王裁可を背負っている。


 エルフォード公爵家の玄関であっても、引く理由がない。


「案内させる」


 グレアムが言うと、家令マルクスが前へ出た。


 顔色はよくない。


 彼もまた、今回の件で処分対象の一人だった。まだ最終処分は確定していないが、当面の職務範囲は大きく制限されている。


 屋敷の中で、彼の立場も変わった。


 使用人たちは、以前のようにマルクスの一言だけでは動かなくなっている。


 監査官が来る。


 それだけで、権力の流れは目に見えて変わった。


 クロス監査官は、屋敷を見回した。


「まず、会計室へご案内ください。次に、保管庫、契約書棚、商会取引記録、王妃基金関連書類の控えを確認します」


 マルクスが礼をする。


「承知いたしました」


 その声には、以前のような屋敷を支配する響きはなかった。


 彼はもう、すべてを隠して整える者ではない。


 見せるべきものを見せる立場になった。


 グレアムは、その背中を見ていた。


 苦いものが胸に広がる。


 自分の屋敷の会計室へ、外部の者が入る。


 それは屈辱だった。


 だが、怒鳴っても変わらない。


 国王裁可は下った。


 セレスティアの名前が書かれた覚書も、王妃の帳簿も、王太子府の文書も、すべてがここへ繋がっている。


 止められなかった。


 いや、止めるべきだったのは、もっと前だった。


 グレアムは奥歯を噛んだ。


 その事実を認めるのは、処分を受けるよりも苦かった。


 エヴァンジェリンは、二階の踊り場からその様子を見ていた。


 隣にはリリアナがいる。


 二人とも、今日は普段より控えめな服装だった。


 喪服ではない。


 だが、華やかな色も避けた。


 屋敷の中で何かが変わる日だと、二人とも分かっていた。


「お母様」


 リリアナが小さく言った。


「会計室に、本当に外の方が入るのですね」


「ええ」


「お父様は……お怒りでしょうか」


「怒っているでしょうね」


 エヴァンジェリンは、下の玄関ホールにいる夫を見ながら答えた。


「でも、怒りだけでは済まないところまで来ています」


 リリアナは、手元の王妃基金規程を握りしめた。


 最近、彼女はそれを持ち歩くようになっていた。


 すべてを理解したわけではない。


 むしろ、読めば読むほど分からないことが増える。


 でも、その重さが今の自分に必要だと思っていた。


「私たちに、できることはありますか」


 リリアナが尋ねる。


 以前なら、そんなことは言わなかった。


 屋敷の会計や王宮の処分は、父と家令と王太子府が決めるものだと思っていた。


 自分は、きれいに着飾り、愛想よく笑い、父に叱られないようにしていればいい。


 そう思っていた。


 だが、もうその場所には戻れない。


 エヴァンジェリンは娘を見た。


「あります」


「何をすれば?」


「まず、隠さないこと」


 リリアナは少し驚いた。


「隠さないこと?」


「ええ。あなたの部屋に移されたセレスティアの資料や、茶会用の見本、招待状の控え。必要なら、すべて出しなさい」


「はい」


「そして、分からないことを分からないと言いなさい」


 リリアナは、少しだけ苦笑した。


「それは、最近ずっと言われています」


「大事なことだからよ」


 母の声は穏やかだったが、芯があった。


 リリアナは頷いた。


「お母様は?」


「私は、屋敷の女主人として、使用人たちに余計な口止めをしないよう伝えます」


 その言葉に、リリアナは目を見開いた。


 使用人への口止め。


 これまでなら、家の不祥事が出れば当然のように行われた。


 何も見なかったことにする。

 何も聞かなかったことにする。

 外で余計なことを言わないようにする。


 それが、公爵家を守ることだと思われていた。


 しかし、今のエヴァンジェリンは違った。


「もちろん、根拠のない噂を外へ広げることは禁じます」


 母は続けた。


「でも、監査官に聞かれたことを、家の体面のために隠してはいけない。そう伝えます」


 リリアナは、胸の奥が熱くなるのを感じた。


 母も変わっている。


 自分だけではない。


 姉だけでもない。


 あの家の中で、長い間黙っていた母が、少しずつ声を持ち始めている。


「私も、手伝います」


 リリアナは言った。


「使用人たちが怖がっていたら、私からも言います。監査官に答えてよいと」


 エヴァンジェリンは、娘を見て微笑んだ。


「ええ。お願い」


 二人は、並んで階段を下りた。


 玄関ホールではなく、使用人たちの集まる控えの間へ向かう。


 今までなら、リリアナはそんな場所へ自分から行かなかった。


 しかし今日は、自分の足で向かった。


 会計室の扉には、宰相府と王宮会計室の封印が貼られていた。


 クロス監査官は、封印状態を確認し、記録官に時刻を告げる。


「封印破損なし。これより開封します」


 マルクスは、少し後ろに立っていた。


 自分が管理していた会計室の扉を、外部監査官が開ける。


 それを見ることが、これほど苦しいとは思わなかった。


 扉が開く。


 中は整っている。


 棚には帳簿が並び、引き出しには契約書、金庫には証書類。机の上には、以前のまま残された砂時計と文鎮がある。


 クロス監査官は、部屋へ入るとすぐに言った。


「この部屋の書類配置は、封印前と変わっていませんか」


 マルクスが答える。


「封印後は誰も入っておりません」


「封印前は」


「……整理を行いました」


「誰の指示で」


 マルクスは、少しだけ言葉に詰まった。


 以前なら、旦那様の指示です、と言って終わりだった。


 だが、今はその言葉が重い。


「私の判断です。ただし、旦那様には報告しておりました」


 クロス監査官は、表情を変えずに記録させた。


「整理の内容を一覧にしてください。移動した書類、廃棄した書類、別保管にした書類。記憶に基づくものでも構いません」


「承知いたしました」


 マルクスは頭を下げた。


 クロス監査官は、最初に王妃基金関連棚へ向かった。


 そこには、セレスティアが過去に作成した資料の控えも含まれている。


 支援先一覧。

 茶会席次表。

 地方産品購入記録。

 寄付者管理表。

 王妃基金規程の注釈。


 監査補佐官が一冊を取り出し、目録と照合する。


「セレスティア様作成の支援先一覧、複数年度分あり」


 その言葉に、マルクスは小さく目を伏せた。


 この資料を、何度利用しただろう。


 セレスティア本人がいなくなった後も。


 彼女の確認がないまま。


 彼女の名を使って。


 クロス監査官が、棚の下段を指した。


「この箱は」


 古い茶色の箱だった。


 目録には記載がない。


 マルクスの顔がわずかに変わる。


「それは……旧式の控えかと」


「開けます」


 監査官は迷わなかった。


 箱が開く。


 中には、使用済みの封筒、破棄予定だった書類片、古い署名欄の切れ端があった。


 部屋の空気が凍った。


 補佐官が、そっと一枚を取り上げる。


 そこには、切り取られた署名がある。


 セレスティア・エルフォード。


 以前押収されたものと同じ形式だった。


 マルクスの顔から血の気が引いた。


「まだ残っていたのか……」


 思わず漏れた声だった。


 クロス監査官が、すぐに反応する。


「今の発言を記録」


 記録官が筆を走らせる。


「マルクス殿。これは何ですか」


 マルクスは、しばらく答えられなかった。


 だが、もう隠せる状況ではない。


「過去に……セレスティア様の署名欄を切り取って保管していたものの残りです」


「使用目的は」


「確認済み文書への添付、または控え作成時の参照として」


「本人許可は」


「ありません」


 短い答えだった。


 クロス監査官は、淡々と保全袋を出すよう指示した。


 新たな署名欄の切れ端。


 処分決定後にも、まだ証拠は出てくる。


 外部監査官が入らなければ、この箱は見つからなかったかもしれない。


 マルクスは、深く頭を垂れた。


 彼の背中は、さらに小さく見えた。


 使用人控え室では、エヴァンジェリンとリリアナが使用人たちに向き合っていた。


 料理番、侍女、庭師、洗濯係、馬車係。


 公爵家の裏側を支えてきた者たちが、緊張した顔で並んでいる。


 彼らにとって、外部監査官は恐ろしい存在だった。


 何を聞かれるのか。

 間違ったことを言えば罰せられるのか。

 旦那様に逆らったことになるのか。


 その不安が、部屋全体に広がっていた。


 エヴァンジェリンは、静かに口を開いた。


「皆に伝えます。王宮会計室および法務局の監査官から質問を受けた場合、見たこと、聞いたこと、担当したことを、そのまま答えてください」


 使用人たちがざわつく。


 リリアナは、一歩前へ出た。


「家の体面のために、嘘を言う必要はありません」


 その言葉に、何人かの侍女が目を見開いた。


 リリアナ様が、そんなことを言うとは思っていなかったのだ。


 彼女は少し緊張しながらも続ける。


「もちろん、噂話を面白おかしく広めることは違います。でも、監査官に聞かれたことを隠すのは、もっと違います」


 エヴァンジェリンが頷く。


「もし答えてよいか分からないことがあれば、私かリリアナに相談しなさい。マルクスだけに確認する必要はありません」


 この一言に、部屋の空気が明確に変わった。


 マルクスだけに確認する必要はない。


 それは、屋敷の権力構造が変わったことを示す言葉だった。


 これまで、使用人たちはまず家令を見た。


 家令の許可なく動かない。


 家令の言葉が、当主の言葉に近かった。


 だが今、女主人と次女がそこへ別の道を作った。


 ある侍女が、おずおずと手を上げた。


「奥様。セレスティア様のお部屋から移された書類についても、話してよろしいのでしょうか」


 リリアナの胸が痛んだ。


 自分の衣装部屋にしようとしていた部屋。


 姉の机、棚、書類。


 あの時の自分は、何も知らなかった。


 いや、知ろうとしなかった。


 エヴァンジェリンは、リリアナを一度見た。


 リリアナは頷く。


 自分で答えるべきだと思った。


「話してください」


 リリアナは言った。


「私の部屋へ移すよう準備していたものも、全部。私が知っていたことも、知らなかったことも、聞かれたら答えてください」


 侍女は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 リリアナは、胸の奥が少し痛んだ。


 でも、その痛みから逃げなかった。


 自分がしてきたことも、書類と一緒に表へ出る。


 怖い。


 けれど、嘘で隠すよりはいい。


 姉が言ったように。


 宰相府では、エルフォード公爵邸から最初の監査速報が届いた。


 セレスティアは、改革案の試行準備に関する資料を整理していた手を止めた。


 カインが速報を受け取り、目を通す。


 その表情が少し硬くなった。


「新しい署名欄の切れ端が見つかった」


 セレスティアは、息を止めた。


「まだ、あったのですか」


「ああ。会計室の未記載箱から。マルクスが本人許可なしと認めた」


 胸の奥に、冷たいものが落ちる。


 処分は決まった。


 父の手紙も読んだ。


 受け取った。


 それでも、証拠はまだ出てくる。


 過去は、こちらの感情に合わせて出る順番を選んではくれない。


「見ます」


 セレスティアは言った。


 カインが少しだけ眉を寄せる。


「急がなくていい」


「見ます。私の名前ですから」


 カインは、しばらく彼女を見た。


 それから、速報を渡した。


 保全写真の写しが添付されている。


 署名欄。


 セレスティア・エルフォード。


 自分の字。


 切り取られた自分の名前。


 何度見ても慣れない。


 だが、以前ほど息は乱れなかった。


 セレスティアは、写真を机に置いた。


「この箱は、処分案に追加されますか」


「追加証拠として記録する。第三案留保の判断材料にはなるが、すぐに追加処分へ進むかは金額と使用実態次第だ」


「はい」


 冷静に答えられた。


 自分でも少し驚いた。


 痛い。


 けれど、仕事の言葉にできる。


 カインが言った。


「戻ってきているな」


「はい」


「ならいい」


 セレスティアは、少しだけ目を伏せた。


 戻ってきている。


 その言葉が、最近は少しずつ自分のものになってきた。


 夕方、リリアナから短い手紙が届いた。


『お姉様へ』


『今日、外部監査官が屋敷に入りました。会計室から、新しい署名欄の切れ端が見つかったと聞きました』


『私は、自分の部屋に移そうとしていたお姉様の書類のことも、聞かれたら話してくださいと侍女たちに言いました』


『怖かったです。でも、隠す方がもっと怖いと思いました』


『今日も規程を読みます。今日は、監査官に何を聞かれても、分からないことは分からないと言う練習もします』


 最後の一文に、セレスティアは少しだけ笑った。


 練習。


 リリアナらしい。


 そして、悪くない。


 分からないと言うにも、練習が必要なのだ。


 セレスティアは返事を書いた。


『リリアナへ』


『署名欄の件は、宰相府にも速報が届きました。痛みはありますが、記録として扱います』


『使用人たちに話してよいと伝えたことは、よい判断だと思います。家のために隠すのではなく、事実を出すことが、結果的に家を立て直す道になります』


『分からないと言う練習は、続けてください。分かったふりをしないことは、思うより難しいです』


 少し迷ってから、最後に書いた。


『あなたが怖いと書くたび、少しずつ前へ進んでいるのだと思います』


 署名する。


 セレスティア・エルフォード。


 手紙を封じながら、彼女はふと気づいた。


 自分は、リリアナの「怖い」をもう弱さとして見ていない。


 怖いと書けること。


 それは、逃げないための最初の言葉なのだ。


 夜。


 エルフォード公爵邸では、会計室の灯りが遅くまでついていた。


 外部監査官たちは、黙々と帳簿を照合している。


 マルクスは、監査官の質問に答え続けた。


 グレアムは、当主執務室で国王裁可文書とセレスティアの返事を前にしていた。


 エヴァンジェリンは、使用人たちから上がってくる不安や相談を聞いていた。


 リリアナは、自室で王妃基金規程を開き、余白にこう書いた。


『分からないことを隠すと、誰かの名前を使うことになるかもしれない』


 それは、拙いが正しい理解だった。


 彼女は、その一文を何度も見た。


 そして、次の頁を開いた。


 宰相府の夜。


 セレスティアは覚書を書いた。


『外部監査官が、エルフォード公爵邸に入った』


 次に。


『会計室から、まだ私の署名欄が出てきた』


 少し手が止まる。


 痛みが戻ってくる。


 だが、書く。


『母とリリアナは、使用人たちに隠さなくてよいと伝えた』


 さらに。


『屋敷の中で、権力の流れが変わり始めている』


 ペンを置く。


 引き出しを開ける。


 今日の紙を重ねる。


 扉の外から、カインの声。


「寝ろ」


「はい」


「今日は、署名欄のことを夢に見るかもしれないな」


「縁起でもないことを言わないでください」


「可能性の話だ」


「宰相閣下は、優しいのか優しくないのか分からない時があります」


「優しいだけでは役に立たない」


 セレスティアは、少し笑った。


「そうですね」


「怖ければ、明日の朝に回せる仕事は回せ」


「はい」


「全部抱えるな」


「はい」


 素直に答えると、扉の向こうで少し間があった。


「よし」


 短い声。


 それだけで、少し安心した。


 灯りを落とす。


 父の屋敷に、外部監査官が入った。


 母と妹が、使用人たちへ新しい言葉を渡した。


 切り取られた自分の名前は、まだ出てくる。


 けれど今度は、隠されずに記録される。


 それは痛い。


 でも、必要な痛みだった。


 セレスティアは、静かに目を閉じた。


 明日もまた、自分の名前を取り戻す作業は続く。

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