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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第41話 許しではなく、受け取るということ

 父からの手紙は、一日中、机の右端にあった。


 小さな封筒だった。


 公爵家当主印ではなく、グレアム個人の印が押されている。


 それだけで、セレスティアは何度も視線を向けそうになった。


 けれど、開けなかった。


 午前は改革案第三稿の修正確認。

 昼過ぎには王宮会計室から戻ってきた支出区分表の照合。

 午後には法務局との確認保留権の文言調整。

 夕刻前には、王太子府から提出された略式確認印使用文書の追加一覧。


 仕事は途切れなかった。


 そのことに、少し救われた。


 父の手紙だけを見つめていたら、きっと一日もたなかった。


 机の右端にある封筒は、呼吸をしているように見えた。


 読むのか。

 読まないのか。

 何が書かれているのか。

 また傷つくのか。


 だが、セレスティアはそのたびに書類へ視線を戻した。


 今は仕事をする時間。


 読むと決めたのは、勤務が終わってから。


 自分で決めた順番を、自分で守る。


 それは小さなことだったが、彼女にとっては大きかった。


 父の文書は、かつて命令だった。


 届いたらすぐに開き、内容を理解し、従うものだった。


 今は違う。


 開く時刻を自分で決めた。


 読む場を自分で選んだ。


 同席者も、自分で頼んだ。


 夕刻、最後の確認印を押し終えると、セレスティアはペンを置いた。


 窓の外は、薄い金色に染まっている。


 王宮の廊下からは、遠く人の足音が聞こえた。


 カインが向かいの机で書類を閉じる。


「終わったか」


「はい」


「読むか」


 短い問いだった。


 セレスティアは、机の右端の封筒を見た。


 胸が少しだけ痛む。


 でも、逃げたいとは思わなかった。


「読みます」


 カインは頷き、余計なことは言わなかった。


 部屋には二人だけになった。


 ミリアもオルドもローレン副監も、すでに退出している。


 扉は閉じられているが、鍵はかけていない。


 閉じ込められている感じはなかった。


 それも、カインの配慮なのだろう。


 セレスティアは封筒を手に取った。


 封蝋に押された小さな個人印を指でなぞる。


 見覚えはほとんどない。


 父がこの印を使うところを、彼女はほとんど見たことがなかった。


 当主印ではない。

 公爵家の命令ではない。

 家としての通達でもない。


 では、何なのだろう。


 セレスティアは、封を切った。


 便箋は一枚だけだった。


 父らしく、紙は上質だ。


 だが、文面は思ったより短い。


 そして、ところどころ字が乱れていた。


 父の字が乱れるところを、彼女は初めて見た気がした。


 最初の一行。


『セレスティアへ』


 それだけで、胸が少し詰まった。


 様でもない。

 公爵家長女へ、でもない。

 通達でもない。


 セレスティアへ。


 彼女は、ゆっくり読み進めた。


『私は、お前の責任感を知っていた。知っていたからこそ、国、王妃基金、支援先の名を出せば、お前が拒みにくいことも分かっていた』


 指先が、便箋の端を押さえる。


『私は、それを利用しようとした』


 そこまで読んで、セレスティアは息を止めた。


 利用。


 父が、その言葉を書いた。


 誰かに言わされたのではなく、父自身の字で。


 続ける。


『王太子府との協議において、お前本人へ先に説明すべきだった。だが私は、反発されることを避けた。反発されると分かっていたなら、それはお前に意思があると分かっていたということだ』


 胸の奥が、痛んだ。


 痛いのに、どこかで少しだけ息が通る。


 父は、初めてそこを認めた。


 自分に意思があると知っていたのに、それを避けたのだと。


『この手紙をもって、許しを求めるつもりはない。ただ、私が何をしたのかを、私自身の言葉で記す』


 セレスティアは、視線が滲みそうになるのをこらえた。


 許しを求めるつもりはない。


 その一文は、リリアナの最初の手紙にも似ていた。


 エルフォード家の人間は、どうしてこうも不器用なのだろう。


 いや、きっと自分も含めて。


 最後の行へ進む。


『お前にしたことは、父としても、当主としても、誤っていた』


 その下に、少し間が空いていた。


 最後に、たった一言。


『すまなかった』


 セレスティアは、便箋を持ったまま動けなかった。


 短い。


 あまりにも短い手紙だった。


 けれど、今までの父のどの長い弁明よりも、重かった。


 家のため、という言葉がない。

 国益、という言葉もない。

 王太子府のせい、という逃げもない。

 お前にも責任がある、という刃もない。


 父が、自分のしたことを書いている。


 不格好に。


 遅すぎるほど遅く。


 それでも、自分の言葉で。


 セレスティアの目から、涙が一粒落ちた。


 泣くつもりはなかった。


 許したわけでもない。


 なのに、涙は落ちた。


 便箋に落ちる前に、彼女は慌てて袖で押さえた。


 カインは何も言わなかった。


 沈黙している。


 その沈黙が、ありがたかった。


 しばらくして、セレスティアは小さく息を吐いた。


「……父が、謝りました」


「ああ」


「初めてかもしれません」


「そうか」


「短いですね」


「短いな」


「不器用です」


「かなり」


 その言い方に、少しだけ笑いそうになった。


 笑うには胸が痛すぎたが、それでも少しだけ口元が緩んだ。


 セレスティアは便箋を机に置いた。


 手を離しても、紙はそこにある。


 消えない。


 父の言葉が、そこに残っている。


「許せません」


 彼女は言った。


 声は震えていた。


「今は、まだ許せません」


「当然だ」


 カインは即答した。


 その速さに、セレスティアは少し救われた。


「でも」


 彼女は便箋を見た。


「受け取ることは、できます」


 許すではない。


 なかったことにするでもない。


 抱きしめて泣くでもない。


 ただ、父が初めて逃げずに書いた言葉を、受け取る。


 それなら、できる。


「返事を書くか」


 カインが尋ねた。


 セレスティアは少し考えた。


 父の手紙には、急いで返さなければならない命令はない。


 返事を書くかどうかも、自分で決めてよい。


「短く書きます」


「今か」


「はい。長く考えると、余計な言葉を入れてしまいそうです」


 カインは頷いた。


 セレスティアは便箋を用意した。


 父への返事。


 その書き出しで、少し迷った。


 お父様へ。


 まだ、その言葉は重い。


 グレアム公爵へ、では冷たすぎる。


 彼女は、しばらく考えてから書いた。


『グレアム・エルフォード様』


 父でも、ただの公爵でもない。


 今の自分に書ける距離だった。


『手紙を受け取りました』


 次の一文。


『許すことは、今はできません』


 ペン先が少し震えた。


 だが、続ける。


『ですが、あなたがご自身の言葉で何をしたのかを書かれたことは、受け取りました』


 少し考えた。


『今後の処分や監査は、手紙とは別に、事実と手続きに基づいて進みます』


 これは必要だった。


 父の手紙が、処分を軽くするためのものにならないように。


 そして、自分自身がその二つを混ぜないように。


 最後に、一行だけ加えた。


『私も、私自身の言葉で進みます』


 署名する。


 セレスティア・エルフォード。


 書き終えた便箋を見て、彼女は静かに息を吐いた。


 カインが文面を見て、頷いた。


「いい」


「冷たすぎませんか」


「冷たくはない。線が引けている」


「線」


「ああ。受け取ることと許すこと。手紙と処分。父と監査対象者。全部を混ぜていない」


 セレスティアは、父の手紙と自分の返事を見比べた。


 混ぜない。


 それは、この数日ずっと自分が学んできたことだった。


 家のためと娘の意思。

 信頼と放任。

 私情と独断。

 許しと受け取り。


 混ぜられてきたものを、ひとつずつ分ける。


 そうして初めて、自分で選べる。


 翌朝、国王裁可の正式文書が下りた。


 宰相府の会議室には、関係者が集められた。


 カイン、オルド、ローレン副監、ミリア。


 そして、監査補助者としてセレスティアも同席した。


 文書は重厚な革表紙に収められている。


 国王印。


 その印が押されているだけで、部屋の空気が変わる。


 オルドが読み上げた。


「国王裁可。王妃基金関連不適切処理およびエルフォード公爵家会計室に関する暫定処分」


 セレスティアは、背筋を伸ばした。


 父の手紙を読んだ翌日に、父への正式処分を聞く。


 残酷な順番だと思う。


 だが、たぶん必要な順番でもあった。


 手紙と処分は別。


 昨日、自分でそう書いた。


 今日、それを実行する。


 オルドの声が続く。


「一、エルフォード公爵家当主グレアム・エルフォードを、王妃基金関連事務および王宮会計関連諮問から恒久的に排除する」


 恒久的。


 その言葉が重く響いた。


「二、同公爵に対し、一定期間の登城制限を課す。ただし、王家儀礼上必要な出席については、事前申請および宰相府確認を要する」


 グレアムが自由に王宮へ出入りできなくなる。


 かつて、王宮の廊下を当然のように歩いていた父が。


「三、エルフォード公爵家会計室へ外部監査官を常駐させる。期間は初期六か月、必要に応じ延長」


「四、ラドクリフ商会を含む関連商会との取引を停止し、過去五年分の王妃基金関連取引を再審査する」


「五、追加証拠により当主権限濫用および王妃基金損害額が確定した場合、当主権限一部制限を含む追加処分を留保する」


 第三案は、留保事項として残った。


 軽くはない。


 だが、今すぐ公爵家全体を潰すものでもない。


 セレスティアは静かに息を吐いた。


 自分が妥当だと思った線に近い。


 それが救いなのか、苦しみなのか、まだ分からなかった。


 オルドは次に、王太子府への正式措置を読み上げた。


「一、王太子府における略式確認印『セ確認済』および類似の代理確認運用を廃止。該当文書は全件再確認対象とする」


「二、侍従長補佐アルノー・ベリルを職務停止とし、法務局審査に付す」


「三、会計責任者ヘンリク・バゼルについては減俸および再教育。ただし証言協力を考慮し、職務停止は限定的とする」


「四、王太子府文書室および会計処理に外部監査を導入する」


「五、王太子ジュリアス・ヴァレンティア殿下に、王妃基金規程、王太子府会計、慈善関連実務に関する特別講習および監査報告閲覧義務を課す」


 最後の項目で、ミリアがほんの少しだけ息を呑んだ。


 王太子本人へ、閲覧義務。


 正式に下った。


 ジュリアスは、これから見なければならない。


 知らなかった、ではなく、知るために。


 カインが文書を閉じる。


「以上だ」


 部屋は静まり返った。


 セレスティアは、目の前の裁可文書を見つめていた。


 終わったわけではない。


 むしろ、ここから実際の処分と再審査が始まる。


 だが、大きな区切りだった。


 父への処分。


 王太子府への措置。


 正式に、王国の文書になった。


 カインが彼女を見る。


「大丈夫か」


 その問いに、セレスティアは少し考えてから答えた。


「大丈夫ではありません」


「そうだろうな」


「でも、立っています」


「それでいい」


 セレスティアは頷いた。


 胸の中には、痛みがある。


 父の手紙を受け取った痛み。

 父への処分を聞いた痛み。

 ジュリアスが講習を受けることになった、遅すぎる現実への痛み。


 だが、その痛みの中に、少しだけ確かなものもあった。


 事実が、手続きになった。


 手続きが、処分になった。


 そして、制度改革が動き始めた。


 誰かの感情だけではない。


 紙の上で、王宮が動いた。


 正式処分の通知は、その日のうちにエルフォード公爵邸へ届いた。


 グレアムは、文書を受け取ると、長く黙っていた。


 覚悟はしていた。


 だが、国王印の押された処分文書は、想像以上に重かった。


 王妃基金関連事務からの恒久的排除。


 登城制限。


 外部監査官常駐。


 関連商会取引停止。


 追加処分留保。


 公爵家当主として、屈辱だった。


 だが、怒鳴る気力はなかった。


 机の端には、昨日セレスティアへ送った手紙の控えがない。


 控えは作らなかった。


 あれは通達ではないからだ。


 代わりに、今日届いた処分文書がある。


 そこへ、セレスティアからの返事が届けられた。


 グレアムは、封を見た。


 娘の字。


 少し迷って開く。


『グレアム・エルフォード様』


 お父様ではなかった。


 胸に、鈍い痛みが走る。


 当然だと思った。


『手紙を受け取りました』


『許すことは、今はできません』


 グレアムは目を閉じた。


 当然だ。


『ですが、あなたがご自身の言葉で何をしたのかを書かれたことは、受け取りました』


 受け取りました。


 許しではない。


 しかし、捨てられてもいない。


『今後の処分や監査は、手紙とは別に、事実と手続きに基づいて進みます』


 グレアムは、処分文書へ視線を移した。


 その通りだ。


 手紙を書いたから、処分が消えるわけではない。


 娘は、そこを混ぜなかった。


 最後の一文を読む。


『私も、私自身の言葉で進みます』


 グレアムは、便箋を静かに机へ置いた。


 しばらく何も言わなかった。


 そこへ、エヴァンジェリンが入ってくる。


 彼女は、処分文書とセレスティアの返事を見た。


「返事が来たのですね」


「ああ」


「何と」


 グレアムは、少し迷った。


 以前なら、見せなかったかもしれない。


 だが、今は便箋を差し出した。


 エヴァンジェリンは読み、目元を押さえた。


「受け取ってくれたのですね」


「許してはいない」


「ええ」


「処分も変わらない」


「ええ」


「だが……受け取ったと」


 グレアムの声は、ひどく低かった。


 エヴァンジェリンは頷いた。


「それは、とても大きいことだと思います」


 グレアムは返事をしなかった。


 ただ、処分文書と娘の手紙を並べて置いた。


 片方は王国の裁き。


 もう片方は、娘の線引き。


 どちらも、彼が受け取らなければならないものだった。


 王太子府でも、正式措置が伝えられた。


 ジュリアスは文書を読み、静かに受け取った。


 侍従長は顔を青ざめさせている。


 アルノーは職務停止。

 バゼルは減俸と再教育。

 文書室に外部監査。

 自分には特別講習と監査報告閲覧義務。


 ジュリアスは、最後の項目をもう一度読んだ。


「受け入れる」


 彼は言った。


 侍従長が深く頭を下げる。


「殿下」


「当然だ。これは罰だけではない。私が知らなかったものを知るための手続きだ」


 その言葉は、以前の彼からは出なかったものだ。


 リリアナも部屋にいた。


 彼女は静かに聞いていた。


 ジュリアスが彼女へ視線を向ける。


「リリアナ」


「はい」


「講習は、君も受けるか」


 リリアナは少し驚いた。


 それから、頷いた。


「受けたいです」


 ジュリアスは、わずかに笑った。


 苦いが、少しだけ穏やかな笑みだった。


「では、一緒に受けよう」


 リリアナは、胸の奥が熱くなった。


 以前の二人なら、こんな会話はなかった。


 王太子妃候補の華やかな未来の話はした。


 舞踏会の話も、茶会の花の話もした。


 けれど、会計講習を一緒に受ける話など、想像もしなかった。


 地味だ。


 重い。


 でも、不思議と今のリリアナには、その方が少しだけ本物に近い気がした。


 宰相府の夜。


 セレスティアは、父の手紙と自分の返事の控えを、私信用の箱に入れた。


 監査資料ではない。


 処分文書とも別にした。


 父の手紙は、処分を動かす証拠にしない。


 それは父が何をしたかを認めた文ではある。


 しかし、セレスティアはそれを監査資料として提出しなかった。


 必要なら、父自身が公的文書で認めるべきだ。


 この手紙は、娘として受け取ったもの。


 だから、そこに置く。


 箱の蓋を閉じると、胸が少しだけ痛んだ。


 今日の覚書を書く。


『父の手紙を受け取った。許してはいない』


 次の行。


『国王裁可が下りた。処分は処分として進む』


 さらに。


『受け取ることと、許すこと。手紙と処分。父と監査対象者。混ぜない』


 最後に、少しだけ迷って一行足した。


『それでも、父が「すまなかった」と書いたことは、消さない』


 ペンを置く。


 引き出しを開け、覚書を重ねる。


 厚くなった紙の束が、静かに収まる。


 扉の外から、カインの声がした。


「寝ろ」


「はい」


「今日は、よく立っていた」


 その言葉で、胸の奥が少しだけ緩んだ。


「ありがとうございます」


「明日から処分執行と再審査が始まる」


「はい」


「だから寝ろ」


 セレスティアは小さく笑った。


「はい。寝ます」


 灯りを落とす。


 暗い部屋の中で、今日読んだ二つの文が浮かんだ。


 父の手紙。


 国王裁可。


 どちらも重い。


 どちらも、彼女の人生から逃れられない紙だ。


 だが、もう紙に動かされるだけではない。


 読むかどうかを選び、受け取るかどうかを選び、混ぜないように線を引く。


 それができるようになってきた。


 セレスティアは、静かに目を閉じた。


 許しは、まだ遠い。


 けれど、受け取ることはできた。


 その一歩を抱えて、彼女は眠りについた。

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