第40話 父は、言い訳ではない手紙を書こうとしました
グレアム・エルフォード公爵は、白紙を前にして一刻近く座っていた。
机の上には、何も書かれていない便箋が一枚。
その横に、封蝋。
インク壺。
磨き込まれた銀のペン。
すべて、いつも通り整っている。
だが、紙の上だけが、どうしても整わなかった。
これまで彼は、多くの文書を書いてきた。
王宮への上申書。
商会との契約書。
公爵家の通達。
社交界への招待状。
娘たちの将来を決める書類。
言葉には困らなかった。
家を守るため。
国益のため。
王家への忠誠のため。
公爵家の責務として。
そう書けば、たいていのことは形になった。
だが、今、セレスティアへ向けて何かを書こうとすると、そのどの言葉も紙の上で腐る。
グレアムは、一度ペンを取った。
『セレスティアへ』
そこまでは書けた。
だが次が続かない。
少し迷って、彼はこう書いた。
『私はすべて、家のためを思って――』
途中で止まった。
エヴァンジェリンの声が耳に残っていた。
家を守るという言葉で娘を潰すことは、家を守ることではありません。
グレアムは、書いたばかりの一行を見つめた。
そして、乱暴に線を引いた。
違う。
少なくとも、この手紙でその言葉を使えば、また逃げることになる。
新しい便箋を取る。
もう一度、書く。
『セレスティアへ』
今度は、その下で長く止まった。
何を認めるのか。
何を謝るのか。
そもそも、自分は謝れるのか。
グレアムは椅子にもたれた。
窓の外に、エルフォード公爵邸の庭が見える。よく整えられた庭だ。左右対称に刈り込まれた低木、季節ごとに植え替えられる花、池の水面に映る白い東屋。
セレスティアは幼い頃、この庭の端でよく本を読んでいた。
リリアナは花壇の近くで蝶を追いかけていた。
エヴァンジェリンは、姉妹の間に立って微笑んでいた。
その光景を、グレアムは遠くから見ていた。
遠くから。
いつも、遠くからだった。
近づけば、何を言ってよいか分からなかった。
だから、成績を見た。
礼儀作法を見た。
婚約者としての振る舞いを見た。
家にとって有益かを見た。
娘の顔を、見ていたつもりだった。
だが、もしかすると、自分は娘の役割しか見ていなかったのかもしれない。
グレアムは、胸の奥に不快な重さを覚えた。
認めたくない。
しかし、その考えはもう消えなかった。
もう一度、ペンを取る。
『私は、お前の責任感を知っていた』
そこまで書いて、彼は手を止めた。
これは書ける。
言い訳ではなく、事実として。
『知っていたからこそ、国、王妃基金、支援先の名を出せば、お前が拒みにくいことも分かっていた』
文字が少し乱れた。
父として、その一文を書くのは苦しかった。
だが、書いた。
『私は、それを利用しようとした』
書いた瞬間、ペン先が紙に引っかかった。
利用。
自分が娘にしたことを、その言葉で書く。
胸の奥がざわつく。
こんな言葉を公爵家当主が残してよいのか。
後で不利になるのではないか。
そんな考えが浮かんだ。
しかし、すぐに別の声が浮かぶ。
父として、ではなくても構いません。
せめて、一人の責任ある者として。
エヴァンジェリンの声だった。
グレアムは、続きを書いた。
『王太子府との協議において、お前本人へ先に説明すべきだった。だが私は、反発されることを避けた。反発されると分かっていたなら、それはお前に意思があると分かっていたということだ』
そこまで書いて、彼は目を閉じた。
この言葉は、セレスティアが対質の場で言ったものだった。
私の意思があると知っていながら、それを避けて話を進めた。
その通りだ。
グレアムは、白紙を睨むように見た。
王宮で処分案が検討されている。
登城制限。
会計室への外部監査官常駐。
王妃基金関連事務からの排除。
屈辱だった。
だが、この手紙は処分を軽くするためのものではない。
少なくとも、そうであってはならない。
もし処分を軽くするために書けば、セレスティアは見抜くだろう。
あの娘は、もう見抜く。
グレアムは、しばらくしてから書いた。
『この手紙をもって、許しを求めるつもりはない』
それは、リリアナが以前書いた言葉に似ていた。
姉妹は似ているのかもしれない。
彼は今さらそんなことを思った。
『ただ、私が何をしたのかを、私自身の言葉で記す』
そこで、手が止まった。
謝罪の言葉が出てこない。
申し訳なかった。
すまなかった。
悪かった。
どれも紙の上で軽く見える。
父としての謝罪を、彼はこれまでほとんどしたことがなかった。
謝るくらいなら、黙って補填した。
言葉ではなく、家の力で整えた。
それで済むと思っていた。
だが、今回は済まない。
グレアムは、ゆっくりと書いた。
『お前にしたことは、父としても、当主としても、誤っていた』
書いた。
ついに、書いた。
その一文を見た瞬間、胸の中の何かが崩れた気がした。
誤っていた。
当主としても。
父としても。
認めた。
紙の上で。
グレアムは、ペンを置いた。
それ以上は、まだ書けなかった。
手紙は途中だった。
だが、初めて逃げない文が紙に残った。
同じ頃、王宮では国王側近会議が開かれていた。
場所は、王宮奥の小会議室。
大きな会議ではない。
だが、出席者は重い。
国王アレクシス。
王弟宰相カイン。
王宮会計長。
法務局長。
王太子府監督官。
そして数名の高位顧問。
机の上には、グレアム公爵への処分案と、王太子府への再発防止措置案が置かれている。
アレクシス国王は、しばらく文書を読んでいた。
年齢は重ねているが、目はまだ鋭い。亡き王妃エレオノーラの名が出るたびに、その目の奥がわずかに沈む。
王妃基金。
それは、彼にとってもただの会計制度ではない。
亡き妻の遺志だった。
その基金が、社交費や贈答品の調整に使われていた可能性がある。
しかも、娘のように王宮で働いていた令嬢の名を無断で使って。
国王は、文書を閉じた。
「第二案を基軸にする、というのが宰相府の見解か」
カインが頷く。
「はい」
「第三案ではない理由は」
「現時点で当主権限の制限まで踏み込むと、エルフォード公爵家そのものへの政治的攻撃に見えます。争点がずれる」
法務局長が補足する。
「証拠上も、第三案は追加確定後が妥当です。王妃基金不適切支出への直接関与は濃厚ですが、すべての金額確定にはまだ時間が必要です」
国王は、視線を落とした。
「セレスティア嬢の意見は」
会議室がわずかに静まった。
カインは、淡々と答える。
「第一案は弱い。第三案はまだ早い。第二案を基軸にすべき、と」
国王は、目を細めた。
「父親への処分案に、そう言ったのか」
「はい」
「重くしろ、とも、軽くしろ、とも言わずに」
「はい」
国王は、しばらく黙った。
やがて、低く言った。
「エレオノーラが見込んだ娘だな」
その言葉に、カインは表情を変えなかった。
だが、わずかに目が柔らかくなった。
国王は続ける。
「グレアムは、昔から家を守る男だった」
それは褒め言葉にも聞こえた。
しかし、国王の声には苦さがあった。
「だが、家を守ることと、家の者を使い潰すことの区別を失ったか」
誰もすぐには答えなかった。
王宮会計長が、慎重に口を開く。
「王妃基金関連事務からの恒久的排除は、最低限必要かと」
「当然だ」
国王は短く言った。
「エルフォード公爵家会計室への外部監査官常駐は」
カインが答える。
「必要です。公爵家内部での証拠整理と再発防止を外から見る必要があります」
「登城制限は」
「一定期間。完全排除ではなく、王妃基金および会計関連会議への出席停止。通常の貴族儀礼への出席は、内容を絞って許可する案です」
国王は頷いた。
「重すぎず、軽すぎず、か」
「はい」
「誰がその線を引いた」
カインは、少しだけ間を置いた。
「証拠です」
国王は、かすかに笑った。
「お前らしい」
しかし、すぐに顔を引き締める。
「王太子府については」
王太子府監督官が説明する。
「略式確認印の廃止、関連文書再確認、アルノー・ベリルの職務停止、会計責任者バゼルの処分と再教育、王太子殿下への監査報告閲覧義務および会計講習。以上を提案しております」
国王は、少しだけ目を伏せた。
息子の名がそこにある。
王太子ジュリアス。
王国の未来を担うはずの男。
その男が、自分の府の会計と実務を見ていなかった。
知らなかった。
その言葉で済む立場ではない。
「ジュリアスは受け入れるか」
カインが答える。
「すでに受け入れる意向を示しています」
「そうか」
国王の声には、安堵よりも重い疲れがあった。
「なら、読ませろ。嫌というほど」
「その予定です」
「よい」
国王は、処分案の表紙に手を置いた。
「第二案を基軸に、国王裁可案として整えよ。第三案は追加証拠確定時の留保事項として明記する」
法務局長が頭を下げる。
「承知いたしました」
カインも頷いた。
裁可は、ほぼ定まった。
まだ正式文書化はこれからだが、方向は決まった。
国王は最後に言った。
「セレスティア嬢には、裁可前に当事者としてではなく、監査補助者として概要を知らせよ」
カインが顔を上げる。
「よろしいのですか」
「よい」
国王は、静かに言った。
「自分の父親への処分案に妥当性を求めた者だ。決定を聞く権利くらいはある」
宰相府にその知らせが届いたのは、夕刻近くだった。
カインは、セレスティアを呼んだ。
いつもの執務室ではなく、小さな応接室だった。
机の上には、国王側近会議の要約が置かれている。
セレスティアは、すぐに察した。
「父の件ですね」
「ああ」
カインは文書を開いた。
「国王側近会議で、処分方針が固まった」
胸が、少しだけ強く鳴る。
「第二案を基軸。王妃基金関連事務からの恒久的排除。王宮会計関連職務停止。一定期間の登城制限。公爵家会計室への外部監査官常駐。ラドクリフ商会関連取引の停止および再審査」
セレスティアは、静かに聞いていた。
一語一語が重い。
父の未来を変える言葉だ。
カインは続ける。
「第三案、つまり当主権限の一部制限などは、追加証拠確定時の留保事項となる」
「そうですか」
「国王裁可案として整えられる。正式決定は明日以降だ」
セレスティアは、膝の上で手を重ねた。
震えてはいない。
だが、胸の奥は揺れている。
「妥当だと思います」
そう言えた。
声は小さかったが、言えた。
カインは頷く。
「国王も同じ判断だ」
「国王陛下が」
「ああ」
少し間があった。
カインは、静かに言った。
「陛下は、君についても触れた」
「私に、ですか」
「エレオノーラが見込んだ娘だと」
その言葉が、胸に届いた瞬間、セレスティアは息を止めた。
亡き王妃エレオノーラ。
彼女が残した帳簿。
手紙。
監査官補佐の道。
基金の理念。
その全てが、今ここに繋がっている。
セレスティアは、目の奥が熱くなるのを感じた。
泣くほどではない。
けれど、深いところを揺らされた。
「私は、王妃陛下の期待に応えられているのでしょうか」
つい、そう尋ねた。
カインは、すぐには答えなかった。
少し考え、それから言った。
「期待に応える、という考え方は少し危うい」
「危うい?」
「君はまた、誰かの期待を背負おうとする」
セレスティアは言葉を失った。
図星だった。
王妃の期待。
それは、父の命令や王太子府の都合とは違う。
けれど、また自分を縛る鎖にもなり得る。
カインは続ける。
「エレオノーラが君を見込んだのは、君に背負わせるためではない。選べる道を残すためだ」
胸の奥に、その言葉が沈んでいく。
選べる道。
セレスティアは、静かに頷いた。
「はい」
カインは、文書を閉じた。
「今日はここまでだ」
「はい」
「父親の手紙が来るかもしれない」
セレスティアは顔を上げた。
「父から?」
「ああ。エヴァンジェリン夫人が促したらしい」
胸がまた揺れる。
父の手紙。
これまでなら、命令か通達だった。
娘宛ての手紙という形で、何が来るのか分からない。
「読めるか」
「届いてから考えます」
「それでいい」
その夜、グレアムはまだ机の前にいた。
手紙は、ようやく最後に近づいていた。
何度も書き直し、何枚も破った。
破った紙は、暖炉に入れていない。
執事に見られたくなかったからではない。
自分がどれだけ言い訳を書こうとしたのか、見ておくために机の端へ置いていた。
家のため。
国のため。
仕方がなかった。
お前にも悪いところがあった。
王太子府が求めた。
私は父として心配していた。
そう書きかけては、消した。
残った手紙は、短かった。
『セレスティアへ』
『私は、お前の責任感を知っていた。知っていたからこそ、国、王妃基金、支援先の名を出せば、お前が拒みにくいことも分かっていた』
『私は、それを利用しようとした』
『王太子府との協議において、お前本人へ先に説明すべきだった。だが私は、反発されることを避けた。反発されると分かっていたなら、それはお前に意思があると分かっていたということだ』
『この手紙をもって、許しを求めるつもりはない。ただ、私が何をしたのかを、私自身の言葉で記す』
『お前にしたことは、父としても、当主としても、誤っていた』
そこまで。
その先が、どうしても書けない。
申し訳なかった、と書くべきなのだろう。
だが、その言葉が本当に自分の中にあるのか分からない。
いや、ある。
あるのかもしれない。
だが、長年使わなかった感情は、錆びた扉のように動かない。
グレアムは、ペンを握った。
手が少し震える。
最後に、彼は短く書いた。
『すまなかった』
たった五文字。
あまりにも短い。
だが、それ以上に長く書けば、また言い訳になる気がした。
グレアムは、手紙を読み返した。
不格好だった。
当主の文としては、あまりに弱い。
父の手紙としても、あまりに遅い。
それでも、初めて書いた。
言い訳だけではない手紙を。
封をする前に、エヴァンジェリンが部屋に入ってきた。
彼女は、机の上の手紙を見た。
「書けましたか」
「短い」
「短くても」
「これでよいのか分からん」
グレアムは、珍しく本音を漏らした。
エヴァンジェリンは、静かに言った。
「よいかどうかは、セレスティアが決めることです」
グレアムは、しばらく黙った。
そして、封蝋を溶かした。
エルフォード公爵家の印を押すか迷う。
家の印。
当主の印。
いつもの癖で、それを手に取ろうとした。
だが、止めた。
これは家としての通達ではない。
父から娘への手紙、のはずだった。
彼は、個人用の小さな印を探した。
長年使っていなかった印。
グレアム個人の印。
それを封に押した。
エヴァンジェリンは、その様子を黙って見ていた。
少しだけ、目に涙が浮かんでいた。
翌朝。
セレスティアの机に、父からの手紙が届いた。
公爵家当主印ではない。
小さな個人印が押された封筒だった。
彼女は、それを見た瞬間、胸の奥が固まった。
ミリアが慎重に尋ねる。
「受領記録を残しますか」
セレスティアは少し考えた。
「私信として受け取ります。ただし、監査対象者からの文書なので、受領時刻と封緘状態だけ記録してください」
「承知しました」
手続きが終わる。
部屋には、カインもいた。
彼は何も言わない。
読むかどうかも尋ねない。
それがありがたかった。
セレスティアは、封筒に手を置いた。
父の字。
自分宛て。
命令ではないのかもしれない。
でも、読めば傷つくかもしれない。
また「家のため」と書かれていたら。
また「お前にも責任がある」と書かれていたら。
そう思うと、封を切る手が動かなかった。
カインが、静かに言った。
「今読まなくていい」
セレスティアは顔を上げる。
「はい」
「読まない選択もある」
「はい」
「読むなら、誰かを同席させてもいい」
セレスティアは、封筒を見つめた。
選べる。
読むか。
読まないか。
今読むか。
後で読むか。
一人で読むか。
誰かと読むか。
父からの手紙を前にして、自分に選択肢がある。
それが、不思議だった。
少し前なら、父の手紙はすぐ読まなければならないものだった。
従うべきものだった。
今は違う。
セレスティアは、封筒を机の引き出しには入れなかった。
胸元にも抱かなかった。
ただ、机の右端へ置いた。
「今日の勤務が終わってから読みます」
彼女は言った。
「一人ではなく……宰相閣下に、同席をお願いしてもよろしいでしょうか」
カインは短く頷いた。
「ああ」
「ありがとうございます」
セレスティアは、父の手紙から目を離し、改革案第三稿の修正表を開いた。
まだ仕事はある。
父の手紙を後回しにする。
それは逃げではない。
自分で順番を選ぶことだった。
その日の覚書には、まだ何も書かなかった。
夜、父の手紙を読むまで。
セレスティアは、そう決めた。
机の右端には、個人印の封筒がある。
開かれていない手紙。
そこに何が書かれているのか、まだ分からない。
けれど今、彼女は知っている。
読むかどうかを決めるのは、自分だ。
父ではない。
家ではない。
王宮でもない。
自分自身だ。




