第33話 社交界は、ようやく私の名前を思い出しました
公表文が出た翌日、王都の社交界は朝から妙に騒がしかった。
もちろん、誰も表立って騒いではいない。
貴族とは、声を潜めながら大声で噂を広げる生き物である。
朝の礼拝堂。
王宮の回廊。
侯爵夫人の小さな茶会。
馬車寄せでの一瞬の挨拶。
花屋の前で偶然会ったふりをした立ち話。
あらゆる場所で、同じ話題が囁かれていた。
リリアナ・エルフォード嬢が、王太子妃候補としての公的慈善活動を一時控える。
理由は体調不良ではない。
本人の申し出。
王妃基金および慈善関連実務について必要な確認を行うため。
そして、王太子府においても関連実務の引き継ぎ体制を確認する。
たった数行の文面だった。
だが、そこには社交界が好む材料が詰まっていた。
妹の一時停止。
王太子府の引き継ぎ不備。
王妃基金。
公爵家。
そして、その文面の奥に見える、セレスティア・エルフォードの影。
「体調不良ではないのね」
「本人の申し出、と書かれていましたわ」
「普通なら体調不良で濁すところでしょうに」
「宰相府が関わった文面でしょう?」
「でも、あの言い回し……セレスティア様がお作りになったのでは?」
「あり得ますわ。あの方、昔から王太子府の式典文を整えていらしたもの」
「そういえば、慈善茶会の案内状も、セレスティア様の時は読みやすかったわね」
「ええ。地味でしたけれど、何を支援する茶会なのかは一目で分かりました」
「リリアナ様の茶会案は、花と菓子ばかりだったとか」
「でも、それも王太子府の引き継ぎが悪かったのでしょう?」
「そう書かれているようなものですものね。『王太子府においても』ですから」
「……では、セレスティア様は追い出されたのではなく、追い出した側が困っているのでは?」
その最後の言葉は、いくつもの茶会で形を変えて囁かれた。
社交界は残酷だ。
昨日まで持ち上げていた者を、今日は平気で疑う。
昨日まで地味だと笑っていた者を、今日は「やはり必要な方だった」と褒める。
セレスティアは、その移り気な評価を信用していなかった。
だが、無視もできなかった。
評価は風だ。
風向きが変われば、王宮内の判断も、貴族家の態度も、商会の動きも変わる。
そして今、その風は少しずつ王太子府とエルフォード公爵家へ向かい始めていた。
宰相府には、午前中だけでいくつもの文書が届いた。
王宮女官長からは、過去の慈善茶会運営資料の再確認依頼。
北方三州出身の伯爵夫人からは、王妃基金の支援先に関する証言提供の申し出。
西部養蜂組合を支援していた侯爵未亡人からは、過去の納品記録の写し。
そして数名の貴族夫人から、匿名に近い形で「リリアナ嬢だけを責めるべきではない」とする意見書まで届いた。
セレスティアは、それらを一つずつ分類していた。
「急に増えましたね」
記録官ミリアが、机の端に積まれた封筒を見て小さく言った。
セレスティアは頷く。
「公表文が出たことで、皆様が動ける理由ができたのだと思います」
「理由、ですか」
「はい。これまでは噂でしかありませんでした。けれど、王宮から正式に『王妃基金および慈善関連実務』『王太子府の引き継ぎ体制』という言葉が出た。ならば、自分の知る範囲で申し出てもよい、と判断したのでしょう」
ミリアは感心したように息を吐いた。
「文面ひとつで、こんなに変わるのですね」
「変わります」
セレスティアは封筒を開けながら答えた。
「だから怖いのです」
言葉は刃にも包帯にもなる。
昨日、自分が考えたことだ。
今日、その意味を改めて感じている。
あの公表文は、リリアナを完全には守らない。
だが、必要以上に叩かせないための堤にはなった。
同時に、王太子府と公爵家の責任を完全に消さない。
その結果、今まで黙っていた人々が少しずつ文書を出し始めた。
セレスティアは、侯爵未亡人からの納品記録写しを見た。
西部養蜂組合。
慈善茶会で使う蜂蜜。
王太子府の茶会にも流れていた疑いのある品目だ。
納品量、請求量、実使用量。
そこに差がある。
「ローレン副監に回してください」
「はい」
ミリアが受け取る。
次の封筒を開ける。
北方三州出身の伯爵夫人からの手紙だった。
文面は丁寧だが、ところどころ怒りが滲んでいる。
『セレスティア様が担当されていた時期は、茶会で北方産品が使われる理由が招待状にも記されておりました。ところが近年、王太子府主催の交流会では、産地紹介が省かれ、ただ珍しい菓子として扱われたことがございます』
セレスティアは、目を細めた。
支援が、演出に変わる。
地方産品を使うこと自体は悪くない。
だが、その背景を伝えなければ、ただの珍味になる。
支援対象の声が消える。
それは、王妃基金の理念から外れていく第一歩だった。
「これも分類してください。王太子府茶会関連、支援意義の希薄化」
「承知しました」
ミリアの筆が走る。
セレスティアは、ふと手を止めた。
自分は、これを何度も防いできたのだ。
招待状に産地を記す。
菓子の横に小さな説明札を置く。
茶会の挨拶で、支援先の現状を一文だけ入れる。
席順に、地方出身の夫人をさりげなく配置する。
どれも小さなことだった。
派手ではない。
誰も褒めない。
だが、その小さな積み重ねが、慈善をただの華やかな場にしないための線だった。
それを社交界は、今になって思い出している。
遅い。
そう思った。
けれど、遅くても思い出さないよりはいい。
昼前、宰相府に一人の客が訪ねてきた。
ローゼン侯爵夫人。
社交界で長く影響力を持つ老婦人であり、亡き王妃エレオノーラとも親しかった人物だ。
背筋はまっすぐで、銀髪を美しく結い上げ、黒に近い紫のドレスを着ている。
彼女が宰相府を訪ねるだけで、王宮内の噂はさらに加速する。
セレスティアは応接室で夫人を迎えた。
「お久しぶりです、ローゼン侯爵夫人」
「ええ。本当に久しぶりね、セレスティア様」
夫人は、セレスティアを見つめた。
その目は鋭いが、冷たくはない。
「ずいぶん、お顔つきが変わられました」
「そうでしょうか」
「ええ。以前は、立派な鳥籠の中で姿勢よく立っている鳥のようでした」
セレスティアは、少しだけ返答に困った。
夫人は遠慮なく続ける。
「今は、羽の傷を見せながら机に向かっている人の顔です」
「……褒められているのでしょうか」
「かなり褒めています」
どこかで聞いたような言い方だった。
思わずセレスティアは小さく笑った。
ローゼン侯爵夫人も、少しだけ目元を緩める。
「今日伺ったのは、昔の茶会記録についてです」
夫人は侍女に合図し、厚い封筒を机に置かせた。
「亡き王妃陛下のご存命中、私は何度か慈善茶会の支援側におりました。その頃の案内状、席次表、産品説明札の写しを保管しておりました」
セレスティアは息を呑んだ。
「貴重な資料です」
「ええ。もっと早く出すべきでした」
夫人は静かに言った。
「けれど、どこへ出せばよいのか分からなかった。王太子府へ出せば握り潰されるかもしれない。エルフォード公爵家へ出せば、あなたをさらに苦しめるかもしれない。宰相府が正式に動き、公表文が出て、ようやく持ってこられました」
セレスティアは、封筒へ手を置いた。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらです」
夫人は、ゆっくり首を横に振った。
「あなたがいなくなってから、茶会は華やかになりました。でも、軽くなりました」
その言葉は、短いが重かった。
「軽く、ですか」
「ええ。菓子は増えました。花も増えました。若い方々の笑い声も増えた。けれど、誰のための茶会なのか、分かりにくくなった」
セレスティアは黙って聞いていた。
「あなたの茶会は、地味でした。けれど、帰りの馬車で支援先の話が出ました。北方の冬は厳しいのね、とか、養蜂組合から蜂蜜を買うことがこんな意味を持つのね、とか。そういう話が、夫人たちの間で自然に出たのです」
夫人は少しだけ目を伏せた。
「今思えば、それはあなたが仕込んでいたのですね」
「仕込むというほどでは」
「謙遜は結構。社交界では、そういうのを仕込みと言います」
セレスティアは少しだけ頬を緩めた。
夫人の言葉は厳しいが、不思議と痛くない。
そこには、見ていた人の重みがあった。
「セレスティア様」
ローゼン侯爵夫人は、声を少し低くした。
「社交界は愚かです。昨日まであなたを地味だと笑っていた者たちが、今日はあなたを必要だったと言うでしょう」
「はい」
「それに傷ついても、のぼせ上がってはいけません」
セレスティアは、思わず背筋を伸ばした。
「はい」
「ですが、利用はなさい」
夫人の目が、鋭く光った。
「あなたを再評価する声が出ている今だからこそ、王妃基金の本来の意味を社交界に戻すのです。あなた個人の名誉回復だけで終わらせてはなりません」
セレスティアは、その言葉を胸に受けた。
個人の名誉回復だけで終わらせない。
それは、まさに今必要な視点だった。
自分の名前を取り戻す。
それは大切だ。
だが、王妃基金そのものを取り戻さなければ、また誰かの名前が使われる。
また誰かの善意が飾りにされる。
「肝に銘じます」
セレスティアが答えると、ローゼン侯爵夫人は満足そうに頷いた。
「それから、リリアナ様のこと」
セレスティアの表情が少し硬くなる。
夫人はそれを見逃さなかった。
「あの公表文は、よくできていました」
「ありがとうございます」
「妹君を甘やかしてはいない。でも、晒し者にもしていない。あれは難しい線です」
セレスティアは静かに息を吐いた。
「まだ、許したわけではありません」
「でしょうね」
夫人はあっさり頷いた。
「許しは急ぐものではありません。ただ、壊す必要のないものまで壊さない判断は、政治にも家族にも必要です」
その言葉は、深く残った。
セレスティアは、夫人が帰った後もしばらく封筒の上に手を置いていた。
ローゼン侯爵夫人の訪問は、すぐに王宮中へ広がった。
それは、社交界の風向きを決定づけた。
亡き王妃と親しかった侯爵夫人が、宰相府へ資料を持ち込んだ。
つまり、王妃基金監査は単なるエルフォード家の内輪揉めではない。
王妃の遺志に関わる問題だ。
そう受け止められた。
午後には、さらに数通の証言申し出が届いた。
ある伯爵夫人は、王太子府の茶会で支援先の説明が省かれたことを証言した。
別の子爵夫人は、リリアナが慈善茶会の場で「お姉様ほど難しくしなくてもよいと言われています」と笑っていたことを書いてきた。
その一文を読んだとき、セレスティアは少しだけ胸が痛んだ。
リリアナは、その頃本当に何も分かっていなかった。
そして、そう言わせる空気があった。
王太子府も、公爵家も、社交界も。
難しくしない方がいい。
明るくすればいい。
可愛らしく振る舞えばいい。
その積み重ねが、今の問題に繋がっている。
セレスティアは、証言を分類する。
『茶会目的の希薄化』
『支援説明不足』
『前任者実務への否定的誘導』
『リリアナ発言。ただし背景説明必要』
最後の項目を書きながら、彼女はミリアに言った。
「リリアナ個人への攻撃材料として扱わないでください」
ミリアは頷いた。
「背景込みで記録します」
「お願いします」
リリアナが言ったことは事実かもしれない。
だが、それだけを切り取れば、ただの愚かな妹になる。
実際には、彼女にそう思わせた環境がある。
責任は消さない。
だが、単純化もしない。
その線引きは面倒だ。
けれど、面倒だからこそ必要だった。
王太子府では、社交界の反応に侍従たちが青ざめていた。
特に広まっているのは、ひとつの疑問だった。
なぜ王太子府は、セレスティア・エルフォードを手放したのか。
それは、ジュリアスにとって最も刺さる噂だった。
単に恋愛でリリアナを選んだ。
それなら、まだ説明しようがある。
だが、王太子府の実務がセレスティアの確認に依存していたこと、略式確認印まで使われていたこと、婚約破棄後も実務だけ残す計画があったことが少しずつ漏れ聞こえ始めると、噂は変わった。
王太子殿下は、最も必要な人材を捨てたのではないか。
そして、捨てた後も使おうとしたのではないか。
ジュリアスは、その噂を直接聞いたわけではない。
だが、廊下の視線で分かった。
若手貴族たちの態度が、以前と違う。
媚びるような笑みは残っている。
だが、その下に薄い疑問がある。
本当に、この方についていって大丈夫なのか。
ジュリアスは、初めて自分の足元が揺らぐ感覚を味わっていた。
これまでは、王太子であるだけで人が集まった。
自分が話せば、人は頷いた。
自分が笑えば、場は華やいだ。
自分が未来を語れば、若い貴族たちは目を輝かせた。
だが、その未来を支える紙を、誰が整えていたのか。
誰の確認で、誰の根回しで、誰の細かな気遣いで、その場が成立していたのか。
社交界は、今になって思い出し始めている。
それが、ジュリアスには苦かった。
執務室に、リリアナが入ってくる。
彼女は以前より地味なドレスを着ていた。華やかな宝石はつけていない。手には王妃基金規程と、セレスティアから戻された質問票がある。
「殿下。今日の学習範囲について、王宮会計室から資料をいただけることになりました」
「そうか」
ジュリアスは、彼女の手元を見た。
付箋だらけの規程。
青いインクで直された質問票。
その字は、セレスティアのものだろう。
胸が痛む。
「リリアナ」
「はい」
「君は、社交界で噂されていることを知っているか」
リリアナは少し顔を強張らせた。
「はい。侍女から少し」
「怖くないのか」
「怖いです」
彼女は素直に答えた。
「でも、お姉様が返事に書いてくださいました。噂への返事より、自分の理解を先にしなさいと」
また、セレスティア。
ジュリアスは、少しだけ目を伏せた。
「君は、彼女を信じているのか」
リリアナは迷った。
「信じる、とは少し違うかもしれません。まだ、お姉様に許されていませんし、私も自分がしたことを全部分かっているわけではありません」
「では」
「でも、お姉様の書くことは、逃げ道を塞ぐけれど、落とし穴ではないと思います」
ジュリアスは、思わず黙った。
逃げ道を塞ぐけれど、落とし穴ではない。
それは、今のセレスティアをよく表していた。
そして、自分がかつて彼女の厳しさをどう誤解していたかも思い知らせる言葉だった。
「そうか」
それだけ言うのが精一杯だった。
エルフォード公爵邸では、グレアムの苛立ちが日増しに強くなっていた。
社交界の風向きが変わっている。
それを、彼は肌で感じていた。
朝届いた招待状の一つには、これまでなら当然のようにあった一文が抜けていた。
『ご息女リリアナ様もぜひご一緒に』
それがない。
代わりに、別の侯爵夫人から届いた手紙には、こう書かれていた。
『王妃基金に関する一連の確認が落ち着きましたら、セレスティア様にも改めてお目にかかりたく存じます』
グレアムは、その一文を見て手紙を握り潰しかけた。
社交界が、セレスティアを思い出している。
それも、公爵家の娘としてではなく、王妃基金を支えていた人物として。
父である自分を飛び越えて。
それが、彼の怒りをさらに煽った。
だが、その怒りをどこへ向ければよいのか、もう分からなくなっていた。
セレスティアを責めれば、さらに記録される。
リリアナを責めれば、妻が黙っていない。
王太子府を責めれば、過去の協議が掘り返される。
宰相府を責めれば、公爵家会計室の封印がさらに重くなる。
グレアムは、初めて自分が動けなくなっていることに気づいた。
権威とは、動ける力だと思っていた。
今は、権威そのものが鎖になっている。
夕方、宰相府では一日の報告がまとめられた。
社交界からの証言申し出、王太子府への風評、エルフォード公爵家への反応。
カインは報告書を読み、短く言った。
「風が変わったな」
セレスティアは頷く。
「はい」
「利用できる」
「ローゼン侯爵夫人にも、そう言われました」
「あの人らしい」
カインは少しだけ口元を緩めた。
セレスティアは報告書を見ながら言った。
「けれど、怖くもあります」
「なぜ」
「昨日まで私を地味だと見ていた方々が、今日になって必要だったと言う。リリアナを持ち上げていた方々が、今は距離を置き始める。風向きが変わっただけで、人の評価はこんなに動くのですね」
「社交界はそういう場所だ」
「はい」
セレスティアは、静かに紙を閉じた。
「だから、風に乗りすぎないようにしたいです」
カインが彼女を見る。
「いい判断だ」
「王妃基金の本来の意味を戻すためには使います。でも、私個人の名誉回復に酔ってはいけない」
「ローゼン夫人の言葉か」
「はい。刺さりました」
「刺さる言葉を言う人だからな」
セレスティアは少し笑った。
その笑いは穏やかだった。
社交界が自分を再評価している。
以前なら、嬉しかったかもしれない。
父に認められ、王太子に必要とされ、社交界に褒められることが、自分の価値だと思っていた頃なら。
今は違う。
嬉しさがないわけではない。
ただ、それに自分を預ける気はなかった。
自分の名前は、誰かの評価で戻るのではない。
自分で確認し、自分で署名することで戻る。
セレスティアは、今日の覚書を書いた。
『社交界は、ようやく私の名前を思い出した』
少し考え、次の一行。
『でも、私は社交界に思い出してもらうために生きるのではない』
さらに一行。
『王妃基金の意味を戻すために、この風を使う』
ペンを置く。
引き出しを開け、紙を重ねる。
扉の外から、いつもの声がする。
「寝ろ」
「今日はまだ早いです」
「早く寝ろ」
「雑になっていませんか」
「効率化だ」
「王太子府の効率化みたいなことを言わないでください」
少し間があった。
カインが低く笑った気配がした。
「それは痛いな」
セレスティアも、少し笑った。
「では、寝ます」
「ああ」
灯りを落とす。
王宮の外では、まだ噂が走っている。
自分を持ち上げる噂も。
リリアナを疑う噂も。
王太子府を責める噂も。
公爵家を嘲る噂も。
そのすべてを止めることはできない。
けれど、明日また紙の上で線を引くことはできる。
事実を隠さず、必要以上に人を壊さず。
そのために、セレスティアは眠る。
明日も、自分の名前で確認するために。




