第32話 妹を晒し者にしないための、公表文案
リリアナ・エルフォードの王太子妃候補としての公的活動一時停止は、王宮内に静かな波紋を広げた。
正式発表はまだ出ていない。
それでも、王宮という場所は沈黙の中で噂が走る。
王太子府の文書室に宰相府の封印が貼られた。
エルフォード公爵家の会計室にも封印が貼られた。
王妃基金の監査が王太子府へ広がった。
そして、リリアナ嬢が王太子妃候補としての活動を控えるらしい。
廊下ですれ違う女官たちは、声を潜める。
侍従たちは、目を合わせない。
書記官たちは、普段より少しだけ早足になる。
王宮は、表向き静かだった。
だが、その静けさの下で、無数の言葉が泡のように生まれていた。
「リリアナ様が失脚したのでは」
「やはりセレスティア様の復讐らしい」
「王太子殿下とエルフォード家が揉めている」
「王妃基金に不正があったとか」
「妹君は何も知らずに担がれただけとも聞いた」
「いや、姉君から婚約者を奪った報いだろう」
どの噂も、少しずつ真実を含んでいる。
だから厄介だった。
完全な嘘なら否定すればいい。
だが、半分だけ事実を含んだ噂は、否定すればするほど別の形で広がる。
宰相府の会議室では、その噂に対する公表文案が検討されていた。
机の上には、三種類の草案が置かれている。
一つ目は、王太子府側が出した草案。
『リリアナ・エルフォード嬢は体調を考慮し、当面のあいだ王太子妃候補としての公的慈善活動を控える』
セレスティアは、それを読んだ瞬間に首を横に振った。
「これは駄目です」
カインが顔を上げる。
「理由は」
「体調不良ではありません。事実と違います」
オルドが頷く。
「同意します。後で本人が王妃基金規程を学んでいることが知られれば、隠蔽と取られます」
ローレン副監も渋い顔をした。
「それに、体調不良とすると、リリアナ様個人の弱さの問題に見えます。今回の本質は、王太子府の引き継ぎ不備と本人の理解不足です」
セレスティアは、草案を横へ置いた。
二つ目は、法務官オルドが作った厳格な案だった。
『王太子府における慈善関連実務の不適切な引き継ぎ、および王妃基金関連知識の不足を受け、リリアナ・エルフォード嬢は王太子妃候補としての慈善活動を一時停止する』
正確ではある。
だが、セレスティアは少しだけ眉を寄せた。
「これも、そのままでは強すぎます」
オルドは素直に頷いた。
「そう思います。法務用ならこれですが、公表文には硬すぎる」
「リリアナだけが不適切だったように読めます。王太子府の引き継ぎ不備にも触れていますが、言葉の重心が妹に寄りすぎています」
ミリアが小さく頷いた。
「社交界では『リリアナ様が無知だった』という部分だけ切り取られるかもしれません」
「そうです」
セレスティアは、三つ目の草案へ視線を移した。
これは、カインがざっくり書いたものだった。
『王妃基金および慈善関連実務の再確認のため、リリアナ・エルフォード嬢は王太子妃候補としての公的慈善活動を一時控える。王太子府は、引き継ぎ体制および関連実務の確認を進める』
簡潔だった。
事実から大きく外れていない。
だが、まだ少し足りない。
セレスティアは、文面を見つめながら言った。
「この方向がよいと思います。ただ、リリアナが自分で申し出たことは入れるべきです」
カインが目を細める。
「本人の主体性を出す?」
「はい」
「なぜ」
「そうしないと、王太子府または宰相府に処分されたように見えます。実際には、あの子が自分で一時停止を申し出ました」
セレスティアは、ペンを取った。
「それは、残すべきです」
リリアナが自分で選んだこと。
その一点だけは、噂に飲み込ませてはいけない。
失脚でも、処分でも、体調不良でもない。
無知を認め、学ぶために下がる。
それは恥ではある。
しかし、ただの醜聞ではない。
セレスティアは、草案の余白に書き込んだ。
『リリアナ・エルフォード嬢本人の申し出により』
その文字を見て、カインが少しだけ頷く。
「いい」
オルドも文面を読み直す。
「本人の申し出と書けば、処分ではないことは伝わります。ただ、本人に責任があることも消えません」
「それでいいです」
セレスティアは答えた。
「消す必要はありません。ただ、晒し者にする必要もありません」
その言葉を口にしたとき、自分でも少し驚いた。
晒し者にしない。
そう言えた。
少し前なら、リリアナが社交界で何を言われようと、自分には関係ないと思ったかもしれない。
いや、そんなふうに思いきれなかったから苦しかったのかもしれない。
憎い。
傷つけられた。
でも、壊れてほしいわけではない。
その複雑さを、ようやく言葉にできるようになってきた。
カインが静かに言った。
「続けろ」
セレスティアは、文面を整える。
『王妃基金および慈善関連実務の理解を深めるため』
少し考えて、首を横に振る。
「理解を深める、では軽いですね」
ローレン副監が言う。
「再確認、または再学習でしょうか」
「再学習は少し直接的すぎます。社交界では揶揄されるかもしれません」
ミリアが遠慮がちに言った。
「『必要な実務確認を行うため』ではどうでしょう」
セレスティアは頷いた。
「よいと思います」
書き換える。
『王妃基金および慈善関連実務について必要な確認を行うため』
さらに続ける。
『王太子妃候補としての公的慈善活動を一時控える』
ここまではよい。
問題は次だ。
王太子府の責任に触れるかどうか。
触れなければ、リリアナ個人の問題に見える。
触れすぎれば、王太子府の監査内容に踏み込みすぎる。
セレスティアは少し考えた。
『王太子府においても、関連実務の引き継ぎ体制を確認する』
これなら、王太子府側の問題も含む。
だが、詳細な不正や略式確認印には触れていない。
オルドが確認する。
「監査中の事実と矛盾しません」
ローレン副監も頷く。
「会計室としても問題ありません」
カインは、文面全体を見た。
「読め」
セレスティアは、声に出した。
「『リリアナ・エルフォード嬢本人の申し出により、王妃基金および慈善関連実務について必要な確認を行うため、同嬢は当面、王太子妃候補としての公的慈善活動を一時控える。王太子府においても、関連実務の引き継ぎ体制を確認する』」
部屋はしばらく静かだった。
最初に頷いたのは、カインだった。
「これでいい」
オルドも同意する。
「事実を曲げていません。かつ、必要以上に個人攻撃にならない」
ミリアがほっとしたように微笑んだ。
セレスティアは、ペンを置いた。
胸の奥に、少しだけ疲れが広がる。
たった数行。
だが、その数行の中に、どれだけの線引きが必要だったか。
妹を守りすぎない。
妹を晒し者にしない。
王太子府の責任を消さない。
監査中の事実を出しすぎない。
社交界の餌にしすぎない。
言葉は、刃にも包帯にもなる。
今日、セレスティアはその両方を意識して書いた。
王太子府で公表文案を読んだジュリアスは、しばらく何も言わなかった。
文案は短い。
だが、余計な嘘がなかった。
『本人の申し出により』
そこが、最初に目に入った。
リリアナが自分で申し出た。
それを残している。
そして。
『王太子府においても、関連実務の引き継ぎ体制を確認する』
王太子府の責任も、消していない。
侍従長は、やや慎重に言った。
「殿下。『王太子府においても』の文言は、外せないでしょうか。府に問題があったと受け取られかねません」
ジュリアスは、文案を見たまま答えた。
「問題があったのだろう」
侍従長が息を呑む。
以前のジュリアスなら、そうは言わなかった。
王太子府の威信を守る言葉を探したはずだ。
だが今、彼は静かに文面を読んでいる。
「これを外せば、リリアナだけの問題に見える」
「それは……」
「違うだろう」
短い言葉だった。
侍従長は頭を下げた。
「承知しました」
ジュリアスは、もう一度文案を見る。
セレスティアが関わったのだろう。
分かった。
この文面には、彼女らしい厳密さがある。
そして、リリアナを完全には突き放さない線がある。
ジュリアスは、胸の奥に鈍い痛みを覚えた。
セレスティアは、かつて自分のためにこういう文面を作っていた。
誰かを傷つけすぎず、しかし事実を隠さない。
王太子府の体面を守りながら、問題の火種を小さくする。
彼は、それを当たり前に受け取っていた。
今、その力が自分ではなく、事実のために使われている。
そしてリリアナを守るためにも使われている。
ジュリアスは、低く言った。
「この文案で承認する」
侍従長は深く礼をした。
エルフォード公爵邸では、文案を読んだグレアムが渋面を作った。
「王太子妃候補としての公的慈善活動を一時控える、だと」
当主執務室の空気は重い。
エヴァンジェリンとリリアナも同席していた。
リリアナは緊張した顔で父を見ている。
グレアムは文案を机に置いた。
「こんなものを出せば、社交界で何を言われるか分からん」
「何も出さなければ、もっと言われます」
リリアナが言った。
声は小さいが、逃げていない。
「体調不良にすればいい」
「体調不良ではありません」
「方便だ」
「それではまた、嘘になります」
グレアムの目が鋭くなる。
「お前は、いつからそんな口を利くようになった」
リリアナの肩が震えた。
だが、エヴァンジェリンが隣で静かに言った。
「この子は、自分の言葉で話しているだけです」
グレアムは妻を睨む。
「お前もか」
「はい」
エヴァンジェリンは、夫の視線を避けなかった。
「この文案は、リリアナを必要以上に貶めていません。けれど、事実も隠していません。私は、これでよいと思います」
「お前に社交界の荒波が分かるのか」
「分かります」
意外なほどはっきりした答えだった。
グレアムが少し黙る。
エヴァンジェリンは続けた。
「私は、長く社交界の中で、波風を立てないことばかり考えてきました。その結果、セレスティアに譲らせ、リリアナを甘やかし、あなたの判断に従ってきました」
声は震えていた。
だが、折れない。
「波風を避けるための嘘は、後で必ず大きな波になります」
リリアナは、母を見た。
母がこんなことを言うのを、初めて聞いた。
グレアムは、しばらく黙っていた。
やがて、低く言う。
「好きにしろ」
承認とは言いにくい。
だが、反対しきる力もない声だった。
リリアナは深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
グレアムは返事をしなかった。
彼は文案をもう一度見た。
『本人の申し出により』
そこが、どうにも目障りだった。
娘が自分で申し出た。
父の判断ではなく。
家の都合でもなく。
娘自身の意思として。
グレアムにとって、それは未だに慣れない言葉だった。
公表文は、その日の夕刻に王宮内へ掲示され、主要貴族家へも通知された。
文面は短い。
だが、社交界には十分な燃料だった。
すぐに噂が走った。
「体調不良ではないのね」
「本人の申し出、とあるわ」
「王妃基金の実務確認ですって」
「つまり、リリアナ様は実務を知らなかったということ?」
「王太子府の引き継ぎ体制も確認する、とある。府側にも何かあるのでは」
「セレスティア様の名前が出ていないのが、逆に怖いわ」
「冷静な文面ね。宰相府が作ったのかしら」
「いえ、これは……あの方の文面に似ている」
あの方。
誰のことか、分かる者には分かった。
かつて王太子府の式典文や慈善茶会の案内文を整えていた令嬢。
今は宰相府で王妃基金監査に関わっているセレスティア・エルフォード。
噂は、彼女の名にも向かった。
「妹を追い落としたのでは?」
「でも文面は、妹君を守っているようにも見える」
「事実を隠さず、必要以上に叩かせない。あれは相当頭が回る」
「王太子府は、なぜあの方を手放したのかしら」
その最後の噂は、静かに、しかし確実に広がり始めた。
宰相府では、公表後の反応が随時報告されていた。
セレスティアは、報告書を読みながら、少しだけ眉を寄せた。
「やはり、噂になりますね」
カインは当然のように答える。
「なる」
「止められませんか」
「止める必要はない。流れすぎないように堤を作るだけだ」
「堤」
「今日の文案がそれだ」
セレスティアは、机の上の公表文控えを見た。
短い文。
その中に、できる限りの堤を作ったつもりだった。
完全には守れない。
リリアナは噂されるだろう。
王太子府も批判されるだろう。
エルフォード公爵家も、さらに疑われる。
けれど、体調不良という嘘で覆い隠すよりはいい。
セレスティアは、静かに言った。
「リリアナが、自分で申し出たことは残せました」
「ああ」
「王太子府の引き継ぎ責任も消しませんでした」
「ああ」
「でも、あの子は傷つきますね」
「傷つく」
カインは否定しない。
その正直さが、今はありがたかった。
「だが、嘘で守ればもっと傷つく」
「はい」
セレスティアは頷いた。
それは、自分が嫌というほど知っている。
王妃の手紙を隠され、署名を使われ、婚約破棄の裏で実務残置案を作られていた。
全部、家や王太子府の都合のよい言葉で覆われていた。
嘘で守ることは、守ることではない。
後で、もっと深く刺さるだけだ。
ミリアが控えめに言った。
「リリアナ様から、文書が届いています」
セレスティアは顔を上げた。
封筒は、以前より少し簡素だった。
中には、一枚の便箋。
『お姉様へ』
『公表文を読みました。体調不良にされなかったことに、少し怖くなりました。でも、ほっともしました』
『私が申し出たことを書いてくださって、ありがとうございます』
『王太子府の引き継ぎ体制についても書かれていました。私だけのせいではないと逃げたくなる気持ちもあります。でも、私の責任が消えたわけではないと分かっています』
『噂されるのは怖いです。ですが、嘘で隠されるよりは、今の方がいいと思いたいです』
セレスティアは、最後の一文を読んで小さく息を吐いた。
『思いたいです』
言い切っていない。
それがリリアナらしかった。
怖くて、揺れて、それでもそう思いたい。
セレスティアは返事を書いた。
『リリアナへ』
『怖いと感じるのは当然です。公表文は、あなたを完全に守るものではありません。ただ、あなたが自分で申し出たことと、王太子府にも確認すべき点があることは残しました』
『噂は止められません。けれど、嘘で隠すより、事実に近い言葉で堤を作る方が、後で立ち戻れます』
『今は、規程を読み続けてください。噂への返事より、あなた自身の理解を先にしてください』
少し迷い、最後に一行加える。
『怖いなら、怖いと書いて構いません』
署名する。
セレスティア・エルフォード。
返事を封じながら、彼女は自分が少しだけ姉に戻っていることを感じた。
完全ではない。
昔のようには戻れない。
でも、昔とは違う形で、妹に言葉を渡している。
夜、セレスティアは覚書を書いた。
『嘘で守ることは、守ることではない』
少し考えて、もう一行。
『晒し者にしないことと、事実を隠すことは違う』
さらに一行。
『リリアナは、怖いと書いた』
ペンを置く。
引き出しを開ける。
今日の紙を重ねる。
その束は、もう小さな帳簿のようだった。
自分の感情の帳簿。
誰かに勝手に切り取られないための記録。
扉の外から、カインが声をかける。
「寝ろ」
「はい」
「公表文は悪くなかった」
「褒めてくださっているのですか」
「かなり」
セレスティアは少し笑った。
「ありがとうございます」
「ただ、明日は社交界からの反応が増える」
「はい」
「王太子府再監査も進む」
「はい」
「だから寝ろ」
「結局そこですね」
「一番重要だ」
セレスティアは灯りを落とした。
王宮の外では、もう噂が走っている。
彼女の名前も、リリアナの名前も、ジュリアスの名前も、エルフォード公爵家の名も。
止められない。
けれど、今日、ひとつだけ嘘を避けられた。
体調不良ではない。
失脚でもない。
本人の申し出による、一時停止。
その一文が、リリアナの足場になることを願った。
許しではない。
でも、守るべき事実は守った。




