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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第31話 妹は、王太子妃候補の一時停止を申し出ました

 リリアナ・エルフォードは、朝から同じ一文を見つめていた。


『王太子妃候補としての活動を、一時停止したく存じます』


 書いた。


 確かに、自分の手で書いた。


 けれど、その一文の下に続く言葉が出てこない。


 辞退ではない。

 婚約破棄でもない。

 殿下を嫌いになったわけでもない。


 ただ、このまま王太子妃候補として茶会に出て、笑って、花を選び、招待客に微笑むことが、どうしてもできなくなっていた。


 机の上には、王妃基金規程の写しが開かれている。


 何度読んでも難しい。


 公益性。

 支出対象。

 直接支援。

 広報費。

 社交費との区別。

 適正価格。

 受益者確認。


 以前なら、こんな文字列を見ただけで閉じていただろう。


 そして、侍女に言ったはずだ。


「お姉様に聞いておいて」


 あるいは。


「殿下の事務方が何とかしてくださるわ」


 でも、もうそれはできなかった。


 お姉様の名前は、便利な確認印ではない。

 殿下の事務方は、正しさを保証する魔法ではない。

 知らないまま笑っていることは、可愛らしさではなく、誰かに扱いやすくされることなのかもしれない。


 リリアナは、ペンを握り直した。


『理由は、王妃基金および慈善茶会の実務について、私自身の理解が著しく不足しているためです』


 そこまで書くと、胸が痛んだ。


 著しく不足。


 自分で自分にそんな言葉を書くのは、恥ずかしい。


 けれど、嘘ではない。


 さらに続ける。


『また、王太子府より渡された引き継ぎ資料が不十分であったことを知りましたが、それを理由として私自身の確認不足を免れるつもりはございません』


 書きながら、リリアナは唇を噛んだ。


 この一文は、姉に届くだろうか。


 セレスティアは、また厳しく見るだろう。


 でも、読んではくれる気がした。


 最近の姉の手紙は、優しくはない。


 でも、逃げ場を塞ぐためではなく、立つ場所を示す厳しさがある。


 リリアナは、その厳しさに初めて救われていた。


 今まで自分を救っていたのは、甘やかしだった。


 泣けば許される。

 困れば誰かが整える。

 分からないままでいいと言われる。


 それは楽だった。


 でも、その楽な場所の下には、姉の仕事と、知らない誰かの支援金と、王妃基金の規程が敷かれていた。


 それを知った今、もう無邪気には座れない。


 扉が軽く叩かれた。


「リリアナ。入ってもいいかしら」


 母エヴァンジェリンの声だった。


「はい」


 母が入ってくる。


 最近の母は、以前より少し痩せたように見える。目元に疲れがあり、微笑みも弱い。


 けれど、リリアナを見る目は、前よりも少しだけまっすぐだった。


 エヴァンジェリンは机の上の文書へ視線を落とした。


「書いているのね」


「はい」


「見ても?」


 リリアナは少し迷い、頷いた。


 母は文書を読んだ。


 一行目で、わずかに息を呑む。


「一時停止……」


「辞退ではありません」


 リリアナは慌てて言った。


 それから、自分の声が震えていることに気づいた。


「でも、このまま続けるのは、違うと思うんです」


 エヴァンジェリンは黙って続きを読んだ。


 しばらくして、静かに椅子へ座る。


「殿下には話したの?」


「まだです」


「お父様には?」


 リリアナは首を横に振った。


「言えば、反対されると思います」


「そうね」


 母は否定しなかった。


 以前なら、父に逆らわないようにと先に言ったかもしれない。


 だが今は、そうしない。


「怖いです」


 リリアナは小さく言った。


「殿下に嫌われるのも、お父様に叱られるのも、社交界で笑われるのも怖いです」


「ええ」


「でも、何も分からないまま王太子妃候補を続ける方が、今はもっと怖いです」


 エヴァンジェリンの顔が歪んだ。


 母は、娘に近づきかけた。


 けれど、抱きしめる手前で止まった。


 リリアナはもう、抱きしめれば泣き止むだけの少女ではなくなりつつある。


 母は、そのことを少しずつ学んでいた。


「あなたが自分で決めるなら」


 エヴァンジェリンは言った。


「お母様は、止めません」


 リリアナは目を見開いた。


「本当に?」


「本当よ。ただし、殿下にも、お父様にも、自分の言葉で伝えなさい」


 胸が、どきんと鳴る。


 自分の言葉で。


 それが一番怖い。


 でも、姉もそうしていた。


 父に。

 王太子に。

 王太子府の者たちに。


 私抜きで、私の人生を決めないでください。


 リリアナは、手元の文書を見た。


 なら、自分も言わなければならない。


 私抜きで、私を王太子妃候補として飾らないでください、と。


 王太子府へ向かう馬車の中で、リリアナは封筒を両手で握っていた。


 正式な申し出書。


 まだ清書したばかりで、インクの匂いが少し残っている。


 馬車の窓から見える王都は、いつも通り華やかだった。商人が荷車を押し、貴族の馬車が通り、街角の花売りが春の花束を並べている。


 以前なら、リリアナはこういう景色を見るだけで胸が弾んだ。


 今日のドレスは殿下に褒められるだろうか。

 茶会で誰に声をかけられるだろうか。

 お姉様より、自分の方が王都の光に似合っているのではないか。


 そんなことを考えていた。


 今は違う。


 王都の華やかさの裏に、見えない帳簿があることを知ってしまった。


 花を飾るにも費用がいる。

 菓子を出すにも、購入先がある。

 地方産品を選ぶことは、支援にも見栄にもなる。

 茶会は、微笑むだけの場ではない。


 知れば知るほど、怖くなる。


 でも、知らないままよりはいい。


 王太子府に着くと、侍従たちがいつも通り礼をした。


「リリアナ様。殿下がお待ちです」


 その言葉に、リリアナは少しだけ胸を押さえた。


 殿下がお待ちです。


 以前なら、嬉しかった。


 今も、嬉しさがまったくないわけではない。


 それが自分でも苦しかった。


 まだ好きなのだ。


 ジュリアスの金色の髪も、優しく名前を呼ぶ声も、舞踏会で手を差し出してくれた瞬間も、全部忘れられない。


 けれど、好きだからこそ、何も知らないまま隣には立てない。


 執務室に入ると、ジュリアスは机の前で立っていた。


 机の上には、王妃基金規程の写しと、王太子府確認印使用文書の一覧がある。


 彼も読んでいる。


 それが、少しだけリリアナを驚かせた。


「リリアナ」


 ジュリアスが言った。


「来てくれてよかった」


 その声は、以前より少し疲れていた。


 リリアナは礼をする。


「殿下。本日は、お願いがあって参りました」


 封筒を差し出す。


 ジュリアスの表情が変わった。


「お願い?」


「はい」


 彼は封筒を受け取り、開いた。


 文面を読む。


 最初の一行で、眉が動いた。


『王太子妃候補としての活動を、一時停止したく存じます』


 執務室の空気が静かになる。


 ジュリアスは、ゆっくり顔を上げた。


「一時停止とは、どういう意味だ」


「そのままの意味です」


 リリアナの声は震えていた。


 それでも、言葉は出た。


「私は、王妃基金も、慈善茶会も、王太子妃候補の実務も、まだ理解できていません。このまま候補として茶会や公務に出ることは、相応しくないと思います」


「君は学べばいい」


「はい。学びます」


「なら、停止する必要はない」


「あります」


 リリアナは、初めて殿下の言葉を遮った。


 ジュリアスが驚いたように彼女を見る。


「私は、知らないまま王太子妃候補として振る舞ってきました。皆様も、それでよいと思っていました。私も、それに甘えていました」


「リリアナ」


「でも、もうそのままではいられません」


 手が震える。


 けれど、封筒を胸に抱くようにして、続ける。


「殿下。私は、明るいだけの候補として扱われたくありません」


 ジュリアスの顔が歪んだ。


 その言葉は、以前にも聞いている。


 だが、正式な申し出として向けられると重さが違う。


「私は、君をそんなふうに扱ったつもりはない」


 リリアナは、目を伏せた。


「分かっています。殿下は、私に優しくしてくださいました。重いことを見せないようにしてくださったのも、私を思ってのことだったのかもしれません」


「そうだ」


「でも、それでは駄目だったんです」


 リリアナの声に涙が混じる。


 だが、泣き崩れなかった。


「私が何も知らないまま笑っていることで、誰かが裏で帳尻を合わせていました。お姉様の名前が使われていました。王妃基金の使い道も歪んでいました」


 ジュリアスは言葉を失う。


「私、もう嫌です。知らないまま可愛くしていればいい自分も、それを楽だと思っていた自分も」


 リリアナは、深く息を吸った。


 そして、はっきり言った。


「だから、学ぶ時間をください。候補として表に立つ前に、自分が何を背負うのかを知りたいのです」


 ジュリアスは、長く黙っていた。


 執務室の時計の音だけが聞こえる。


 彼は手元の申し出書を見た。


 リリアナの字は、綺麗ではない。


 ところどころ、力が入りすぎて線が濃くなっている。


 けれど、セレスティアの整った文字とは違う意味で、その字は本人のものだった。


 自分で考えて、自分で書いた字。


 ジュリアスは、胸の奥が痛むのを感じた。


 また一人、自分の隣にいた少女が、自分の望む形から変わろうとしている。


 以前なら、こう思っただろう。


 セレスティアに影響されたのだ。

 宰相府に煽られたのだ。

 罪悪感でおかしくなっているのだ。


 でも、今はそう言い切れなかった。


 リリアナの手元にある王妃基金規程。


 書き込まれた付箋。

 震える声。

 それでも逸らさない目。


 これは、彼女自身の変化だった。


「君は、私の隣に立つのが嫌になったのか」


 ジュリアスは、気づけばそう尋ねていた。


 王太子としてではない。


 一人の男としての声だった。


 リリアナの目に涙が溜まる。


「嫌になったわけではありません」


「では、なぜ」


「好きだからです」


 その言葉に、ジュリアスは息を止めた。


 リリアナは、涙をこぼしながら続けた。


「殿下のことがまだ好きです。だから、何も知らないまま隣で笑って、後で殿下をもっと困らせる人間になりたくありません」


 ジュリアスは、何も言えなかった。


 それは、甘い告白ではなかった。


 好きだから離れるのではない。

 好きだから学ぶ時間が欲しい。


 彼は、初めてリリアナを「守るべき明るい少女」としてではなく、苦しみながら選ぼうとする一人の人間として見た気がした。


 そして同時に、思った。


 自分はセレスティアにも、これをさせなかった。


 選ばせなかった。


 リリアナにも、危うく同じことをしようとしていた。


「……分かった」


 ジュリアスは、ようやく言った。


 リリアナが顔を上げる。


「殿下」


「王太子妃候補としての公的活動は、一時停止とする。理由は、王妃基金および慈善茶会実務の再学習、王太子府再監査への協力。期間は、宰相府と王宮会計室の初期監査が終わるまで」


 リリアナは、呆然とした。


 本当に、認められるとは思っていなかった。


 ジュリアスは、申し出書を机に置いた。


「ただし」


 リリアナの肩が跳ねる。


「学ぶなら、私も学ぶ」


「殿下も?」


「ああ」


 ジュリアスは、王妃基金規程の写しに手を置いた。


「君だけが知らなかったわけではない。私も知らなかった。いや、知ろうとしていなかった」


 その言葉は、まだぎこちなかった。


 けれど、初めて彼自身が自分で言った言葉だった。


 リリアナは、涙を拭った。


「はい」


 短い返事だった。


 だが、その中に、少しだけ安堵があった。


 その報告は、午後には宰相府へ届いた。


『リリアナ・エルフォードより、王太子妃候補としての公的活動一時停止の申し出あり』


『王太子ジュリアス・ヴァレンティアは、これを暫定的に承認』


『停止理由は、王妃基金および慈善茶会実務の再学習、王太子府再監査への協力、本人の理解不足解消』


 セレスティアは、その文書を読んだ。


 何度も。


 リリアナが、自分で申し出た。


 ジュリアスが、認めた。


 胸の奥に、複雑な感情が広がる。


 安堵。

 寂しさ。

 痛み。

 少しの誇らしさ。


 誇らしいと思ってしまった自分に、セレスティアは戸惑った。


 あの妹に対して。


 婚約者を奪い、自分の仕事を軽く見て、部屋を衣装部屋にしようとした妹に対して。


 それでも、リリアナが自分で選ぼうとしたことを、セレスティアは少しだけ誇らしいと思った。


 カインが向かいから尋ねる。


「どう見る」


 セレスティアは、文書を机へ置いた。


「良い判断だと思います」


「監査上は?」


「王太子府再監査中に、リリアナが候補として公的茶会や基金関連行事に立つのは不適切です。本人の理解不足も認めています。一時停止は妥当です」


「姉としては?」


 その問いに、セレスティアは少しだけ詰まった。


 カインは、ときどきこういうところで容赦がない。


 だが、今は答えられた。


「……よく、自分で言ったと思います」


「そうか」


「はい」


 胸が少し熱くなる。


「遅いです。たくさん傷つきましたし、傷つけられました。でも、あの子が自分で考え始めたことは、悪いことではありません」


「君らしい見方だ」


「甘いでしょうか」


「甘いだけなら、一時停止を妥当とは言わない」


 セレスティアは、少しだけ笑った。


 その通りだった。


 妹をただ庇うなら、候補を続けてもよいと言ったかもしれない。


 逆に憎むだけなら、辞退すべきだと言ったかもしれない。


 だが、今の彼女は、一時停止が妥当だと思った。


 リリアナが学ぶためにも。

 王太子府が再監査を受けるためにも。

 セレスティア自身が、妹をもう一度人として見るためにも。


 オルドが実務的に言った。


「この件は王宮内で公表範囲を決める必要があります。理由を誤ると、リリアナ様個人の醜聞になります」


 ローレン副監も頷く。


「『体調不良』などにすると、また事実が隠れます。かといって詳細を出しすぎれば、王妃基金監査に支障が出る」


 カインがセレスティアを見る。


「案は」


 セレスティアは少し考えた。


「『王妃基金および慈善関連実務の再確認のため、リリアナ・エルフォード嬢は王太子妃候補としての公的慈善活動を一時控える』ではどうでしょうか」


 オルドが頷く。


「事実から大きく外れていません」


 ローレン副監も言う。


「体調不良より健全です。再学習の意味も含められる」


 カインは短く言った。


「それで草案を作れ」


 ミリアが記録する。


 セレスティアは、胸の奥で静かに息を吐いた。


 隠さない。


 けれど、晒しものにしない。


 その線を探す。


 それは、王妃基金の監査と同じだった。


 厳しさと、人を壊さない配慮。


 どちらも必要だった。


 エルフォード公爵邸では、リリアナの一時停止の報が父グレアムに届いた。


 彼は文書を読んだ瞬間、声を荒げた。


「勝手なことを!」


 当主執務室の空気が震える。


 エヴァンジェリンは、静かに夫を見た。


「勝手ではありません。リリアナ自身が考えて決めたことです」


「だから問題なのだ!」


 グレアムは机を叩いた。


「王太子妃候補が一時停止など、社交界で何を言われると思っている」


「今のまま続けても、いずれもっと大きな問題になります」


「女には分からん」


 その言葉に、エヴァンジェリンは一瞬だけ目を伏せた。


 以前なら、そこで引き下がった。


 だが、今は違う。


「分からないままにしてきたのは、あなたです」


 静かな声だった。


 グレアムが睨む。


「何だと」


「私にも、リリアナにも、セレスティアにも。家の都合だと言って、知らせないまま進めてきました」


「家を守るためだ」


「その家の中で、娘たちが自分の人生を知らないまま使われていたのです」


 グレアムは言葉を詰まらせた。


 そこへ、リリアナ本人が入ってきた。


 顔色は悪いが、目は逸らしていない。


「お父様。一時停止は、私が申し出ました」


「撤回しろ」


「しません」


 即答だった。


 グレアムが目を見開く。


 リリアナは震えていた。


 それでも、言葉を続ける。


「私は、知らないまま候補を続けたくありません。お姉様の名前を裏で使われることも、私が看板のように扱われることも、もう嫌です」


「リリアナ!」


「お父様」


 リリアナの声が、少しだけ強くなる。


「私抜きで、私の将来を決めないでください」


 その言葉に、部屋が凍った。


 それは、セレスティアの言葉と響き合っていた。


 けれど、リリアナ自身の言葉でもあった。


 グレアムは、しばらく娘を見つめていた。


 二人の娘が、同じ方向から自分へ言葉を向けている。


 片方は宰相府から。

 もう片方は屋敷の中から。


 それは、彼にとって想定外の包囲だった。


 リリアナは、深く礼をした。


「王妃基金規程を学びます。分からないことは、分からないと書きます。その上で、自分が候補を続けるのか考えます」


 グレアムは、何も言えなかった。


 リリアナは母の隣へ立った。


 その姿は、まだ頼りない。


 けれど、以前のように誰かの後ろに隠れるだけの少女ではなかった。


 その夜、セレスティアのもとへ、リリアナから短い手紙が届いた。


『お姉様へ』


『王太子妃候補としての公的活動を、一時停止したいと殿下に申し出ました。殿下は承認してくださいました』


『怖かったです。今も怖いです。でも、何も知らないまま続ける方が怖いと思いました』


『私はまだ、候補を辞めるか続けるか決められません。殿下のことも、まだ好きです。でも、好きだからこそ、何も分からないまま隣に立つのは違うと思いました』


『お姉様が私の質問票に「分からないと書いたことはよい」と書いてくださったので、もう少し分からないことを書きます』


『分からないことが多すぎます。でも、書きます』


 セレスティアは、その手紙を読んで、しばらく動かなかった。


 やがて、便箋を用意した。


 短い返事にするつもりだった。


『リリアナへ』


『一時停止の申し出を確認しました。監査上も妥当な判断だと思います』


 少し迷い、次を書く。


『怖いと書けたことも、よいと思います。怖くないふりをすると、人はまた誰かに判断を預けます』


 さらに一行。


『続けるか辞めるかは、今すぐ決めなくてよいと思います。ただし、決めるときは、殿下のためでも、お父様のためでも、私への罪悪感のためでもなく、あなた自身が何を背負うかを知った上で決めてください』


 最後に、迷いながら書いた。


『質問票は見ます。急がなくて構いません』


 署名する。


 セレスティア・エルフォード。


 書き終えたあと、少しだけ胸が軽くなった。


 姉妹として話す日は、まだ先だ。


 けれど、紙の上では少しずつ会話が始まっている。


 その日の覚書に、セレスティアはこう書いた。


『リリアナは一時停止を選んだ』


 少し考えて、次の一行を書く。


『選ぶことは、誰かを裏切ることではない』


 ペンを置く。


 引き出しを開ける。


 紙の束は厚い。


 その上に、今日の一枚を重ねた。


 扉の外から、いつもの声がする。


「寝ろ」


「はい」


「今日は早いな」


「リリアナに、急がなくていいと書きましたので」


「自分にも適用しろ」


「……努力します」


「そこは、はいだ」


 セレスティアは小さく笑った。


「はい」


 灯りを落とす。


 明日も、監査は続く。


 父の抵抗は終わっていない。

 王太子府の再監査も始まったばかり。

 リリアナの選択も、まだ途中。


 けれど今日、妹は自分で一歩下がった。


 逃げるためではなく、知るために。


 その一歩を、セレスティアは記録した。


 許しではない。


 和解でもない。


 でも、たしかに前へ進むための一歩だった。

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