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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第30話 妹は、王太子妃候補を続けるべきか考え始めました

対質記録は、静かな刃だった。


 怒鳴り声も、断罪の言葉もない。

 ただ、誰が何を言ったのかが、淡々と並んでいる。


『本人の反発が予想されたため、事前説明を避けた』


『父命や国への奉仕を名目に協力を得る想定があった』


『本人の意思確認は後回しにされた』


 エルフォード公爵邸の当主執務室で、グレアムはその三行を何度も読んだ。


 読むたびに、文字が重くなる。


 これは誰かの感情的な訴えではない。

 宰相府の正式な対質記録である。


 家令マルクスが認めた。

 王太子府侍従長補佐アルノーも認めた。

 そして、その場にはセレスティア本人もいた。


 もう、知らなかったとは言えない。

 誤解だったとも言いにくい。


 グレアムは、文書を机に置いた。


「馬鹿なことを……」


 それが誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 マルクスか。

 王太子府か。

 宰相府か。

 それとも、あそこまで記録を積み上げた娘か。


 扉が控えめに叩かれる。


「旦那様。マルクスでございます」


「入れ」


 入ってきた家令は、以前より小さく見えた。


 長年この屋敷を動かしてきた男だ。使用人たちは彼の一言で動き、商会主たちは彼に頭を下げた。だが今、その背中は少し丸い。


 グレアムは文書を指で叩いた。


「ずいぶん喋ったようだな」


 マルクスは、深く頭を下げた。


「申し訳ございません」


「謝る相手を間違えている」


 低い声だった。


 マルクスは顔を上げない。


「旦那様のご意向を守るべき立場でありながら」


「違う」


 グレアムは遮った。


「お前は守り方を間違えた」


 マルクスは、そこでわずかに顔を上げた。


「守り方、でございますか」


「余計なことまで認める必要はなかった」


 その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が変わった。


 マルクスは、少しだけ目を伏せる。


 以前なら、そこでただ「申し訳ございません」と言っただろう。


 だが、今日は違った。


「旦那様」


「何だ」


「私は、余計なことを認めたのでしょうか」


 グレアムの眉が動く。


「何が言いたい」


「対質の場で問われたことは、事実でございました」


「事実にも言い方がある」


「はい」


 マルクスは頷いた。


「けれど、セレスティア様は、言い方ではなく事実を見ておられました」


 その名が出た瞬間、グレアムの顔が険しくなる。


「お前まで、あの娘の肩を持つのか」


「肩を持つのではございません」


 マルクスの声は震えていた。


 だが、言葉は続いた。


「私どもは、セレスティア様が反発されると分かっておりました。分かっていたから、知らせませんでした。それを認めずに済ませることは、もう難しいかと存じます」


 グレアムは黙った。


 家令にまで、そう言われた。


 それは、当主としての彼の世界が崩れ始めている証だった。


 この屋敷では、長い間、グレアムの言葉が最終だった。


 妻も、娘たちも、使用人も、家令も。

 誰も最終的には逆らわなかった。


 しかし今、全員が少しずつ立ち止まっている。


 その中心にいるのは、戻ってこない長女だった。


 グレアムは、机の上の対質記録を見た。


『私抜きで、私の人生を決めないでください』


 その一文が、妙に目に残った。


 娘の言葉だ。


 かつて、彼の前ではほとんど本音を言わなかった娘の。


 グレアムは低く言った。


「下がれ」


 マルクスは一礼し、部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 グレアムは、椅子に深く座り込んだ。


 怒りはある。


 だが、それだけではない。


 認めたくないものが、胸の奥で重く沈んでいた。


 自分は、娘を分かっていたつもりだった。


 セレスティアは責任感が強い。

 国のためと言えば動く。

 父の命なら逆らわない。

 家のためなら耐える。


 確かに分かっていた。


 だが、それは娘を理解していたのではなく、娘の使い方を覚えていただけではないのか。


 その考えが頭をよぎり、グレアムはすぐに打ち消した。


 だが、打ち消したはずの言葉は、消えなかった。


 王太子府でも、対質記録は静かに波紋を広げていた。


 ジュリアスは執務室で、同じ一文を読んでいた。


『私抜きで、私の人生を決めないでください』


 紙の上の文字なのに、声が聞こえる気がした。


 セレスティアの声。


 式典の前に原稿を渡す声。

 茶会の席順を説明する声。

 地方支援費の不足を指摘する声。

 そして、婚約破棄の日に、静かに震えていた声。


 彼女は、あの日も泣き叫ばなかった。


 冷たいほど静かだった。


 だからジュリアスは、どこかで思っていたのかもしれない。


 セレスティアなら耐える。

 セレスティアなら、いずれ王宮のために戻ってくる。

 セレスティアなら、感情を抑えて正しいことをする。


 それは信頼ではなかった。


 都合のよい期待だった。


 ジュリアスは、文書を机へ置いた。


 そこへアルノーが呼ばれて入ってくる。


 昨日の対質以来、彼は目に見えて精彩を欠いていた。


「殿下。お呼びでしょうか」


「ああ」


 ジュリアスは、対質記録を示した。


「お前は、セレスティアに事前説明を避けた理由を認めたな」


「……はい」


「なぜ、私に先に言わなかった」


 アルノーは一瞬だけ表情を歪めた。


「殿下のお心を煩わせぬように、と」


「またそれか」


 ジュリアスの声に苛立ちが混じる。


「私の心を煩わせぬように、セレスティアには知らせず、リリアナには軽い資料だけを渡し、私には綺麗に整えた結果だけを見せていたのか」


 アルノーは答えられなかった。


 ジュリアスは立ち上がる。


「それは、私を守っていたのではない」


 声は低かった。


「私を何も知らない王太子にしていただけだ」


 アルノーは顔を伏せた。


「申し訳ございません」


「謝るな。まだ終わっていない」


 ジュリアスは、机の上に置かれた王妃基金規程へ視線を落とす。


 何頁か読んだ。


 難しかった。

 退屈でもあった。


 だが、そこには、自分が知らなかった王妃の意志があった。


 華やかな慈善ではなく、声の小さき者へ必要な支援を届けるため。


 セレスティアが何度も守ろうとしていたもの。


 自分が、よく見ていなかったもの。


「王太子府内の確認印使用文書を、全件一覧にしろ」


 ジュリアスは言った。


 アルノーが顔を上げる。


「すでに宰相府へ提出したものが」


「王太子府内でも作る。私が見る」


「殿下が、ですか」


 その反応に、ジュリアスは苦く笑った。


「そうだ。私が見ると言うのが、そんなに意外か」


「いえ」


「意外なのだろうな」


 ジュリアスは、自嘲するように言った。


「私自身も意外だ」


 アルノーは何も言わなかった。


「それから、リリアナへの引き継ぎ資料もすべて出せ。薄い資料だけではなく、作成途中だったものも、下書きも、廃棄予定だったものも」


「承知しました」


「もう、明るさのために隠すな」


 アルノーは、深く頭を下げた。


 ジュリアスは窓の外を見る。


 王太子府の庭は、今日も美しい。


 だが、その美しさの裏にどれだけの紙が隠れていたのか。


 彼は、ようやく少しだけ見始めていた。


 リリアナは、その日、王妃基金規程を開いたまま一時間以上動かなかった。


 読み進めては戻り、言葉の意味を侍女に確認し、それでも分からないところには小さな紙片を挟んだ。


 最初は、恥ずかしかった。


 こんなことも分からないのかと思われるのが怖かった。


 けれど、姉の手紙にあった。


 分からないところを、分からないと書いてください。


 だから、リリアナは書いた。


『第三条、基金支出対象の「公益性」の意味がまだ分からない』


『第七条、茶会費と広報費の違いが分からない』


『地方産品を購入することが、なぜ支援になるのか、もう少し知りたい』


 書いているうちに、涙が出そうになった。


 自分は、本当に何も知らなかった。


 でも、不思議なことに、知らないと書くたびに少しずつ息がしやすくなる。


 知らないと認めれば、知る場所ができる。


 これまで、自分は分かったふりをしていた。

 周りも、分かったふりのままでいいと言ってくれた。


 それは優しさに見えて、実は自分を薄い場所に置くことだった。


 机の端には、宰相府から届いた対質記録の写しがある。


『私抜きで、私の人生を決めないでください』


 姉の言葉。


 リリアナは、その一文を何度も読んだ。


 姉だけではない。


 自分も、そう言わなければならないのかもしれない。


 私抜きで、私を王太子妃候補として飾らないでください。


 その言葉が浮かび、リリアナは胸を押さえた。


 怖い。


 王太子妃候補を続けたい気持ちはある。


 華やかな未来に憧れていた。

 殿下の隣に立ちたいと思った。

 選ばれた自分を誇らしく思った。


 でも、その未来が「明るいだけの候補」として用意された席なら。


 その席に座ることは、本当に幸せなのだろうか。


 扉が叩かれた。


 母エヴァンジェリンが入ってくる。


「リリアナ。少しいいかしら」


「はい」


 エヴァンジェリンは、娘の机の上を見て目を細めた。


 王妃基金規程。

 再申請書。

 分からないことを書いた紙片。

 対質記録。


 少し前までのリリアナの机には、リボンや招待状や菓子の見本ばかりが並んでいた。


 今は違う。


 エヴァンジェリンは、静かに椅子へ座った。


「読んでいるのね」


「はい。難しいです」


「そう」


 母は、すぐに慰めなかった。


 以前なら、「無理しなくていいのよ」と言っただろう。


 今は言わない。


 リリアナは、その変化に気づいた。


「お母様」


「何?」


「私、王太子妃候補を続けていいのでしょうか」


 口にした瞬間、部屋の空気が静かになった。


 エヴァンジェリンは、すぐには答えなかった。


 母として、娘に安全な道を示したい気持ちはある。


 王太子妃候補を辞退すれば、社交界は騒ぐ。公爵家の立場も揺らぐ。リリアナ自身も傷つくだろう。


 だが、続ければいいと軽く言える状況でもない。


「分からないわ」


 エヴァンジェリンは、正直に答えた。


 リリアナは目を見開く。


「お母様でも、分からないのですか」


「分からない」


 母は、少し苦しそうに笑った。


「前の私なら、続けなさいと言ったと思うわ。せっかく選ばれたのだから、殿下のおそばにいなさい、と」


「今は?」


「今は……あなたが何を背負うのかを知らないまま続けなさいとは言えない」


 リリアナの胸が熱くなる。


 母が、初めて決めつけなかった。


「でも、辞めなさいとも言えないわ。あなたの気持ちもあるもの」


「私の気持ち」


「そう。殿下のことが好きなのか。王太子妃になりたいのか。それとも、選ばれた自分でいたいだけなのか。たぶん、全部少しずつあるでしょう」


 リリアナは、唇を噛んだ。


 図星だった。


 殿下が好き。

 王太子妃という立場に憧れる。

 姉より選ばれた自分でいたかった。


 全部ある。


 きれいな感情だけではない。


「考えなさい」


 エヴァンジェリンは言った。


「今度は、自分で」


 リリアナの目から、涙がこぼれた。


「はい」


 母は、娘を抱きしめなかった。


 ただ、隣に座っていた。


 今のリリアナには、その距離がちょうどよかった。


 宰相府では、対質記録を受けた二人の反応が、少しずつ報告として届いていた。


 エルフォード公爵家では、グレアムが再回答を保留。

 マルクスは追加証言に応じる意向あり。

 リリアナは王妃基金規程の写しを正式に請求。

 王太子府では、ジュリアスが略式確認印使用文書の内部一覧作成を指示。

 アルノーは追加資料提出を準備中。


 セレスティアは、それらを読みながら、不思議な感覚を覚えていた。


 紙が、人を動かしている。


 これまで自分は、紙の中で動かされていた。


 旧候補者。

 実務残置。

 父命で調整可能。

 セ確認済。


 しかし今は、記録された事実が、父を、王太子を、妹を、王太子府を動かしている。


 それは復讐ではない。


 いや、少しは復讐のような痛快さもあるのかもしれない。


 でも、それだけではない。


 歪んだものを、正しい場所へ戻していく作業だった。


 カインが書類を読みながら言う。


「リリアナ嬢が、王妃基金規程を請求した」


「はい」


「君が送った手紙の影響だな」


「そうでしょうか」


「そうだろう」


 セレスティアは、少しだけ視線を落とした。


「私は、あの子に厳しいことを書きました」


「必要な厳しさだ」


「王太子妃候補を続けるかどうか、あの子は考え始めるかもしれません」


「考えるべきだ」


 カインの答えは容赦がない。


 けれど、正しい。


「選ばれたから続けるのではなく、何を背負うかを知って選ぶべきだ」


 セレスティアは頷いた。


 自分にも、その機会がほしかった。


 王太子妃候補を続けるのか。

 王妃の用意した監査官補佐の道へ進むのか。

 王宮から離れるのか。


 選びたかった。


 リリアナには、今からでも選んでほしい。


 たとえ、その選択が姉妹にとってさらに痛いものになったとしても。


「宰相閣下」


「何だ」


「私は、リリアナが候補を続けることを望んでいるのでしょうか」


 自分でも分からない問いだった。


 カインは少し考えた。


「君は、彼女が自分で選ぶことを望んでいる」


 セレスティアは、胸の奥にその言葉を落とした。


 たぶん、そうだ。


 続けてほしいでも、辞めてほしいでもない。


 自分で選んでほしい。


 自分が選べなかったからこそ。


「はい」


 セレスティアは静かに頷いた。


「そうだと思います」


 その日の夕方、リリアナからセレスティア宛てに短い手紙が届いた。


 私信ではなく、確認依頼として。


 封筒には、王妃基金規程に関する質問票が入っていた。


 字はまだ揺れている。


 だが、以前より線が強かった。


『王妃基金規程第三条の公益性について、私の理解が合っているか確認をお願いします』


『慈善茶会費で認められる支出と、王太子府社交費で処理すべき支出の違いについて、私はまだ十分理解できていません』


『北方産品を茶会で使うことが支援になる理由を、自分の言葉で説明してみました。間違っていれば、指摘してください』


 その下には、リリアナなりの説明が書かれていた。


 拙い。


 ところどころ、誤解もある。


 でも、花や菓子の話だけではなかった。


 支援先。

 費用区分。

 誰の声を聞く場なのか。


 そこに触れようとしている。


 セレスティアは、しばらくその手紙を見つめた。


 胸が少しだけ温かくなった。


 許したわけではない。


 過去は消えない。


 でも、これは初めて、リリアナが同じ紙の上に立とうとしている証拠だった。


 セレスティアは、赤ではなく青のインクを選んだ。


 厳しく直す。


 でも、潰さない。


 最初の行に、こう書いた。


『公益性の理解は半分合っています。ただし、貴族に喜ばれることと、公益性があることは同じではありません』


 次の行。


『北方産品を使う理由については、よく考えています。ただ、購入先と適正価格の確認が抜けています』


 最後に、一文だけ添えた。


『分からないと書いたことは、よいと思います』


 書いてから、少し迷った。


 褒めすぎだろうか。


 いや、これは甘やかしではない。


 必要な確認だ。


 セレスティアは、その文を残した。


 夜。


 セレスティアは、今日の覚書を書いた。


『リリアナは、続けるかどうかを考え始めた』


 少し間を置いて、もう一行。


『私は、あの子に自分で選んでほしい』


 その下に、さらに一行。


『私も、これからは自分で選ぶ』


 ペンを置く。


 引き出しを開ける。


 今日の紙を重ねる。


 覚書の束は、ますます厚くなっている。


 痛みも、怒りも、少しの変化も、全部ここにある。


 扉の外から、カインの声がした。


「寝ろ」


「今日はまだ何も言っていません」


「言う前に言った」


「先回りですか」


「効率的だろう」


 セレスティアは、思わず笑った。


 その笑いは、以前より軽かった。


「はい。寝ます」


 灯りを落とす前に、彼女は机の上の質問票を一度だけ見た。


 リリアナの字。


 まだ拙い。


 でも、自分で書いた字。


 明日も、監査は続く。


 父の再回答。

 王太子府の追加資料。

 リリアナの選択。

 そして、セレスティア自身の道。


 何ひとつ終わっていない。


 それでも、今日ひとつだけ分かった。


 誰かに決められた人生を取り戻すには、自分で問いを書くところから始まる。


 リリアナも、ようやく問いを書き始めた。


 セレスティアも、まだ書き続ける。

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