第29話 私抜きで、私の人生を決めないでください
対質の日、宰相府の聞き取り室には二つの席が用意された。
一つは、エルフォード公爵家家令マルクスの席。
もう一つは、王太子府侍従長補佐アルノー・ベリルの席。
互いに向かい合うのではなく、少し斜めにずらされている。真正面に座らせれば、感情的な応酬になりやすい。斜めに置けば、視線は法務官へ向かう。
それも手続きだった。
人の言い訳すら、配置ひとつで形が変わる。
セレスティアは、少し離れた席に座っていた。
今日は主尋問者ではない。
法務官オルドが進め、必要なときだけ発言する。
カインは上座に座り、沈黙している。
その沈黙があるだけで、室内の空気は締まっていた。
先に入ってきたのはマルクスだった。
いつも通り黒い上着を着ているが、顔色は悪い。三十年仕えた公爵家の家令としての誇りが、今は重い鎧のように見えた。
次に、アルノーが入室した。
こちらは相変わらず整っている。けれど、以前のような余裕ある微笑は薄かった。
二人は一瞬だけ視線を交わした。
互いに知っている顔だった。
それだけで、セレスティアには分かった。
この二人は、やはり会っている。
資料の上だけではない。
実際に言葉を交わし、何かを決めた。
オルドが聞き取り開始を宣言する。
「これより、エルフォード公爵家家令マルクス殿、王太子府侍従長補佐アルノー・ベリル殿の対質を開始します。対象は、王太子妃候補交代前に作成された『旧候補者実務残置案』およびセレスティア・エルフォード様の実務継続協議に関する事実確認です」
記録官ミリアの筆が動き始める。
オルドはまず、時系列表を机に置いた。
「婚約破棄の二か月前、エルフォード公爵家の馬車が王太子府裏門を通過しています。記録上の訪問者はマルクス殿。同日夜、王太子府内でアルノー殿が作成責任者となった『次期妃候補移行に伴う実務負担整理』の下書きが作成されています」
マルクスは唇を固く結んだ。
アルノーは小さく息を吐く。
オルドが問う。
「この日、両名は面会しましたか」
先に答えたのはアルノーだった。
「事務上の打ち合わせはございました」
「内容は」
「王太子府の今後の事務体制についてです」
「セレスティア様の婚約者としての立場変更を前提にしたものですか」
アルノーは答える前にマルクスを見た。
マルクスは目を伏せたままだ。
「……正式決定前ではありましたが、可能性としては議題にありました」
正式決定前。
便利な言い方だった。
オルドはマルクスへ向く。
「マルクス殿。あなたの認識は」
「王太子府側より、今後の実務の混乱を避けたいとの相談がありました」
「候補者交代を前提に?」
「可能性として、です」
「その時点で、セレスティア様本人は知っていましたか」
「存じません」
「知らせるべきだとは考えませんでしたか」
マルクスは、かすかに眉を動かした。
「当主の判断を待つべき事項でございました」
オルドが淡々と記録を確認する。
「つまり、本人ではなく当主判断を優先した」
「公爵家の娘でございますので」
その言葉に、セレスティアの胸が冷えた。
公爵家の娘。
人ではなく、家の一部として扱う言葉。
オルドは次に、アルノーへ問う。
「アルノー殿。『旧候補者実務残置案』には、セレスティア様を候補者から外した後も、王妃基金、慈善茶会、地方支援費の実務に関与させる案が記載されています。これは誰の発案ですか」
アルノーは少しだけ姿勢を正した。
「王太子府の混乱を避けるため、事務方で検討した案です」
「事務方とは誰ですか」
「私を含む王太子府事務班です」
「王太子殿下の意向は」
「殿下は、セレスティア様の実務能力を高く評価しておられました」
「それは質問への答えではありません。殿下は、候補者交代後もセレスティア様に実務協力を求める意向を示しましたか」
アルノーは、少し沈黙した。
「……直接、そう明言されたわけではありません」
「では、誰がその意向を具体案にしましたか」
アルノーは観念したように答えた。
「私です」
室内の空気が少し重くなる。
オルドは表情を変えない。
「マルクス殿。公爵家側は、この案を受け入れましたか」
「受け入れたというより、検討に応じました」
「帳簿には『父命として調整可能』とあります。これは、セレスティア様本人が拒んだ場合、公爵家当主から命じることで実務に従事させられるという意味ですか」
「言葉が過ぎます」
「では、正確に説明してください」
マルクスは喉を鳴らした。
「セレスティア様は責任感の強い方です。国や王妃基金のためと説明すれば、最終的にはご協力いただけるだろうと」
「拒否された場合は?」
「……旦那様からお話しいただくことも想定しておりました」
セレスティアは、膝の上で手を握った。
やはり。
父命。
最終的には父が出る。
その構図が、はっきり口にされた。
オルドは、アルノーへ資料を示す。
「こちらに『本人の感情的反発が予想されるため、当初は王太子府外部協力者として依頼』とあります。感情的反発とは何ですか」
アルノーは答えに詰まった。
「婚約破棄後であれば、当然、複雑なお気持ちがあるだろうと」
「複雑なお気持ち、ですか」
オルドの声は静かだが、鋭かった。
「婚約者としての立場を外された本人に、同じ王太子府の実務を続けさせることについて、反発があると予想していたわけですね」
「はい」
「予想していながら、本人に事前説明はしなかった」
「正式決定前でしたので」
「決定していないなら、なぜ実務残置案を作ったのですか」
アルノーは黙った。
綺麗な言葉が、少しずつ剥がれていく。
正式決定前。
可能性として。
混乱を避けるため。
国益のため。
だが、どの言葉も、本人に知らせなかった理由にはならない。
マルクスが小さく言った。
「王太子府側が急いでおりました」
アルノーがすぐに顔を上げる。
「公爵家側も、候補者交代後の家の体面を気にしておられたはずです」
「当家は、王太子府の要望に応じただけです」
「いいえ。公爵家側からも、セレスティア様を完全に遠ざけると王妃基金関係で支障が出るというご説明がありました」
「それは、王太子府が困るとおっしゃったから」
「マルクス殿、あなたは言いました。『セレスティア様は父君の言葉なら動く』と」
マルクスの顔が青ざめた。
室内の空気が一段冷えた。
オルドがすぐに確認する。
「アルノー殿。今の発言は事実ですか。マルクス殿が『セレスティア様は父君の言葉なら動く』と述べたのですか」
アルノーは、一度口を閉じた。
そして、頷いた。
「はい。正確な言葉は少し違うかもしれませんが、趣旨は同じです」
オルドはマルクスを見る。
「否定しますか」
マルクスは、長く黙った。
それから、低く答えた。
「……申し上げた可能性はございます」
「可能性」
「当時の打ち合わせでは、セレスティア様のご協力を得る方法について話し合っておりました。その中で、旦那様からの説得が有効であると」
「本人への依頼ではなく、父からの説得を前提にしていた」
「結果としては」
「結果としてではなく、当時の前提です」
マルクスは、もう逃げられないと悟ったように目を伏せた。
「はい」
ミリアの筆が走る。
セレスティアは、その音を聞いていた。
父の言葉なら動く。
自分の意思ではなく、父の言葉。
彼らは、そこを道具として見ていた。
オルドは次の資料を出した。
「こちらは、王太子府内の下書きです。『旧候補者の名誉感情を保つため、報酬ではなく謝礼または王宮貢献名目とする』とあります。アルノー殿、この意味は?」
アルノーの顔に、初めて明確な疲労が出た。
「直接の雇用契約にすると、セレスティア様の立場が難しくなると考えました」
「立場が難しいとは」
「元王太子妃候補が、婚約破棄後に王太子府から報酬を受けて働くとなれば、世評が」
「では無償または曖昧な謝礼ならよいと?」
「そうではありません」
「文書にはそう読めます」
アルノーは反論できなかった。
セレスティアの胸が、鈍く痛む。
報酬ですらない。
王宮貢献。
名誉。
謝礼。
どこまでも曖昧にしようとしていた。
彼女を正式に雇うわけではない。
責任ある役職を与えるわけでもない。
ただ、国のため、名誉のためと言って働かせる。
以前の自分なら、受けただろうか。
たぶん、受けた。
そのことが悔しかった。
オルドが質問を続ける。
「マルクス殿。公爵家側は、この報酬形態について意見しましたか」
「旦那様は、セレスティア様が金銭で動くように見られることを好まれませんでした」
「無償または曖昧な謝礼の方が、家の体面に合うと?」
「……はい」
セレスティアは、そこで小さく息を吐いた。
自分の働きは、家の体面のために無償である方が美しい。
そう考えられていた。
彼女が徹夜しようと、傷つこうと、婚約破棄後にどれだけ苦しもうと。
それは、家の体面の中では見えない。
カインが、低く口を開いた。
「つまり、王太子府は混乱を避けるためにセレスティア嬢の実務継続を望んだ。公爵家は家の体面を守りつつ、それに協力できると返した。本人の意思確認は後回し。報酬や職責は曖昧。父の説得と国への奉仕を名目に、動かす予定だった」
誰も答えなかった。
答えられなかった。
それが、この場の結論だった。
セレスティアは、ゆっくり手を机の上に置いた。
「発言してもよろしいでしょうか」
カインが頷く。
「許可する」
セレスティアは、マルクスとアルノーを見た。
どちらも、自分の人生の裏側で言葉を交わしていた人間だった。
「私は、王太子府の混乱を避ける道具ではありません」
声は大きくなかった。
だが、はっきり響いた。
「エルフォード公爵家の体面を守るための娘でもありません」
マルクスが顔を伏せる。
アルノーは、何も言わない。
「国のため、王妃基金のため、支援先のため。そう言われれば、以前の私は動いたかもしれません」
胸が痛む。
けれど、言葉は続いた。
「だからこそ、その言葉を使って私を動かそうとしたことが、許せません」
室内は静まり返っている。
ミリアの筆だけが動いていた。
セレスティアは、少しだけ息を吸った。
そして、ずっと言いたかった言葉を置いた。
「私抜きで、私の人生を決めないでください」
その瞬間、マルクスの肩が震えた。
アルノーの顔から、完全に微笑が消えた。
セレスティアは続ける。
「私を外すなら、私に言うべきでした。私の実務が必要なら、私に依頼するべきでした。私の名前を使うなら、私の許可を取るべきでした」
ひとつずつ。
簡単なことを。
誰もしてくれなかったことを。
「あなた方は、私が反発すると予想していました。だから、私に言わなかった。反発されると分かっていたなら、それは私の意思が存在していると分かっていたということです」
オルドが、わずかに目を伏せた。
ミリアは筆を止めなかった。
「私の意思があると知っていながら、それを避けて話を進めた。それを私は、国益とは呼びません」
言い終えたとき、セレスティアの手は震えていた。
だが、声は最後まで崩れなかった。
カインが静かに言った。
「記録」
ミリアが頷く。
「記録しました」
オルドは、マルクスとアルノーへ向き直る。
「両名に確認します。セレスティア様本人への事前説明を避けた理由は、本人の反発が予想されたためであり、父命や国への奉仕という名目で協力を得る想定があった。この理解でよろしいですか」
マルクスは目を閉じた。
「……はい」
アルノーも、低く答えた。
「はい」
決定的だった。
部屋の空気が変わる。
それは、誰かが大声で罪を認めたからではない。
もっと静かなものだった。
曖昧だった構造が、言葉になった。
本人の反発が予想された。
だから避けた。
父命や国への奉仕で動かすつもりだった。
セレスティアは、ゆっくり息を吐いた。
痛い。
だが、これでようやく形になった。
対質が終わると、マルクスは椅子から立ち上がり、深く頭を下げた。
以前の家令としての礼ではなかった。
もっと重く、老いた人間の礼だった。
「セレスティア様。私は、あなたが従うことを当然と思っておりました」
セレスティアは、彼を見た。
「はい」
「あなたが拒むかもしれないと考えながら、それを避けました」
「はい」
「申し訳ございませんでした」
謝罪は、また記録された。
セレスティアはすぐには返事をしなかった。
許すとは言えない。
だが、彼が何をしたかを言葉にしたことは、事実として受け取る。
「謝罪は受け取りました」
セレスティアは言った。
「許すかどうかは、別です」
「承知しております」
アルノーも立ち上がった。
彼の表情には、これまでの整った余裕がなかった。
「私は、王太子府を回すことだけを考えていました」
セレスティアは静かに答える。
「人を回すための部品にしないでください」
アルノーは、深く頭を下げた。
「……承知しました」
その返事が、どこまで本心かは分からない。
だが、少なくとも、今日の記録には残る。
対質記録は、すぐに正式文書へまとめられた。
要点は五つ。
一、王太子妃候補交代前から、王太子府と公爵家の間でセレスティアの実務継続について協議があった。
二、本人の反発が予想されていたにもかかわらず、事前説明は行われなかった。
三、父命や国への奉仕を名目に、本人協力を得る想定があった。
四、報酬や職責は曖昧な形にする案が検討されていた。
五、セレスティア本人の意思確認は、意図的に後回しにされた。
オルドが読み上げると、セレスティアは黙って頷いた。
自分の人生を、自分抜きで決められていた。
その事実が、ついに正式な記録になった。
胸は重い。
だが、同時に不思議な軽さもあった。
曖昧だった苦しさに、輪郭ができたからだ。
カインが聞いた。
「今日はここまでにする」
「はい」
「異論は」
「ありません」
「本当に?」
「本当に」
セレスティアは少しだけ笑った。
「今日は、これ以上読むと、夢に出そうです」
「なら読まない方がいい」
「はい」
素直に書類を閉じる。
カインは、少しだけ満足そうに見えた。
その日の夕方、対質記録の要約がエルフォード公爵家と王太子府へ送られた。
リリアナは自室で、その写しを読んだ。
『本人の反発が予想されたため、事前説明を避けた』
『父命や国への奉仕を名目に協力を得る想定』
『本人の意思確認は後回し』
リリアナは、文書を膝の上に置いた。
泣かなかった。
涙は出そうだったが、今日は泣くよりも先に考えたかった。
姉は、当事者にされなかった。
自分は、看板にされかけた。
姉妹のどちらも、本当には選ばせてもらっていなかった。
リリアナは、再申請書式の余白に小さく書いた。
『私は、自分で知って、自分で選ぶ』
その文字はまだ弱かった。
でも、彼女自身の文字だった。
王太子府では、ジュリアスが同じ記録を読んでいた。
彼は、長く黙っていた。
セレスティアの言葉が目に残る。
『私抜きで、私の人生を決めないでください』
それは、自分へ向けられた言葉でもあった。
ジュリアスは、初めて本当の意味で思った。
自分は、セレスティアを婚約者として見ていなかったのかもしれない。
自分の王太子府を整えてくれる存在として見ていた。
そして、リリアナを愛していると思いながら、彼女の無知を心地よく思っていた。
その事実は、あまりに苦かった。
彼は、机の上の王妃基金規程を開いた。
昨日より、少しだけ頁を進めた。
宰相府の夜。
セレスティアは、自分の机で覚書を書いた。
『私抜きで、私の人生を決めないでください』
そのままの言葉だった。
今日、初めて言えた言葉。
もう一行を書き足す。
『私は、処理対象ではない。当事者だ』
ペンを置いた。
指先の震えは、まだ少し残っている。
だが、その震えを恥ずかしいとは思わなかった。
震えながらでも言えた。
それが今日の事実だった。
引き出しを開け、覚書を重ねる。
紙の束は、ずいぶん厚くなった。
痛みの束。
でも、同時に彼女の足場でもある。
扉の外から、カインの声がした。
「寝ろ」
「はい」
即答した。
少し間があって、カインが言う。
「今日の言葉は、よかった」
セレスティアは、扉の方を見る。
「聞こえていましたか」
「同席していた」
「そうでした」
少しだけ笑う。
カインは続けた。
「当事者として言えた」
その言葉で、胸の奥が温かくなった。
「はい」
セレスティアは、静かに答えた。
「やっと、言えました」
灯りを落とす。
明日からは、この対質記録をもとに、グレアム公爵とジュリアス本人へ再確認が入る。
父も、王太子も、もう「知らなかった」「相談に応じただけ」では逃げられない。
セレスティアは、寝室へ向かう前に一度だけ机へ振り返った。
自分で選んだ机。
自分の名前を取り戻す場所。
明日も、ここへ戻ってくる。




