第27話 父は、私を「実務だけ残せる」と書いていました
王太子妃候補交代計画と、エルフォード公爵家の帳簿を照合する作業は、朝から始まった。
机の上には、二種類の資料が並んでいる。
ひとつは、王太子府から提出された内部文書。
『次期妃候補移行に伴う実務負担整理』
『旧候補者実務残置案』
『セレスティア様式代替案』
もうひとつは、エルフォード公爵家会計室の奥棚から保全された帳簿と書簡控え。
『R』
『王』
『調』
その中でも、今日見るのは『調』の帳簿だった。
調整。
表向きの会計ではない。
誰かと誰かの間で、話を合わせた記録。
セレスティアは、その背表紙を見たときから嫌な予感がしていた。
嫌な予感は、たいてい当たる。
最近、特にそうだった。
カインが保全写しを開く。
「日付を見ろ」
セレスティアは、指定された頁へ視線を落とした。
婚約破棄の約二か月前。
王太子府内で略式確認印の使用が急増し始めた頃と、ほぼ重なる。
帳簿には、几帳面な字でこう書かれていた。
『王府側より、次期候補者移行後の実務継続について打診あり』
セレスティアの指が止まった。
王府側。
つまり、王太子府。
次期候補者移行後。
その時点で、まだセレスティアは何も知らなかった。
王太子妃候補として、日々の実務を続けていた。
ジュリアスの原稿を整え、茶会の支援先を確認し、地方救済費の照合をしていた。
その裏で、すでに「移行後」の話が進んでいた。
オルドが記録を始める。
「エルフォード公爵家『調』帳簿。婚約破棄二か月前の日付に、王太子府側より次期候補者移行後の実務継続について打診ありとの記載」
セレスティアは、続きを読んだ。
『当家としては、セレスティアの王宮実務経験を今後も国益に資する形で用いることに異存なし。ただし、本人感情への配慮から、公爵家経由での依頼が望ましい』
公爵家経由。
息が、少し浅くなった。
父は、知っていた。
王太子府が彼女を候補者から外した後も、実務を続けさせるつもりだったことを。
それどころか、公爵家経由で依頼するのが望ましいと答えている。
本人感情への配慮。
それは、優しさの言葉ではない。
本人に直接言えば拒まれるかもしれないから、家を通して動かすという意味だった。
カインの声が低くなる。
「続き」
セレスティアは頷き、さらに読み進める。
『次期候補者リリアナには、当面、社交・慈善表看板を担わせる。実務細目は王太子府事務方およびセレスティア既存資料を活用。必要時、セレスティア本人を臨時協力者として動かす』
表看板。
その言葉が、胸に刺さった。
リリアナもまた、看板として扱われていた。
明るく、可愛らしく、親しみやすい次期妃候補。
だが、実務の重さは見せない。
裏では、セレスティアの既存資料を使う。
必要なら、本人も動かす。
姉妹のどちらも、人として見られていなかった。
一人は看板。
一人は実務。
どちらも、王太子府と公爵家にとって都合のよい役割でしかない。
ローレン副監が、険しい顔で言った。
「これは、実質的な役務利用計画ですね」
オルドが頷く。
「しかも本人同意なしです」
セレスティアは、次の行を見た。
そこには、父の筆跡と思われる短い追記があった。
『セレスティアは責任感が強い。国、王妃基金、支援先の名を出せば拒みきれまい』
視界が、一瞬だけ揺れた。
拒みきれまい。
父は、そう書いていた。
セレスティアが何に弱いかを、知っていた。
国。
王妃基金。
支援先。
それを出せば、彼女が自分の傷を後回しにして動くことを、父は知っていた。
父だから。
娘の性格を知っていた。
その知識を、守るためではなく、動かすために使おうとしていた。
セレスティアは、ゆっくり息を吸った。
胸が痛い。
痛いが、泣くほどではなかった。
涙より先に、冷静な怒りが来ていた。
「筆跡は」
カインが尋ねる。
「父のものです」
セレスティアは答えた。
「断定できます。王妃の手紙を隠した件の回答文、旧会計箱の紙片、どちらとも筆跡の癖が一致します」
「記録」
オルドがすぐに書く。
ミリアも補足を入れる。
セレスティアは、そこでようやく顔を上げた。
「父は、私が拒まないと分かっていたのですね」
誰もすぐには答えなかった。
カインだけが、短く言った。
「分かっていたのだろう」
その答えは優しくない。
だが、必要だった。
セレスティアは、小さく頷いた。
「はい」
分かっていた。
だから利用しようとした。
それが事実だ。
父が娘をまったく理解していなかったのではない。
理解していた部分があった。
そのうえで、使おうとした。
その方が、よほど残酷だった。
『調』帳簿には、さらに数枚の書簡控えが挟まれていた。
差出人名は伏せられている。
だが、紙の種類と書式は王太子府の内部便箋だった。
オルドが一通目を開く。
『候補者交代後、セレスティア様を王太子府へ常駐させることは世評上難しいため、外部協力者扱いとする案を検討中』
セレスティアは、黙って聞いていた。
『ただし、王妃基金、慈善茶会、地方支援費については、旧資料の整合性維持のため、同人の確認を得る必要あり』
旧資料の整合性維持。
綺麗な言葉だった。
実際には、彼女の確認がなければ回らないということだ。
カインが尋ねる。
「これの返答はあるか」
オルドが帳簿をめくる。
「あります」
次の頁に、公爵家側の返答控えが貼られていた。
『当家としては、セレスティア本人の王宮貢献継続を妨げる意向なし。本人が動きにくい場合、父命として調整可能』
父命。
セレスティアは、そこを見つめた。
父の命令。
それで、自分を動かせると思っていた。
いや、実際、少し前までなら動かせただろう。
父に命じられれば、拒めなかった。
家のためと言われれば、黙った。
王宮が困っていると言われれば、机に戻った。
その自分を、彼らは計算に入れていた。
セレスティアは、静かに言った。
「これは、私の意思を完全に無視しています」
オルドが記録する。
「はい」
「王太子妃候補としての立場を外すことは決めているのに、実務だけは父命で動かすつもりだった」
声が少しだけ硬くなる。
「私を何だと思っていたのでしょう」
思わず出た言葉だった。
部屋が静まる。
答えは、もう紙の上に出ていた。
外部協力者。
旧候補者。
実務残置。
父命で調整可能。
人ではない。
役割だ。
セレスティア・エルフォードという人間ではなく、便利な機能。
カインが静かに言った。
「その問いは、聞き取りで本人たちに投げればいい」
セレスティアは顔を上げた。
「父に、ですか」
「父にも。王太子府にも」
「ジュリアス殿下にも」
「ああ」
胸が重くなる。
だが、避ける気持ちはなかった。
むしろ、聞きたい。
あなたたちは、私を何だと思っていたのですか。
今なら、その問いを紙の上に置ける。
昼過ぎ、エルフォード公爵家へ再照会文が送られた。
内容は明確だった。
『王太子妃候補交代前に、王太子府との間で、セレスティア・エルフォード本人の実務継続について協議した事実はあるか』
『公爵家経由、父命での調整可能と回答した経緯は何か』
『本人へ説明しなかった理由は何か』
『セレスティア本人の意思確認を不要と判断した根拠は何か』
文面は淡々としている。
だが、ほとんど逃げ場がなかった。
同時に、王太子府へも照会が出された。
『旧候補者実務残置案の作成経緯』
『公爵家との協議担当者』
『王太子殿下の認識範囲』
『リリアナ・エルフォードへの説明内容』
『セレスティア本人へ通知しなかった理由』
セレスティアは、その控えを見ながら、ひとつ息を吐いた。
これで、また波が立つ。
父は怒るだろう。
王太子府は動揺するだろう。
ジュリアスはまた「知らなかった」と言うかもしれない。
リリアナは、自分が看板として扱われていたことをさらに深く知ることになる。
誰にとっても痛い。
でも、痛いからといって閉じてはいけない。
カインが言った。
「今日はここまでだ」
セレスティアは、反射的に資料へ手を伸ばしかけた。
だが、止めた。
「はい」
カインの眉がわずかに動く。
「素直だな」
「続きを読んでも、今日中に結論は出ません」
「分かってきたじゃないか」
「少しずつです」
セレスティアは、分類表を閉じた。
その手は少し震えていた。
カインは気づいたが、何も言わなかった。
代わりに、水の入った杯を置く。
セレスティアは受け取った。
「ありがとうございます」
水を飲む。
冷たい水が喉を通ると、ようやく自分が息を詰めていたことに気づいた。
照会文がエルフォード公爵邸へ届いたとき、グレアム公爵はしばらく文面を見つめていた。
そこには、逃げられない言葉が並んでいる。
父命での調整可能。
本人意思確認を不要と判断した根拠。
グレアムは、文書を握りしめた。
この表現が残っていたことを、彼は失念していた。
いや、覚えてはいた。
ただ、まさかそこまで掘り返されるとは思っていなかった。
当時は、すべてが当然に見えていた。
セレスティアはエルフォード公爵家の娘。
王太子妃候補として育てた娘。
その立場から外れたとしても、家が命じれば国のために働く。
何が問題なのか。
そう思っていた。
だが今、その考えが文書になって自分へ返ってきている。
醜く見えた。
恐ろしいほど、醜く。
扉が開く。
エヴァンジェリンだった。
最近、彼女はもう夫の許可を待たなくなっていた。
「また宰相府からですか」
「お前には関係ない」
「セレスティアのことでしょう」
グレアムは答えない。
エヴァンジェリンは机の上の文書へ視線を落とし、青ざめた。
「あなた……あの子を、婚約破棄の後も働かせるつもりだったのですか」
「国のためだ」
「違います」
エヴァンジェリンは首を横に振った。
「それは、家と王太子府のためです」
グレアムは妻を睨む。
「お前に政治は分からん」
「分かりません」
エヴァンジェリンは、はっきり言った。
「でも、娘の傷口に仕事を押し込むことが政治だとは思いません」
グレアムは黙った。
その言葉は、思いのほか深く刺さった。
娘の傷口に仕事を押し込む。
自分がしようとしていたことを、妻はそう言った。
リリアナが廊下に立っていた。
いつから聞いていたのか、分からない。
彼女の顔は真っ青だった。
「お父様」
リリアナは震える声で言った。
「お姉様は、私の裏でずっと働かされる予定だったのですか」
「リリアナ、違う」
「違うのですか」
リリアナの目に涙が浮かぶ。
「私は、明るく立っていればよくて、お姉様は見えないところで実務をする。それが、皆様の考えだったのですか」
グレアムは答えられなかった。
リリアナは、胸元の王妃基金規程を握りしめた。
「そんな王太子妃候補には、なりたくありません」
その言葉に、グレアムだけでなくエヴァンジェリンも息を呑んだ。
リリアナ自身も、言ってから震えた。
だが、取り消さなかった。
王太子府でも、同じ照会文が波紋を広げていた。
ジュリアスは、旧候補者実務残置案の写しを前に、黙って座っていた。
侍従長も、アルノーも、バゼルも部屋の隅に立っている。
誰も口を開かない。
やがて、ジュリアスが言った。
「私は、セレスティアをそこまで利用するつもりではなかった」
その声は、以前より弱かった。
アルノーが慎重に答える。
「殿下は、セレスティア様の実務能力を高く評価しておられました。王太子府としては、そのお力を今後も」
「評価と利用は違う」
ジュリアスは低く言った。
部屋が静まり返る。
その言葉を、彼自身が口にしたことに、周囲は少なからず驚いた。
ジュリアスは、資料へ視線を落とす。
旧候補者。
実務残置。
国への奉仕。
それらの言葉の中に、セレスティアの顔はなかった。
自分は、彼女を見ていたのか。
それとも、彼女が整えてくれる王太子府だけを見ていたのか。
答えは、もう少しずつ出ている。
認めるのが苦しいだけだった。
「宰相府への回答を作る」
ジュリアスは言った。
侍従長が慌てる。
「殿下、事務方で下書きを」
「私が書く」
それは、短いが重い言葉だった。
彼は初めて、王太子府の責任ある回答を自分で書こうとしていた。
宰相府の夕暮れ。
セレスティアは、今日の資料を封印箱へ戻した。
胸は重い。
だが、少しだけ呼吸はできていた。
恋の終わりだと思っていた婚約破棄の裏に、実務利用計画があった。
それを知った今日、自分はもっと崩れるかと思っていた。
でも、崩れなかった。
痛みはある。
怒りもある。
それでも、紙を読めた。
それはたぶん、彼女が少しずつ自分の名前を取り戻しているからだった。
机の引き出しを開け、覚書を書く。
『父は、私を父命で動かせると思っていた』
少し置いて、次の一行。
『もう、動かない』
短い言葉だった。
けれど、今のセレスティアには十分だった。
引き出しを閉じる。
カインが扉の近くで言った。
「明日は回答が来る」
「はい」
「父親からも、王太子からも」
「分かっています」
「揺れるぞ」
セレスティアは、少しだけ笑った。
「揺れたら、戻ってきます」
カインは頷いた。
「それでいい」
窓の外に、夜の王宮が浮かんでいる。
その光の中で、誰かが彼女を旧候補者と呼び、実務だけ残す計画を立てた。
だが、もうその呼び名は紙の上で解体される。
セレスティアは、自分の机に手を置いた。
明日、父と王太子の回答が届く。
そこで、また新しい線が見えるだろう。
痛くても、読む。
それが、彼女の選んだ道だった。




