第26話 婚約破棄は、恋の終わりだけではありませんでした
王太子府の再監査は、思っていたよりも静かに進んだ。
怒号が飛ぶわけではない。
誰かが机を叩くわけでもない。
剣を抜く者も、泣き崩れる者もいない。
ただ、紙が積まれていく。
それがいちばん怖かった。
王太子府から提出された略式確認印使用文書は、想定より多かった。『セ確認済』の印は、茶会、広報、外交贈答品、慈善関連資料、地方支援報告書、王太子府内の事務処理表にまで押されていた。
最初は、事務処理の雑さだと思った。
だが、分類が進むにつれて、セレスティアはある奇妙な偏りに気づいた。
「婚約破棄の前後に集中しています」
彼女が言うと、ローレン副監が顔を上げた。
「どの文書ですか」
「略式確認印の使用数です。通常の月は数件ですが、婚約破棄の二か月前から急に増えています」
セレスティアは、作成した一覧表を机の中央へ置いた。
ミリアが清書してくれた表には、月ごとの印使用件数が並んでいる。
春先までは、月に一件か二件。
それが、ある月から五件、八件、十件へ増えていた。
しかも内容が偏っている。
慈善茶会引き継ぎ。
王太子府社交費再編。
次期妃候補補助資料。
王妃基金関連説明簡略版。
セレスティア様式代替案。
セレスティアは最後の項目を見つめた。
セレスティア様式代替案。
名前がそのまま使われている。
しかし本人は、その文書を見たことがない。
カインが低く言った。
「婚約破棄の前から、王太子妃候補交代を見越した文書が作られていたということか」
「その可能性があります」
セレスティアは答えた。
声は落ち着いていた。
落ち着いていることが、自分でも不思議だった。
婚約破棄そのものは、すでに受け止めたつもりだった。
ジュリアスがリリアナを選んだことも、痛みはあるが、事実として紙の上に置けるようになった。
けれど、今見えてきたものは違う。
恋の終わりではない。
自分の処遇を、本人に知らせないまま周囲が組み替えていた疑いだ。
オルドが、一通の内部文書を開いた。
「こちらをご確認ください。王太子府内の事務整理案です。表題は『次期妃候補移行に伴う実務負担整理』」
その表題を聞いただけで、セレスティアの胸が冷えた。
次期妃候補移行。
日付は、婚約破棄の一か月以上前。
正式には、まだセレスティアが王太子妃候補だった時期である。
オルドが読み上げる。
「『現候補者の実務処理は高度に細分化され、次期候補者への全面移管は困難。対外的には次期候補者の明朗性、社交性を前面に出し、実務細目は旧候補者確認済み資料を参照しつつ事務方で処理する』」
聞き取り室ではない。
いつもの小会議室だ。
それでも、その場にいた者たちの空気が一瞬止まった。
旧候補者。
その言葉が、セレスティアの胸に突き刺さる。
まだ婚約破棄もされていない頃に、彼女はもう「旧候補者」と書かれていた。
カインの声が冷たくなる。
「作成者は」
オルドが文書の下部を見る。
「王太子府侍従長補佐アルノー・ベリル。ただし、上部に侍従長確認印があります」
「ジュリアスの確認は」
「明記なし。ただ、別紙に『殿下ご意向:王太子府の印象刷新、明るく親しみやすい妃候補像』とあります」
セレスティアは、机の上の紙を見た。
明るく親しみやすい妃候補像。
リリアナのことだろう。
彼女は確かに明るく、人に好かれる。社交界で笑えば、場が柔らかくなる。
それ自体は悪くない。
だが、その裏に「旧候補者確認済み資料を参照しつつ事務方で処理する」とある。
つまり、リリアナを表に立てる。
セレスティアの確認済み資料を使う。
実務は事務方が処理する。
本人であるセレスティアは、どこにもいない。
「私は、外される予定だったのですね」
セレスティアは呟いた。
誰もすぐには答えなかった。
彼女は続ける。
「妃候補の肩書きからは外す。でも、私が作った資料と、私の確認済みという名だけは残す」
言葉にしていくほど、構造が見えてくる。
冷たい。
けれど、見える。
「そして、必要なら私を補佐として戻すつもりだった」
以前、ジュリアスは言った。
君を完全に遠ざけるつもりはない。
王宮にはまだ君の力が必要だ。
側近として残ればいい。
将来的には、側妃に近い待遇を用意してもいい。
あの言葉は、突発的な思いつきではなかったのかもしれない。
すでに王太子府では、その道筋が作られていた。
セレスティアを正面から外す。
リリアナを表に立てる。
セレスティアの実務だけを残す。
あまりにも都合がよい。
あまりにも、彼女の人生を人の机の上で動かしすぎている。
カインが静かに問う。
「大丈夫か」
「大丈夫ではありません」
セレスティアは正直に答えた。
けれど、視線は紙から逸らさなかった。
「ですが、読めます」
カインは短く頷いた。
「続けろ」
オルドが次の資料を開く。
「こちらは『旧候補者実務残置案』です」
セレスティアは目を閉じそうになった。
だが、閉じなかった。
旧候補者実務残置案。
人の人生につける表題ではない。
オルドは、少しだけ声を硬くして読み上げる。
「『セレスティア様本人の感情的反発が予想されるため、当初は王太子府外部協力者として依頼。必要に応じ、宰相府または公爵家を通じた業務依頼とする。公爵家側の協力見込みあり』」
その瞬間、セレスティアは息を止めた。
公爵家側の協力見込みあり。
父か。
また父なのか。
いや、まだ断定はできない。
けれど、王太子府は公爵家が協力すると見込んでいた。
セレスティアを婚約者から外しても、実務には関わらせられると考えていた。
家の命令で。
王太子府の都合で。
オルドがさらに続ける。
「『本人には、王太子府への貢献継続が名誉であることを強調。王太子妃候補としての責任感を逆用せず、国への奉仕として依頼すること』」
逆用。
その言葉に、ミリアが思わず顔を上げた。
セレスティアは、紙面を見つめた。
責任感を逆用せず。
つまり、彼らは分かっていたのだ。
セレスティアの責任感を使えば、彼女が断りにくいことを。
だから表現だけ柔らかくする。
国への奉仕。
名誉。
王宮への貢献。
そう言えば、セレスティアが動くと思っていた。
実際、以前の彼女なら動いたかもしれない。
婚約破棄されても、国のためと言われれば。
支援先が困ると言われれば。
リリアナにはまだ難しいと言われれば。
きっと、また机に座った。
自分の痛みを横に置いて。
胸の奥に、怒りが灯った。
激しく燃える炎ではない。
静かに温度を上げる、白い火のような怒りだった。
「この資料の作成日を確認してください」
セレスティアは言った。
オルドが答える。
「婚約破棄の三週間前です」
「その時点で、私には何も知らされていません」
「記録します」
「王太子府は、私本人に知らせず、王太子妃候補交代後の私の実務利用を検討していました」
ミリアの筆が走る。
カインが、机の上に手を置いた。
「これは重大だ」
声は低い。
「恋愛上の婚約破棄では済まない。王太子府による職務・名義利用計画の疑いがある」
ローレン副監も頷く。
「しかも王妃基金関係の実務とつながっています。旧候補者の名義を残す前提で、引き継ぎ体制を作っていたなら、会計責任はさらに広がります」
セレスティアは、一枚の文書へ視線を落とした。
そこには、こう書かれていた。
『次期候補者の明朗性を損なわぬため、負担の大きい会計実務は表面化させない』
明朗性を損なわぬため。
リリアナを明るく保つために、実務を隠す。
セレスティアを重く見せ、リリアナを軽やかに見せる。
その構図の中で、自分は古い部品のように扱われていた。
「リリアナは、この資料を知らないと思います」
セレスティアは言った。
カインが問う。
「根拠は」
「彼女の手紙です。あの子は、茶会の実務の重さを最近まで本当に分かっていませんでした。もしこの計画を知っていれば、もう少し違う書き方をしたと思います」
「主観だな」
「はい。監査上の根拠にはしません」
セレスティアは、そこを間違えなかった。
「ただ、本人確認は必要です」
「同意する」
カインはオルドへ指示する。
「リリアナ嬢への文書照会を準備しろ。この移行資料の存在を知っていたか。誰から何を説明されたか。慈善茶会の実務負担について、どの程度説明を受けたか」
「承知しました」
セレスティアは、少しだけ目を伏せた。
またリリアナへ文書が行く。
妹は揺れるだろう。
だが、知る必要がある。
何も知らないまま、明るい候補として飾られていたなら。
それを知ることもまた、リリアナ自身の足場になる。
王太子府へ再照会が入ったのは、その日の午後だった。
ジュリアスは執務室で文書を読み、顔色を変えた。
『次期妃候補移行に伴う実務負担整理』
『旧候補者実務残置案』
『セレスティア様本人の感情的反発が予想されるため』
『国への奉仕として依頼』
彼は、その文書に見覚えがなかった。
少なくとも、表題を見た覚えはない。
だが、内容にまったく心当たりがないとは言えなかった。
印象刷新。
明るく親しみやすい妃候補。
リリアナには重い実務を背負わせたくない。
セレスティアには、実務面では引き続き助けてもらえればよい。
それに近いことを、自分は確かに言った。
正式な計画として命じたつもりはない。
だが、王太子府の者たちは、それを計画にした。
ジュリアスは、文書を机の上に置いた。
手が震えていた。
「誰がこれを作らせた」
侍従長は顔を青ざめさせている。
「アルノーの管轄です。ただ、殿下のご意向を受けて、府内で」
「私の意向?」
「王太子府を明るく、親しみやすく。リリアナ様には、あまり重い実務を見せないように、と」
ジュリアスは椅子に座り込んだ。
自分の言葉だ。
確かに、自分の言葉だった。
だが、こんな形にするつもりはなかった。
そう思った。
だが、その言い訳は、昨日までと同じだった。
知らなかった。
命じていない。
そんなつもりではなかった。
それがもう、どれほど薄い言葉か、彼自身も分かり始めていた。
扉が開く。
リリアナが入ってきた。
彼女の手にも、宰相府からの文書照会があった。
顔色は悪い。
だが、目は逃げていなかった。
「殿下。この資料のこと、殿下はご存じでしたか」
ジュリアスは、すぐには答えられなかった。
リリアナは、文書の一部を読み上げる。
「『次期候補者の明朗性を損なわぬため、負担の大きい会計実務は表面化させない』」
声が震えていた。
「これは、私のことですよね」
「リリアナ」
「私は、何も知らない方がよいと思われていたのですか」
「君に負担をかけたくなかった」
ジュリアスは、ようやくそう答えた。
リリアナは、悲しそうに笑った。
「それは、優しさですか」
ジュリアスは言葉に詰まる。
リリアナは、王妃基金規程の冊子を胸に抱いていた。
昨日より、少しだけ頁に付箋が増えている。
「私は、難しいことを知らないまま笑っている方が、殿下にとってよかったのですね」
「違う」
「違いますか」
「私は、君が苦しむところを見たくなかった」
「でも、その代わりに、お姉様の名前を使うつもりだったのではありませんか」
その言葉は、リリアナにしては鋭すぎた。
ジュリアスは、目を見開いた。
リリアナ自身も、言ってから少し震えた。
でも、取り消さなかった。
「私は、お姉様から奪っただけではなく、お姉様が残したものの上に座らされる予定だったのですか」
「そんな言い方をするな」
「では、どう言えばいいのですか」
リリアナの目に涙が浮かぶ。
だが、こぼれなかった。
「私が知らないでいることを、皆が望んでいたなら……私は、王太子妃候補ではなく、お飾りだったのではありませんか」
ジュリアスは、何も言えなかった。
お飾り。
そんなつもりではなかった。
そう言いたい。
だが、実務を軽く見せ、明るさを前に出し、重い部分は事務方とセレスティアの名で処理する。
それを、外から見れば何と呼ぶのか。
答えは、彼にも分かり始めていた。
リリアナは、静かに頭を下げた。
「宰相府への回答は、自分で書きます」
「リリアナ」
「殿下に確認していただく前に、まず自分で書きます」
そう言って、彼女は部屋を出ていった。
ジュリアスは、追いかけられなかった。
机の上には、移行計画の写しが残っている。
そこに書かれた「旧候補者」という言葉が、やけに冷たく見えた。
宰相府では、セレスティアが王太子府移行資料の分類を進めていた。
分類表には、新しい欄が増えている。
『婚約破棄前作成』
『本人未通知』
『実務残置計画』
『リリアナ説明不足』
『公爵家協力見込み』
書けば書くほど、構造が見えてくる。
王太子府は、婚約破棄の前から準備していた。
リリアナへ重い実務を見せないようにしていた。
セレスティアの確認済み資料を残すつもりだった。
必要なら、公爵家を通じて彼女を動かすつもりだった。
これは、恋愛の終わりではない。
役割の剥奪と、労働の残置。
あまりに冷たい構造だった。
セレスティアはペンを止める。
胸の奥が、じわじわ痛む。
自分は、婚約者として捨てられただけだと思っていた。
それだけでも十分傷ついた。
けれど、実際には、捨てた後も使う予定だった。
その事実は、別の角度から彼女を傷つけた。
カインが静かに言った。
「休むか」
「まだできます」
「それは質問の答えではない」
セレスティアは、少しだけ苦笑した。
「……少し休みます」
「よし」
彼女はペンを置いた。
休憩室へ移動する前に、ふと聞いた。
「宰相閣下」
「何だ」
「私は、ここまで便利だったのでしょうか」
カインは、すぐには答えなかった。
少し考えてから言った。
「便利だったのだろうな」
セレスティアは胸が痛んだ。
だが、カインは続けた。
「だからといって、便利に扱ってよい理由にはならない」
その一言で、呼吸が少し戻った。
「はい」
「君の能力が高かったことと、君を道具にしたことは別だ」
「はい」
「そこを混ぜるな」
セレスティアは、ゆっくり頷いた。
それは、今の彼女に必要な区別だった。
能力があった。
だから使われた。
でも、使われた責任は彼女にはない。
セレスティアは休憩室で茶を飲み、少しだけ目を閉じた。
旧候補者。
実務残置。
国への奉仕。
冷たい言葉が頭の中に残る。
だが、その上から別の言葉を置いた。
セレスティア・エルフォード。
旧ではない。
残置されるものでもない。
自分で立つ名だ。
夕方、リリアナから宰相府への回答が届いた。
セレスティアは、少し驚いた。
早すぎる。
だが、封筒を見れば分かった。
おそらく、迷いながらも一気に書いたのだろう。
文面は整っていなかった。
ところどころ言葉が重なり、修正跡もあった。
しかし、内容ははっきりしていた。
『私は、次期妃候補移行資料の存在を知りませんでした』
『慈善茶会の実務負担について、十分な説明は受けていませんでした』
『ただし、説明が足りなかったことと、私が確認せず申請したことは別だと理解しています』
『私は、王妃基金規程を読み始めています。まだ分からない箇所が多いです』
『私は、明るいだけの候補として扱われることを望みません』
最後の一文で、セレスティアの手が止まった。
リリアナは書いた。
望みません、と。
自分の望みを、初めて文書にした。
セレスティアは、しばらくその一文を見つめた。
妹は変わり始めている。
遅い。
たぶん、あまりにも遅い。
それでも、変わり始めている。
「記録しますか」
ミリアが尋ねた。
セレスティアは頷いた。
「監査回答として記録してください。ただし、私信部分ではなく、照会への回答として」
「承知しました」
カインが文面を確認し、短く言った。
「思ったより踏み込んだな」
「はい」
「リリアナ嬢は、王太子府と距離を取り始めるかもしれない」
セレスティアは顔を上げた。
「そうでしょうか」
「この文面は、王太子府にとって都合が悪い」
「……そうですね」
明るいだけの候補として扱われることを望まない。
それは、ジュリアスにとっても、王太子府の事務方にとっても、扱いにくい言葉だ。
リリアナが、自ら扱いにくい存在になろうとしている。
少し前の彼女なら、考えられないことだった。
セレスティアは、胸の奥に小さな痛みと、小さな安堵を同時に感じた。
その夜、王太子府ではジュリアスがリリアナの回答文の写しを読んでいた。
『私は、明るいだけの候補として扱われることを望みません』
その一文が、何度も目に入る。
彼は、リリアナの明るさに救われたと思っていた。
セレスティアの隣では、自分の不足を常に見られている気がした。
リリアナの隣では、自分が王太子らしくいられる気がした。
だから選んだ。
そう思っていた。
だが、リリアナ自身はどうだったのか。
自分は彼女を見ていたのか。
それとも、自分が楽でいられる明るさを見ていただけなのか。
答えは出ない。
出したくない。
だが、問いはもう消えなかった。
ジュリアスは、机の上に置かれた王妃基金規程の写しを見た。
リリアナが読んでいたものを、侍従に持ってこさせた。
厚い。
地味だ。
目を通すだけで気が重くなる。
セレスティアは、これを読み込んでいたのだ。
リリアナは、今読み始めた。
では自分は。
ジュリアスは、ゆっくり表紙を開いた。
最初の制定文が目に入る。
『この基金は、華やかな慈善の名を飾るためではなく、声の小さき者へ必要な支援を届けるために置く』
彼は、その一文をしばらく見つめた。
華やかな慈善の名を飾るためではなく。
まるで、自分の王太子府へ向けられた言葉のようだった。
宰相府の夜。
セレスティアは自分の机で覚書を書いた。
『婚約破棄は、恋の終わりだけではなかった。私を肩書きから外し、実務だけ残す計画だった』
ペンが止まる。
少し考えて、次の一行を書く。
『私は旧候補者ではない。残置される実務でもない』
さらに一行。
『私は、私の名で確認する』
引き出しを開ける。
これまでの覚書の上に、今日の紙を重ねる。
重くなった。
紙の束が、少しずつ厚みを増している。
痛みの記録でもある。
同時に、彼女が戻ってきた記録でもある。
扉の外から、カインが声をかけた。
「寝ろ」
「はい」
「今日は反論しないんだな」
「反論すると、また記録されそうなので」
「記録してもいい」
セレスティアは少し笑った。
その笑いは疲れていたが、本物だった。
灯りを落とす前に、彼女は机へ手を置いた。
明日からは、王太子府の移行計画と婚約破棄の経緯を照合することになる。
誰がいつ、セレスティアを外す準備をしたのか。
リリアナをどう扱うつもりだったのか。
公爵家はどこまで協力していたのか。
ジュリアスは何を望み、何を知らなかったのか。
痛みは続く。
だが、もう自分を旧候補者とは呼ばせない。
セレスティア・エルフォード。
その名で、明日も紙を開く。




