表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
24/80

第24話 扱いやすい王太子妃候補

アルノー・ベリルは、若すぎるほど整った男だった。


 王太子府の侍従長補佐。


 年齢は三十前後。銀灰色の髪をきっちり撫でつけ、細身の礼服を隙なく着こなしている。目元には知性があり、口元には常に礼儀正しい微笑を浮かべていた。


 けれど、セレスティアはその微笑が好きではなかった。


 王太子府にいた頃から、アルノーはそういう男だった。


 失礼なことは言わない。

 声を荒げることもない。

 誰に対しても丁寧で、仕事も早い。


 ただし、その仕事の早さには、いつもどこか危うさがあった。


 面倒な確認を飛ばす。

 細かな異議を「後で整えます」と流す。

 上に見せる資料を、読みやすく薄くする。

 反対意見を、場に出る前に丸める。


 王太子府では、それを有能と呼ぶ者も多かった。


 セレスティアは、違うと思っていた。


 だが当時の彼女は、アルノーの作った薄い資料の後ろを補う役目を、自分で引き受けてしまっていた。


 足りない部分を補足し、危うい文言を直し、見落とされた支援先を戻す。


 そうすれば、とりあえず物事は進んだ。


 そして、進んでしまったからこそ、誰もアルノーのやり方を止めなかった。


 今日、そのアルノーが宰相府の聞き取り室に座っている。


 彼は、王太子府会計責任者バゼルよりずっと落ち着いて見えた。


 緊張はしているだろう。

 それでも、顔にはほとんど出さない。


 セレスティアを見ると、彼は以前と同じように穏やかに微笑んだ。


「セレスティア様。こうしてお目にかかるのは、久しぶりでございますね」


 懐かしむような声だった。


 その瞬間、セレスティアの胸に小さな違和感が走った。


 彼は、場をずらそうとしている。


 監査の場ではなく、昔の王太子府の延長にしようとしている。


 セレスティアは、表情を変えずに礼をした。


「本日は、王太子府内文書の作成経緯について確認します」


 アルノーの微笑が、ほんの少し薄くなった。


「承知しております」


 聞き取り室には、カイン、法務官オルド、記録官ミリア、ローレン副監、セレスティアがいる。


 机の上には、問題の文書が置かれていた。


『慈善茶会次期担当者引継ぎ資料』


 そこには、セレスティア名義の略式確認印が押されている。


『セ確認済』


 セレスティア本人は、存在すら知らなかった印。


 しかも、その資料はあまりにも薄かった。


 茶会の見た目だけを整え、王妃基金の規程や支援対象者への聞き取り、費用区分、地方産品支援の意味をほとんど記していない。


 リリアナが「花と菓子を選べばよい」と思い込むには、十分な薄さだった。


 オルドが聞き取りを始める。


「これより、王太子府侍従長補佐アルノー・ベリル殿への聞き取りを開始します。対象は、セレスティア・エルフォード様名義の略式確認印の使用、およびリリアナ・エルフォード様への慈善茶会引き継ぎ資料作成経緯です」


 ミリアの筆が動く。


 アルノーは落ち着いた声で答えた。


「はい。できる限り、正確にお答えいたします」


 オルドが資料を示す。


「こちらの引き継ぎ資料は、あなたが作成したものですか」


「作成責任者は私です。実務上の下書きは、部下に任せた箇所もございます」


「最終確認は?」


「私が行いました」


「セレスティア様本人は確認されましたか」


 アルノーは、そこでわずかに首を傾げた。


「当時、セレスティア様は王太子府の多くの書類を確認されていました。こちらも、通常の流れで確認済み扱いとなったものです」


「本人が確認したかどうかを聞いています」


 オルドの声は変わらない。


 アルノーは微笑を保ったまま答えた。


「直接の確認までは、記憶しておりません」


「つまり、確認した記録はない」


「記録上は、略式確認印がございます」


「その略式確認印を押したのは誰ですか」


「王太子府内の事務担当です」


「あなたの管理下ですか」


「はい」


 オルドは一つずつ積み上げる。


「セレスティア様本人は、その印の存在を知りませんでした」


 アルノーは、少しだけ眉を上げた。


「それは意外です」


 セレスティアの胸に、静かな怒りが生まれた。


 意外。


 まるで、知らなかったこちらが不自然だと言いたげな言葉だった。


 オルドが問う。


「なぜ意外なのですか」


「セレスティア様は、王太子府の実務を非常に広く把握しておられましたので。略式印も当然、運用の中でご存じかと」


「本人へ正式に説明しましたか」


「そこまでは」


「許可は取りましたか」


「王太子府内の事務効率化のための印です。正式印ではございませんので」


 ローレン副監が、低く口を挟んだ。


「正式印でないものが、支出処理や引き継ぎ文書に使われていたのですか」


 アルノーは、初めて少しだけ笑みを弱めた。


「王太子府は、日々膨大な文書を扱います。すべてを正式手続きで回していては、現場が止まってしまいます」


「現場を止めないために、本人の知らない確認印を使ったと」


「現実的な運用でございます」


 現実的。


 セレスティアは、その言葉を胸の中で反芻した。


 父は「家のため」と言った。

 ジュリアスは「知らなかった」と言った。

 アルノーは「現実的」と言う。


 どれも、聞こえは違う。


 けれど、中心にあるものは似ていた。


 誰かの都合のために、彼女の名前を軽く扱うこと。


 オルドは資料の別頁を示した。


「次に、引き継ぎ資料の内容について確認します。この資料には、慈善茶会の装飾、菓子、招待客への挨拶例は記載されています。一方で、王妃基金規程、支援対象者への聞き取り項目、地方産品購入の意義、費用区分については、ほとんど記載がありません。理由は?」


 アルノーは、迷いなく答えた。


「リリアナ様向けに、分かりやすく簡略化したためです」


「簡略化」


「はい。リリアナ様は、セレスティア様とは得意分野が違われます。最初から細かな規程や会計区分を詰め込みますと、かえって混乱されるかと」


「混乱を避けるために、重要事項を省いた?」


「段階的に学んでいただく予定でした」


 セレスティアは、そこで発言を求めた。


「よろしいでしょうか」


 カインが頷く。


「許可する」


 セレスティアはアルノーを見た。


「段階的に学ぶための、第二資料はありますか」


 アルノーの微笑が止まった。


「第二資料、ですか」


「はい。この資料が初歩用であるなら、王妃基金規程、費用区分、支援対象ごとの聞き取り事項を記した続きの資料があるはずです」


 アルノーは、すぐには答えなかった。


 セレスティアは続ける。


「少なくとも、私が引き継ぎ資料を作るなら、概要資料と実務資料を分けます。概要だけを渡す場合でも、次に確認すべき資料名と保管場所を明記します」


 オルドが記録する。


「第二資料の有無を確認します。アルノー殿、存在しますか」


 アルノーは、少しだけ視線を落とした。


「作成予定ではありました」


「作成済みではない?」


「はい」


「つまり、リリアナ様には、実務上必要な規程や費用区分を含まない資料だけが渡された」


「当初段階では、そうなります」


 ミリアの筆が走る音が聞こえる。


 セレスティアの胸が重くなった。


 リリアナは甘かった。

 無知だった。

 自分の責任から逃げていた。


 けれど、その無知は利用されてもいた。


 アルノーは、リリアナを「分かりやすい資料」だけで動かそうとした。


 つまり、扱いやすい王太子妃候補として。


 オルドが次の質問に移る。


「リリアナ様に、王妃基金の支出制限について説明しましたか」


「詳細はまだ」


「慈善茶会費に個人衣装や過度な装飾費を含められないことは?」


「それは、王太子府の会計担当から後ほど」


「実際には、リリアナ様は個人衣装費や装飾費を王妃基金から支出しようとしました」


 アルノーは、少しだけ肩をすくめた。


「それは、リリアナ様が先走られたのではないでしょうか」


 その瞬間、セレスティアの中で何かが冷えた。


 リリアナを庇いたいわけではない。


 だが、この言い方は違う。


 自分たちが薄い資料を渡し、必要な知識を与えず、花と菓子と挨拶だけを見せた。


 その結果、リリアナが誤った申請をしたら、先走ったと言う。


 あまりに都合がよかった。


「アルノー殿」


 セレスティアは静かに言った。


「リリアナが先走った面はあります。ですが、先走れるだけの空白を作ったのは、この資料です」


 アルノーの目が、わずかに鋭くなる。


「セレスティア様は、妹君を庇っておられるのですか」


「いいえ」


 即答した。


「責任を分けています」


 聞き取り室が静まった。


 セレスティアは続ける。


「リリアナには、確認せずに申請した責任があります。ですが、王太子府には、必要な情報を与えないまま担当者に据えた責任があります」


 アルノーは口を閉ざした。


「そして、この資料に私の確認印を押したことで、リリアナは『姉が確認した資料なら大丈夫』と思った可能性があります」


 胸が痛んだ。


 リリアナのためではない。


 自分の名前が、妹の無知を保証する道具にされていたことが痛かった。


 オルドが確認する。


「アルノー殿。この資料に略式確認印を押した理由は?」


「王太子府内での処理上、前任者確認済みとする必要があったためです」


「実際には前任者であるセレスティア様は確認していなかった」


「……そのようです」


「なぜ、本人確認を取らなかったのですか」


 アルノーは、しばらく黙った。


 それから、少しだけ笑みを戻した。


「セレスティア様に確認を取れば、資料がいつまでも完成しなかったでしょう」


 部屋の空気が変わった。


 カインの視線が、冷える。


 オルドが問い返す。


「どういう意味ですか」


「セレスティア様は、非常に厳密な方です。茶会ひとつでも、支援対象、費用区分、地方産品、席順、会話導線……すべて確認される。もちろん、それは正しいことです。しかし、王太子府の現場では、速さも必要です」


「つまり、セレスティア様に確認させると、重要事項が増えて面倒だった」


 オルドの言葉は鋭かった。


 アルノーは眉をひそめる。


「面倒とは申し上げておりません」


「では、正確に」


 アルノーは沈黙した。


 セレスティアは、その沈黙を見ていた。


 父は「余計なところに気づく」と言った。


 アルノーも同じだ。


 セレスティアに見せれば、止まる。


 止まるから、見せない。


 彼女の確認印だけ使う。


 実際の彼女は邪魔だから、名前だけ利用する。


 その構図が、はっきり見えた。


「私は、資料を完成させなかったのではありません」


 セレスティアは言った。


 声は静かだった。


「不完全な資料を完成と呼ばなかっただけです」


 ミリアの筆が止まらない。


 アルノーは、少しだけ目を細めた。


「ですが、結果として王太子府の仕事は進んでいました」


「進んだ先で、王妃基金の不適切支出疑いが出ています」


 ローレン副監が冷静に言う。


「速さだけを優先した結果ですね」


 アルノーは、初めて明確に表情を曇らせた。


 オルドが、別の文書を示した。


「こちらは、王太子府内で作成された内部メモです。提出文書の中に含まれていました。読み上げます」


 セレスティアは、紙へ視線を向ける。


 そこには、短い文があった。


『次期妃候補向け資料は、実務負担を軽く見せること。細目は後処理。セレスティア様式は不可』


 聞き取り室が、しんと静まり返った。


 アルノーの顔から、笑みが消えた。


 オルドが問う。


「このメモは、あなたの筆跡ですか」


 アルノーは答えない。


「筆跡鑑定に回せます」


「……私のものです」


 セレスティアは、胸の奥で冷たいものが広がるのを感じた。


 実務負担を軽く見せること。


 細目は後処理。


 セレスティア様式は不可。


 つまり、最初からリリアナには、実務の重さを見せないつもりだった。


 王太子妃候補の仕事を、軽く見せる。


 リリアナが引き受けやすいように。

 ジュリアスが選びやすいように。

 周囲が「明るく可愛い妃候補」として扱いやすいように。


 そのために、セレスティアが積み上げてきた実務は、邪魔だった。


「セレスティア様式とは何ですか」


 オルドが尋ねる。


 アルノーは、乾いた声で答えた。


「細部まで確認し、根拠資料を添え、責任範囲を明確にする方式です」


「それを不可とした理由は」


「次期妃候補には重すぎると判断しました」


「次期妃候補とは、リリアナ様のことですね」


「はい」


「リリアナ様が実務の重さを知ると、引き受けない可能性があった?」


 アルノーは、また黙った。


 オルドは待つ。


 やがてアルノーは、小さく答えた。


「……可能性はありました」


「誰の意向ですか」


 アルノーは慎重に言った。


「王太子府全体の空気として」


「誰が具体的に指示しましたか」


「明確な指示ではありません。殿下は、リリアナ様には負担をかけたくないとおっしゃっていました。周囲も、セレスティア様のようなやり方ではリリアナ様が疲れてしまうと考えていました」


 負担をかけたくない。


 優しい言葉だ。


 だが、その優しさの結果、リリアナは何も知らないまま王妃基金に手を出しかけた。


 セレスティアは、静かに言った。


「負担をかけないことと、責任を教えないことは違います」


 アルノーは何も言わなかった。


「リリアナを守ると言いながら、あなた方は彼女から判断する機会を奪いました」


 その言葉は、自分自身にも返ってくる。


 セレスティアも、リリアナに何かを教えるより先に、代わりに片付けてしまったことがある。


 妹を幼いまま扱っていた部分は、きっと自分にもあった。


 だが、今日問われているのは、王太子府の制度としてそれを行ったことだ。


 オルドがまとめる。


「本日の聞き取りにより、慈善茶会引き継ぎ資料は、意図的に実務負担を軽く見せる形で作成されたことが確認されました。また、セレスティア様本人の確認がないにもかかわらず略式確認印が押され、前任者確認済みとして扱われました」


 ミリアが書き留める。


 カインが低く言った。


「アルノー。君は、扱いやすい王太子妃候補を作ろうとしたのか」


 その問いは、静かだった。


 だが、刃のようだった。


 アルノーは、顔を上げた。


「宰相閣下。その表現は」


「違うなら説明しろ」


 アルノーは、口を開いた。


 だが、言葉が出なかった。


 しばらくして、ようやく言った。


「王太子府には、明るさが必要でした」


 それは答えになっていなかった。


 しかし、本音ではあった。


「セレスティア様は有能でした。しかし、王太子府は重くなりすぎていた。殿下の周囲には、もっと柔らかく、場を明るくする方が必要だと」


「実務は誰が担うつもりだった」


 カインが問う。


 アルノーは視線を落とす。


「当面は、事務方で」


「その事務方が、セレスティア嬢の名前を無断で使っていた」


 アルノーは黙った。


 セレスティアは、そこで理解した。


 リリアナは、可愛い王太子妃候補として表に立つ。

 重い実務は事務方が処理する。

 必要ならセレスティアの過去の署名や確認印を使う。

 問題が出れば、前任者の確認済みと言える。


 なんて都合のいい構造だろう。


 リリアナにも、セレスティアにも、王妃基金にも、誠実ではない。


 ただ、王太子府が軽やかに見えるためだけの仕組み。


「記録してください」


 セレスティアは言った。


 声は落ち着いていた。


「王太子府では、リリアナを明るく柔らかな候補として扱うため、実務負担を軽く見せる資料が作られた。その資料に、本人未確認のセレスティア名義略式確認印が押されていた。結果として、リリアナは王妃基金の性質を十分知らないまま慈善茶会費申請を行った可能性があります」


 ミリアが記録する。


 アルノーは何も言わなかった。


 聞き取りの最後、彼はようやく小さく言った。


「私は、王太子府を回すために必要だと思っていました」


 セレスティアは彼を見た。


「王太子府を回すために、人の名前を部品にしないでください」


 アルノーの顔が、わずかに白くなった。


 それ以上、彼は反論しなかった。


 聞き取り後、セレスティアはしばらく自分の机に戻れなかった。


 休憩室の窓辺で、薄い茶を飲む。


 アルノーの言葉が頭から離れない。


 明るさが必要だった。

 柔らかい候補が必要だった。

 実務負担を軽く見せる。

 セレスティア様式は不可。


 王太子府は、セレスティアを重いと判断した。


 重いから、外した。


 けれど、彼女の名前だけは軽く使った。


 それが、ひどく気持ち悪かった。


 カインが少し離れた場所に立っている。


 今日は、すぐ隣には来なかった。


 距離を置いてくれている。


 セレスティアは茶杯を置いた。


「私は、重かったのでしょうか」


 カインが振り向く。


「仕事の話か」


「存在の話です」


 カインは、少しだけ眉をひそめた。


「違う」


 即答だった。


 セレスティアは苦笑する。


「もう少し考えてから答えても」


「考える必要がない」


「そうですか」


「ああ」


 カインは、窓辺へ近づいた。


「彼らにとって都合が悪かっただけだ」


「都合が悪い」


「正しい確認をする人間は、雑に物事を進めたい者にとって重く見える」


 セレスティアは、静かにその言葉を受け取った。


「私は、正しかったのでしょうか」


「いつも正しかったとは言わない」


 カインらしい答えだった。


「だが、確認しようとしたことは正しい」


「確認しようとしたこと」


「ああ。間違いは直せる。確認しない仕組みは腐る」


 セレスティアは、窓の外を見た。


 王宮の庭が見える。


 そこには柔らかな春の光が落ちていた。


 王太子府が欲しがった明るさとは、何だったのだろう。


 リリアナの笑顔。

 ジュリアスの華やかさ。

 貴族たちの拍手。


 それ自体が悪いわけではない。


 けれど、その光を支えるために、誰かの名前や基金の金が歪められるなら。


 それは、明るさではない。


 ただの目くらましだ。


「リリアナに、この件を知らせます」


 セレスティアは言った。


 カインは少し黙った。


「昨日は待てと言った」


「はい」


「今は?」


「彼女は、自分で再申請書を書き始めています。自分の責任を考え始めているなら、自分がどう扱われていたかも知るべきです」


「免罪符にしないように」


「はい。そこは、言葉を選びます」


 カインは頷いた。


「ならいい」


 セレスティアは、自分の机へ戻った。


 リリアナ宛ての短い文書を書く。


『リリアナへ。慈善茶会の引き継ぎ資料について、あなたに渡された資料は実務上不十分であり、私本人は確認していませんでした。ただし、それはあなた自身が確認せず申請した責任を消すものではありません。資料が足りなかったこと、あなたが知らなかったこと、その両方を分けて考えてください』


 少し考え、続ける。


『あなたが再申請書を書き直すなら、まず王妃基金規程を読んでください。分からない箇所は、分からないと書いてください』


 最後に一行。


『あなたが何も知らないままでいることを、私は望みません』


 署名する。


 セレスティア・エルフォード。


 今度は、姉としての言葉も少し混じっていた。


 だが、甘やかしではない。


 知るように促すための手紙だった。


 その手紙を受け取ったリリアナは、自室でしばらく動けなかった。


 引き継ぎ資料。


 あの薄い資料。


 花、菓子、挨拶、席の雰囲気。


 お姉様確認済みの印があった。


 だから、自分は安心していた。


 でも、お姉様は見ていなかった。


 それを知った瞬間、リリアナは悔しさと恥ずかしさで胸が詰まった。


 自分は、騙されていたのかもしれない。


 そう思うのは簡単だった。


 けれど、姉の手紙は逃がしてくれなかった。


『それはあなた自身が確認せず申請した責任を消すものではありません』


 その通りだった。


 資料が薄くても、自分は聞けた。


 なぜこれだけなのか。

 王妃基金とは何か。

 お姉様は本当に確認したのか。


 聞かなかった。


 聞くより、綺麗な花を選ぶ方が楽しかった。


 リリアナは、机の上の再申請書式を見た。


 そこには、昨日自分で書いた一文がある。


『私はまだ、何を聞けばよいか全部は分かりません』


 その下に、姉の手紙を見ながら新しい行を書いた。


『王妃基金規程を読みます』


 字は震えていた。


 でも、書いた。


 その夜、リリアナは初めて、王妃基金規程の写しを侍女に取り寄せさせた。


 厚い冊子だった。


 表紙を見ただけで、逃げ出したくなった。


 けれど、開いた。


 最初の頁には、亡き王妃エレオノーラの制定文があった。


『この基金は、華やかな慈善の名を飾るためではなく、声の小さき者へ必要な支援を届けるために置く』


 リリアナは、その一文を何度も読んだ。


 そして、涙が出た。


 自分は本当に、何も知らなかった。


 でも、もう知らないままではいられない。


 王太子府では、アルノーの聞き取り内容がジュリアスの耳に入っていた。


 ジュリアスは、執務室で報告を聞き終えると、長く沈黙した。


「実務負担を軽く見せる」


 彼は低く繰り返した。


 侍従長は答えに困った。


「アルノーは、殿下とリリアナ様を思って」


「私がそう望んだと、彼は言ったのか」


「直接の指示ではないと」


 ジュリアスは、机の上の書類を見た。


 確かに、自分は言ったことがある。


 リリアナには、あまり負担をかけたくない。

 セレスティアのように細かいことばかり見せると、彼女が怯える。

 もっと明るく、柔らかく、王太子府を変えたい。


 そう言った。


 それが、こういう資料になったのか。


 実務を軽く見せる資料。


 セレスティアの確認印を勝手に押した引き継ぎ。


 リリアナを扱いやすい候補にする仕組み。


 ジュリアスは、初めて自分の言葉が周囲でどう使われたかを考えた。


 自分は命じていない。


 だが、望んだ空気は作った。


 それは責任なのか。


 答えは、もう分かりかけていた。


 認めたくないだけで。


 扉が叩かれ、リリアナが入ってきた。


 手には、王妃基金規程の冊子がある。


 ジュリアスは、それを見て眉をひそめた。


「何を持っている」


「王妃基金規程です」


「君が読むのか」


 リリアナは、少しだけ傷ついた顔をした。


 だが、冊子を胸に抱いたまま答えた。


「はい。読みます」


「難しいだろう」


「難しいです」


「なら、事務方に任せればいい」


 リリアナは首を横に振った。


「それで、私は何も知らないままでした」


 ジュリアスは言葉に詰まった。


 リリアナは、今までになく静かな声で続けた。


「殿下。私、明るいだけの王太子妃候補にはなりたくありません」


 それは、彼女にとって精一杯の言葉だった。


 ジュリアスは、しばらく彼女を見ていた。


 その顔には、怒りよりも戸惑いがあった。


 リリアナは怖かった。


 それでも、冊子を離さなかった。


 姉の手紙が、胸の中に残っている。


 あなたが何も知らないままでいることを、私は望みません。


 なら、読む。


 たとえ、殿下が望む自分ではなくなっても。


 宰相府の夜。


 セレスティアは、その日の記録を読み終えた。


 アルノーの証言。

 引き継ぎ資料。

 略式確認印。

 リリアナへの通知。


 すべてが、王太子府の構造を少しずつ明らかにしている。


 誰か一人の悪意ではない。


 便利さ、甘え、見栄、明るさ、速さ。


 そういう柔らかい言葉の中で、責任が薄められていた。


 セレスティアは、覚書に一行を書いた。


『優しさの顔をした無責任もある』


 少し考えて、もう一行。


『知ることは、負担ではなく、立つための足場だ』


 引き出しを閉める。


 窓の外に、夜の王宮が見える。


 公爵家の監査は、王太子府へ伸びた。

 王太子府の監査は、リリアナの立場を揺らしている。

 そして、セレスティア自身もまた、過去の自分が補ってきた穴を見つめ直している。


 痛みは終わらない。


 けれど、少しずつ輪郭を持ち始めていた。


 カインが扉の外から声をかける。


「今日はもう寝ろ」


「書類は閉じました」


「覚書は?」


「一行だけです」


「二行では」


 セレスティアは少し笑った。


「……二行です」


「寝ろ」


「はい」


 彼女は灯りを落とした。


 明日は、王太子府から提出された略式確認印の使用文書を本格的に照合する。


 そしておそらく、王太子府の中で誰が何を隠し、誰が見ないふりをしていたのかが、さらに見えてくる。


 けれど今夜は、眠る。


 自分を使い潰さないために。


 自分の名前を、また誰かに預けないために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ