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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第23話 妹からの手紙には、許してくださいとは書かれていませんでした

その手紙は、朝の宰相府に届いた。


 王太子府からではない。

 エルフォード公爵家の当主印もない。

 母エヴァンジェリンの封でもなかった。


 淡い水色の封筒。


 隅に、小さな花の押し模様がある。貴族令嬢が友人へ送る私信によく使う、柔らかい紙だった。


 だが、宛名だけは震えるほど丁寧に書かれていた。


『セレスティア・エルフォード様』


 差出人は、リリアナ・エルフォード。


 封筒を受け取った記録官ミリアは、いつもより慎重にそれを持ってきた。


「セレスティア様。エルフォード公爵家より、私信が届いております」


 セレスティアは、机の上の王太子府略式確認印の一覧から顔を上げた。


 その封筒を見た瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。


 リリアナ。


 昨日、彼女は「文書にしてください」と妹へ言った。


 謝罪が本当なら、残る形にしてほしいと。


 リリアナは、本当に書いたのだ。


 セレスティアはすぐには手を伸ばさなかった。


 封筒は軽い。


 だが、ひどく重く見えた。


「私信ですね」


「はい。ただ、監査対象家からの文書ですので、扱いを確認した方がよろしいかと」


 ミリアの言葉は正しい。


 妹からの手紙。


 それだけなら私的なものだ。


 だが、今エルフォード公爵家は監査対象であり、リリアナも王太子府と公爵家双方に関わる立場にいる。


 不用意に受け取れば、後で何か言われる可能性がある。


 セレスティアは、少しだけ目を伏せた。


 姉妹の手紙すら、手続きなしには読めない。


 それが悲しいのか、むしろ今の自分を守ってくれるのか、よく分からなかった。


 向かいの机で文書を確認していたカインが顔を上げる。


「開けるか」


「はい。ただし、受領記録を残してください」


「いい判断だ」


 カインはミリアへ視線を向ける。


「私信として受領。ただし、監査対象家関係者からの文書のため、受領時刻、封緘状態、開封立会人を記録」


「承知しました」


 ミリアが記録を始める。


 立ち会いは、カインと記録官ミリア。


 セレスティアは、手紙を受け取った。


 封蝋は小さな花形だった。リリアナらしい。


 昔、リリアナは手紙を書くのが好きだった。


 誕生日でもない日に、姉の机へ小さな手紙を置くことがあった。


『お姉様、今日のお菓子は半分こしましょう』


『お姉様、怖い夢を見たので一緒に寝てもいいですか』


『お姉様、明日のリボンはどちらが可愛いと思いますか』


 幼いリリアナの字は丸く、ところどころ大きさが違った。


 セレスティアは、その手紙を捨てられなかった。


 今も、どこかに残っているかもしれない。


 いや、あの部屋は保全された。


 もしかしたら、宰相府の保全箱のどこかに入っているのだろうか。


 そう思うと、胸の奥が少しだけ苦しくなった。


 封を切る。


 中には、便箋が数枚入っていた。


 思っていたより長い。


 セレスティアは一枚目を開いた。


 リリアナの字は、やはり少し丸かった。


 ただ、昔よりずっと丁寧に、ゆっくり書かれていた。


『お姉様へ』


 最初の一文で、セレスティアの指が止まった。


『何から謝ればいいのか、まだ分かりません』


 セレスティアは、静かに息を吸った。


 続きを読む。


『だから、最初に「許してください」とは書きません。許してもらうための手紙にしたら、また私は自分のことばかり考えてしまうと思ったからです』


 胸の奥が、思いがけず揺れた。


 許してください。


 そう書かれると思っていた。


 ごめんなさい。

 悪気はなかった。

 知らなかった。

 お姉様なら分かってくれると思った。

 また仲良くしたい。


 そんな言葉が並ぶのではないかと、どこかで身構えていた。


 だが、リリアナは最初にそれを書かなかった。


 許しを求めなかった。


 それだけで、セレスティアは手紙の続きを読む気になった。


『私は、お姉様の婚約者を奪ったのだと思っていました。けれど、最近は、それだけではなかったのだと分かってきました。お姉様の仕事も、部屋も、時間も、名前も、私は何も知らないまま奪っていました』


 文字が少し滲んでいる。


 涙が落ちたのだろう。


『お姉様の部屋を、私の衣装部屋にしていいと言われたとき、私は少し嬉しかったです。広くなると思いました。新しい衣装を置けると思いました。お姉様がどんな部屋で過ごしていたか、そこに何が残っているか、考えませんでした』


 セレスティアは、目を閉じかけて、閉じなかった。


 読む。


 リリアナが書いたなら、読む。


『茶会のことも同じです。私は、花を飾って、綺麗なお菓子を出して、皆様に微笑めばよいのだと思っていました。お姉様がなぜ北方の保存菓子を出していたのか、なぜ席順にあれほど時間をかけていたのか、なぜ地味な資料ばかり作っていたのか、何も知りませんでした』


 紙の上のリリアナは、言い訳をしていなかった。


 少なくとも、今のところは。


『でも、知らなかったから悪くないとは、もう思えません。知らなかったのは、私が知ろうとしなかったからです。お姉様が難しい顔をしていると、私は「お姉様は冷たい」と思いました。お姉様が細かいことを言うと、「意地悪」と思いました。でも、お姉様が細かいことを見ていたから、誰かのお金や暮らしが守られていたのだと、少しだけ分かりました』


 セレスティアの指が、便箋の端を押さえた。


 少しだけ。


 リリアナらしい言葉だった。


 まだ全部は分かっていないのだろう。


 けれど、分かったふりをしていない。


 それが、かえって胸に残った。


 次の頁へ進む。


『殿下のことも書きます』


 そこで、セレスティアは一度呼吸を整えた。


 カインは何も言わない。


 ミリアも筆を止めて、視線を落としている。


 セレスティアは続きを読んだ。


『私は、殿下に選ばれたことが嬉しかったです。お姉様より私を見てくださったのだと思って、舞い上がっていました。でも今は、その嬉しさの中に、嫌な気持ちが混ざっていたことも認めます。お姉様に勝ったような気がしていました』


 素直すぎるほどの言葉だった。


 セレスティアの胸が、ちくりと痛む。


『私は、お姉様に勝ちたかったのだと思います。お姉様は何でもできて、いつも正しくて、お父様にも王宮にも必要とされていて、私は可愛いだけだとどこかで思っていました。だから殿下が私を選んだとき、やっと私の方が上になれた気がしました』


 醜い感情だった。


 けれど、書いた。


 リリアナは、それを書いた。


 セレスティアは、そこから目を逸らせなかった。


『でも、今は分かりません。殿下が私を選んだのは、私を見ていたからなのか、それとも、お姉様のように細かいことを言わない私が楽だったからなのか。そう考える自分が怖いです』


 部屋の空気が、わずかに重くなった。


 セレスティアは、便箋を持つ指に力が入るのを感じた。


 リリアナも、気づき始めている。


 ジュリアスの隣にいることの意味に。


 彼が見ていたのは、自分なのか。

 それとも、都合のよい柔らかさなのか。


『昨日、殿下に「知らなかったことは悪くないのではなく、王太子なら重いのではないか」と言いました。殿下は、私が変わったと言いました。お姉様も、きっとそう言われたのですね』


 セレスティアは、ゆっくり息を吐いた。


 言われた。


 君は変わった、と。


 まるで、変わることが裏切りであるかのように。


『私はまだ、殿下を嫌いになったわけではありません。怖いくらい、まだ好きです。でも、このまま隣にいていいのか分からなくなりました。お姉様から奪った場所に、私は何も知らないまま座っているのかもしれません』


 リリアナの文字は、そこで少し乱れていた。


 迷いが、そのまま紙に残っている。


『お姉様。私は、許してくださいとは書きません。今は、許される準備もできていません。ただ、私は知らなかったことを言い訳にしないようにします。茶会の再申請書も、自分で書き直します。殿下のことも、お父様のことも、泣いて誰かに決めてもらうのをやめたいです』


 セレスティアは、最後の頁を開いた。


『もし、いつかお姉様が私と話してもいいと思える日が来たら、そのときは、姉妹としてではなくても構いません。まずは、私が何をしたのかを、お姉様の前で自分の言葉で言えるようになってからにします』


 最後に、小さくこう結ばれていた。


『リリアナ・エルフォード』


 セレスティアは、手紙を置かなかった。


 しばらく、便箋を持ったまま座っていた。


 胸が痛い。


 だが、今までとは違う痛みだった。


 父の言葉を読んだときのような、刃で切られる痛みではない。

 ジュリアスの「知らなかった」を聞いたときのような、冷えていく痛みでもない。


 これは、古い傷に少しだけ温かいものが触れた痛みに似ていた。


 治るわけではない。


 でも、そこに血が通っていることを思い出すような痛み。


「どうする」


 カインが静かに尋ねた。


 セレスティアは顔を上げる。


「返事をします」


「今か」


「はい」


「感情が動いている」


「動いています」


 正直に答えた。


「ですが、だからこそ、短く書きます」


 カインは少しだけ考え、頷いた。


「いいだろう」


 セレスティアは便箋を用意した。


 真っ白な、宰相府の事務用紙ではない。私信用の、少し柔らかい紙を選んだ。


 ペンを取る。


 最初の一文に、少し迷った。


 リリアナへ。

 リリアナ様へ。

 妹へ。


 どれも違う気がした。


 しばらく考え、セレスティアは書いた。


『リリアナへ』


 それだけで、胸が少し震えた。


 続きを書く。


『手紙を受け取りました。許す、許さないを今ここで答えることはできません。けれど、あなたが「許してください」から始めなかったことは、読みました』


 ペン先が止まる。


 言葉を選ぶ。


『知らなかったことを言い訳にしない、と書いたことも、記録ではなく、私自身の言葉として受け取りました』


 また少し考える。


『茶会の再申請書は、あなた自身の手で書いてください。誰の声を聞く場なのか、何のための費用なのかを、最後まで考えてください。分からないところを泣いて誰かに任せるのではなく、分からないと書いてください。そこからなら、確認できます』


 厳しいだろうか。


 でも、優しいだけではまた戻ってしまう。


 最後に、セレスティアは一行を加えた。


『姉妹として話す日は、まだ先です。ですが、あなたの手紙は捨てません』


 署名する。


『セレスティア・エルフォード』


 書き終えた瞬間、息が抜けた。


 短い返事だった。


 許していない。

 拒絶もしていない。


 ただ、受け取った。


 今はそれで十分だった。


 カインが文面を確認する。


「いい返事だ」


「厳しくありませんか」


「甘すぎない。冷たすぎない」


「それは褒め言葉でしょうか」


「かなり」


 少しだけ、セレスティアは笑った。


 笑えたことに、胸が痛んだ。


 人は、こんな状況でも笑える。


 それが不思議だった。


 リリアナの手紙は、私信として保管された。


 監査資料ではない。


 ただし、受領記録は残された。


 セレスティアは、その扱いに少し安心した。


 リリアナの反省まで、監査の材料にしたくはなかった。


 けれど、なかったことにもしたくなかった。


 昼過ぎ、王太子府から提出された略式確認印関連の追加文書が届いた。


 現実は、姉妹の手紙をゆっくり噛みしめる時間を与えてはくれない。


 木箱が二つ。


 中には、略式確認印が使われた文書の一覧と、いくつかの原本写しが入っている。


 セレスティアは、気持ちを切り替えた。


 リリアナへの返事は封じた。


 次は、王太子府の文書。


 オルドが一覧を読み上げる。


「略式確認印使用文書、確認済みだけで四十二件。うち王妃基金関連または慈善関連費に関わるものが十六件。王太子府社交費補填に関わるものが九件」


 ローレン副監が眉を寄せる。


「思ったより多いですね」


 セレスティアは、一覧の中にある項目を見て手を止めた。


『慈善茶会次期担当者引継ぎ資料』


 日付は、婚約破棄の少し前。


 セレスティアは、その文書を見た覚えがなかった。


「この資料は?」


 オルドが写しを取り出す。


 そこには、セレスティア確認済みの略式印が押されている。


 内容は、慈善茶会の引き継ぎに関するものだった。


 次期担当者として、リリアナ・エルフォードの名がある。


 だが、資料の中身は薄い。


 招待客の大まかな一覧。

 花や菓子の発注先。

 過去茶会の雰囲気。

 貴婦人たちへの挨拶文例。


 肝心の、支援対象ごとの聞き取り事項や費用区分、基金規程、北方三州の産品支援については、ほとんど触れられていない。


 セレスティアは、静かに言った。


「私は、この引き継ぎ資料を確認していません」


 ミリアが記録する。


「もし私が確認していれば、これでは不足だと言いました」


 ローレン副監が資料を覗き込む。


「茶会の見た目だけですね」


「はい」


 セレスティアは、胸の奥が冷えるのを感じた。


 リリアナは、何も知らないまま茶会を引き継いだ。


 その背景に、こんな薄い引き継ぎ資料があった。


 しかも、そこにセレスティア確認済みの印が押されている。


 つまり、リリアナはこう思ったかもしれない。


 これはお姉様が確認した資料なのだ、と。


 だから、花や菓子を選べばいいのだと。


 もちろん、それでリリアナの責任が消えるわけではない。


 だが、彼女の無知を作った者たちがいる。


 その事実が、また一つ紙の上に現れた。


「この資料を作成した者は」


 カインが問う。


 オルドが添付記録を確認する。


「王太子府侍従長補佐、アルノー・ベリル。現在も王太子府勤務です」


「聞き取り対象に追加」


「承知しました」


 セレスティアは、リリアナの手紙を思い出した。


『私は、花を飾って、綺麗なお菓子を出して、皆様に微笑めばよいのだと思っていました』


 そう思わされた面も、確かにあったのだ。


 セレスティアは、内心で小さく息を吐いた。


 人は、簡単に一色にはならない。


 リリアナは加害者だ。


 けれど、彼女もまた、都合のよい無知の中へ置かれていた。


 ジュリアスは責任者だ。


 けれど、王太子府の実務が彼の目の外で歪んでいたこともある。


 父は主導者に近い。


 だが、家令や商会や王太子府も、それぞれ手を貸していた。


 誰か一人を悪にすれば楽だ。


 けれど、帳簿はそれを許してくれない。


 人と人が、紙と金と沈黙で繋がっている。


 それを、ひとつずつ解かなければならない。


「宰相閣下」


「何だ」


「リリアナに、この資料の存在を知らせるべきでしょうか」


 カインは少し考えた。


「監査上は、必要があれば知らせる。姉として知らせたいなら、今は待て」


「なぜですか」


「今知らせれば、彼女は自分の責任をその資料に預けるかもしれない」


 セレスティアは黙った。


 その通りだった。


 薄い資料を渡されたから、私は知らなかった。

 お姉様確認済みとあったから、信じた。

 私だけが悪いわけではない。


 そう逃げる余地を与えてしまうかもしれない。


 リリアナは、今ようやく自分の言葉で反省を書き始めたところだ。


 その前に免罪符を渡すのは、よくない。


「分かりました」


 セレスティアは頷いた。


「今は、監査資料として扱います」


「それでいい」


 その日の夕方、リリアナのもとへセレスティアからの返事が届いた。


 封筒を受け取ったリリアナは、しばらく開けられなかった。


 自室の机の前に座り、両手で封筒を持つ。


 怖い。


 拒絶されているかもしれない。

 もう二度と姉妹として話すことはないと書かれているかもしれない。

 あるいは、監査官として冷たい通知だけが入っているかもしれない。


 でも、自分が書いたのだ。


 返事を怖がる資格は、たぶんない。


 リリアナは封を切った。


『リリアナへ』


 その一行を見た瞬間、涙が落ちた。


 様ではない。


 リリアナへ。


 それだけで、胸が崩れそうになった。


 だが、続きは甘くなかった。


『許す、許さないを今ここで答えることはできません』


 当然だ。


 分かっていた。


 それでも痛い。


『けれど、あなたが「許してください」から始めなかったことは、読みました』


 リリアナは、嗚咽をこらえた。


 読んでくれた。


 姉は、自分の手紙を読んでくれた。


『茶会の再申請書は、あなた自身の手で書いてください。誰の声を聞く場なのか、何のための費用なのかを、最後まで考えてください。分からないところを泣いて誰かに任せるのではなく、分からないと書いてください。そこからなら、確認できます』


 リリアナは、何度も読み返した。


 分からないと書いてください。


 そんなことを言われたのは、初めてだった。


 分からないなら、誰かに聞く。

 泣けば、誰かが助けてくれる。

 分からないままでも、周りが整えてくれる。


 そうしてきた。


 でも、分からないと自分で書く。


 そこから始める。


 リリアナは、机の上に置かれた再申請書式を見た。


 一、茶会の目的。

 二、招待者と公益上の理由。

 三、各支出の必要性。


 まだ、空白が多い。


 けれど今、その空白が少し違って見えた。


 恥ではない。


 埋めるべき場所だ。


 リリアナは、最後の一文を読んだ。


『姉妹として話す日は、まだ先です。ですが、あなたの手紙は捨てません』


 そこで、とうとう声を殺して泣いた。


 許されたわけではない。


 でも、捨てられなかった。


 今は、それだけで十分だった。


 リリアナは涙を拭き、再申請書式の一頁目を開いた。


 茶会の目的。


 ペンを握る。


 しばらく迷ってから、こう書いた。


『北方三州、孤児院、施療院の代表から、実際に困っていることを聞くため』


 少し考えて、次の行を書く。


『私はまだ、何を聞けばよいか全部は分かりません』


 その一文を書いた瞬間、胸が少し軽くなった。


 分からないと書いた。


 逃げずに。


 さらに続ける。


『なので、過去の茶会記録と、王妃基金規程を確認したいです』


 ぎこちない文章だった。


 美しくない。


 でも、初めて自分で実務に向き合った文章だった。


 同じ頃、王太子府ではジュリアスが苛立っていた。


 略式確認印の提出後、王太子府内は騒然としている。


 侍従長補佐アルノー・ベリルへの聞き取りも決まった。会計責任者バゼルは疲れ切り、事務方は過去文書の確認に追われている。


 そこへ、リリアナが姉からの返事を受け取ったと聞いた。


「セレスティアから返事が来たのか」


 ジュリアスが尋ねると、リリアナは少しだけ封筒を胸元に寄せた。


「はい」


「何と」


 以前なら、リリアナはすぐに見せただろう。


 殿下に相談しただろう。


 でも、今日は違った。


「私宛ての手紙です」


 ジュリアスの表情が変わる。


「私に見せられない内容なのか」


「そういう意味ではありません」


「なら見せればいい」


 リリアナは、手紙を握る。


 怖い。


 でも、ここで渡したら、また自分の気持ちを誰かに預けてしまう。


「いいえ」


 小さな声だった。


 だが、確かに拒んだ。


 ジュリアスの目が冷たくなる。


「リリアナ」


「これは、私がお姉様に書いた手紙への返事です。殿下に見せるかどうかは、私が決めたいです」


 言えた。


 リリアナ自身が驚いた。


 ジュリアスは、しばらく彼女を見ていた。


「君まで、セレスティアのようなことを言う」


 その言葉に、胸が痛む。


 でも、以前ほど恐ろしくはなかった。


「お姉様のようになれるとは思いません」


 リリアナは答えた。


「でも、何も考えないままではいたくありません」


 ジュリアスは黙った。


 その沈黙が怖かった。


 だが、リリアナは手紙を渡さなかった。


 それは、彼女にとって初めての小さな抵抗だった。


 宰相府の夜。


 セレスティアは、リリアナからの手紙を小さな箱に収めた。


 監査資料とは別に。


 私信として。


 その横に、自分が出した返事の控えも置く。


 カインが扉の外から声をかけた。


「まだ起きているのか」


「手紙をしまっていただけです」


「書類は?」


「読んでおりません」


「よし」


 その短いやり取りに、セレスティアは少し笑った。


 箱の蓋を閉じる。


 今日は、少しだけ違う疲れがあった。


 王太子府の略式確認印。

 薄い引き継ぎ資料。

 リリアナの手紙。

 自分の返事。


 どれも、彼女の名前がどれだけ人に使われてきたかを示していた。


 だが同時に、少しずつ戻り始めてもいる。


 リリアナは、自分の言葉で書いた。

 セレスティアも、自分の言葉で返した。


 まだ許していない。


 まだ和解していない。


 それでも、なかったことにはしなかった。


 セレスティアは、机の引き出しを開けた。


 今日の覚書を書く。


『許しではなく、受け取ることから始まるものもある』


 もう一行。


『リリアナの手紙は、捨てなかった』


 引き出しを閉める。


 窓の外では、王宮の灯りが静かに瞬いていた。


 明日は、王太子府侍従長補佐アルノー・ベリルの聞き取り。


 薄い引き継ぎ資料を作り、セレスティア確認済みの印を押した者。


 リリアナを無知なまま茶会へ送り出した者。


 そしておそらく、王太子府の事務を都合よく回していた者。


 次の紙が、また開かれる。

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