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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第22話 王太子殿下は、知らなかったと仰いました

 ジュリアス・ヴァレンティア王太子が宰相府の聞き取り室に入ってきたとき、セレスティアは、ほんの少しだけ息を止めた。


 彼は今日も美しかった。


 金の髪は丁寧に整えられ、濃い青の礼服には王太子府の徽章が輝いている。背筋は伸び、歩調は乱れず、顔立ちには生まれながら人の視線を集める華があった。


 多くの貴族が憧れた王太子。


 かつて、セレスティアの婚約者だった人。


 その彼が、今は監査対象者として席に着こうとしている。


 胸が痛まないはずがなかった。


 けれど、痛みは彼女を止めなかった。


 目の前には資料がある。


 エルフォード公爵家会計室から保全された『王』帳簿の写し。

 王太子府会計責任者ヘンリク・バゼルの証言記録。

 王太子府内で使われていたという略式確認印の報告書。

 王妃基金から王太子府関連費へ流れた疑いのある支出一覧。


 そして、セレスティア自身が書いた三つの確認項目。


 一、王太子府の予算不足を知っていたか。

 二、補填経路を確認したか。

 三、セレスティア名義の略式確認印を知っていたか。


 紙は、彼女の前に静かに置かれている。


 だから大丈夫だと、セレスティアは自分に言い聞かせた。


 情はある。


 痛みもある。


 けれど、戻らない。


 聞き取り室には、王弟宰相カイン、法務官オルド、記録官ミリア、王宮会計副監ローレン、セレスティアがいた。


 ジュリアスは、席に着く前にカインを見た。


「叔父上。本当にこのような場を設ける必要があるのですか」


 声は抑えられていた。


 だが、その底に怒りがあることは明らかだった。


 カインは平然と答えた。


「ある」


「私は王太子です」


「だから確認する」


「私を罪人扱いするつもりですか」


「まだ罪人扱いはしていない。王太子府関連費の責任者として聞く」


 ジュリアスは唇を引き結んだ。


 その視線が、セレスティアへ移る。


「セレスティア」


 名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が小さく揺れた。


 十年分の癖だった。


 呼ばれれば返事をする。

 必要な資料を差し出す。

 彼が困らないよう、次の言葉を用意する。


 けれど今日は違う。


 セレスティアは、静かに礼をした。


「王太子殿下。本日は、王太子府関連費について確認を行います」


 ジュリアスの表情が、かすかに歪んだ。


「君まで、そんな言い方をするのか」


「本日は監査手続きですので」


「私たちは、そんな関係だったか」


 その言葉は、柔らかく見せかけて鋭かった。


 以前の彼なら、無意識に言ったのだろう。


 君は特別だった。

 だから今も、私情を残すべきだ。

 王太子と監査官ではなく、かつての婚約者同士として話すべきだ。


 だが、セレスティアはその誘いに乗らなかった。


「かつての関係と、本日の確認事項は別です」


 ジュリアスは黙った。


 カインが短く言う。


「座れ」


 ジュリアスは一瞬だけ不満そうにしたが、結局椅子に腰を下ろした。


 オルドが聞き取り開始を宣言する。


「これより、王太子ジュリアス・ヴァレンティア殿下への聞き取りを開始します。対象は、王太子府関連費に対する王妃基金および慈善関連費からの不適切補填疑い、ならびにセレスティア・エルフォード様名義の略式確認印使用に関する認識確認です」


 ミリアの筆が走る。


 ジュリアスは、その音を不快そうに聞いていた。


 記録されることに、彼は慣れていない。


 いや、王太子としての発言は常に記録されてきたはずだ。


 ただし、それは彼を称えるための記録だった。式典の言葉、勅答、貴族たちとの会見。


 今日のように、責任を確認するための記録ではない。


 オルドが最初の資料を示した。


「殿下。こちらはエルフォード公爵家会計室より保全された『王』帳簿の写しです。王太子府茶会費、外交贈答品、広報費、式典関連費について、王妃基金または慈善関連費から補填された疑いがあります。この内容について、ご認識はありましたか」


 ジュリアスは資料へ視線を落とした。


 眉間に皺が寄る。


「ない」


 即答だった。


「本当に、まったく?」


 オルドが確認する。


「ない。私はこのような帳簿を見たことがない」


「帳簿の存在ではなく、王太子府関連費が外部から補填されていた可能性についてです」


「知らない」


「王太子府の茶会費が不足していたことはご存じでしたか」


 ジュリアスは少しだけ言葉に詰まった。


「……茶会が増えていたことは知っている」


「費用が予定を超過していたことは」


「侍従たちが処理していた」


「ご存じでしたか」


 オルドは同じ問いを繰り返した。


 ジュリアスの顔に苛立ちが浮かぶ。


「細かな額までは知らない」


「細かな額ではなく、予算不足の有無です」


「不足していたとしても、王太子府の者が調整する。そういうものだろう」


 ローレン副監が顔を上げた。


「王太子府の調整には、正規の予算、予備費、儀礼費の範囲があります。王妃基金を用いることは通常認められません」


「だから私は知らなかったと言っている」


 ジュリアスの声が強くなる。


「私が命じたわけではない」


 ミリアの筆が、静かに動いた。


 セレスティアは、その言葉を聞いていた。


 私が命じたわけではない。


 おそらく本当だろう。


 彼は命じていない。


 だが、命じていないから責任がないのか。


 それが今日の問いだった。


 オルドは次の資料を出す。


「王太子府会計責任者ヘンリク・バゼル殿は、茶会費不足について『ある程度は殿下もご存じだった』と証言しています。また、不足額の補填経路については、殿下が細かな会計処理を好まれなかったため詳細報告していなかった、と」


 ジュリアスは不快そうに目を細めた。


「バゼルがそんなことを?」


「記録にあります」


「私は会計係ではない」


 その一言が、部屋の空気を少し変えた。


 セレスティアの胸が、重く沈む。


 それは、彼が昔からよく使っていた考え方だった。


 私は演説をする。

 私は人前に立つ。

 私は王太子として大きな方針を示す。


 細かなことは、君たちが整えてくれ。


 セレスティアは、何度もその言葉を受け入れてきた。


 でも、今日だけは受け入れてはいけない。


 オルドが淡々と問う。


「王太子府の支出について、最終的な管理責任はどなたにありますか」


「会計責任者だ」


「王太子府の会計責任者は、殿下の府に属する者です」


「だからといって、すべてを私が見るわけにはいかない」


「すべてを見る必要はありません。ただ、予算不足が続いていた場合、その補填経路を確認する責任はあります」


 ジュリアスは黙った。


 オルドの言葉は正論だった。


 正論だからこそ、ジュリアスは受け入れがたい顔をした。


「これは、叔父上の意向ですか」


 ジュリアスはカインを見た。


「私を政治的に弱らせるために」


 カインは表情を変えない。


「帳簿の意向だ」


「帳簿が意向を持つはずがない」


「なら、事実と言い換えよう」


 ジュリアスは唇を噛んだ。


 今度は、彼の視線がセレスティアへ向く。


「君もそう思っているのか」


 セレスティアの心臓が、少し強く鳴った。


 来た。


 自分に向けられる問い。


 法務官に任せてもよかった。

 カインが遮ることもできた。


 だが、この問いだけは、自分で答えるべきだと思った。


「発言してもよろしいでしょうか」


 セレスティアは確認した。


 カインが頷く。


「許可する」


 セレスティアは、ジュリアスを見た。


「王太子殿下が、王妃基金からの補填を直接命じたとは、現時点では確認されていません」


 ジュリアスの表情が少し緩みかけた。


 だが、セレスティアは続けた。


「ですが、王太子府の予算不足を知りながら、補填経路を確認しなかった責任はあります」


 その表情が再び強張る。


「君は私に何を求めている」


「求めているのではありません。確認しています」


「言葉遊びだ」


「いいえ」


 セレスティアは、静かに首を横に振った。


「これは、帳簿の話です」


 父に言ったのと同じ言葉だった。


 ジュリアスは、その言葉に苛立ったようだった。


「君は本当に変わった」


「はい」


 セレスティアは、今度は否定しなかった。


「変わりました」


 自分でも、少し驚くほど自然に言えた。


「以前の私は、殿下が細かな会計をご覧にならなくても、私が整えればよいと思っていました。殿下が知らないまま人前に立っても、私が事前に原稿と資料を整えれば問題ないと思っていました」


 胸の奥が痛む。


 でも、言葉は止まらない。


「それを支えることだと思っていました」


 ジュリアスの目が揺れる。


「違うというのか」


「支えでもありました」


 セレスティアは答えた。


「ですが、同時に、殿下が知ろうとしないことを許してしまいました」


 部屋が静かになる。


「私にも、悔いはあります。もっと早く、殿下ご自身が確認すべきですと申し上げるべきでした」


 ジュリアスが何か言いかける。


 だが、セレスティアは先に続けた。


「けれど、殿下が知ろうとなさらなかった責任まで、私が背負うことはできません」


 言えた。


 言ってしまった。


 胸の奥が、ひどく痛い。


 それでも、言えた。


 ジュリアスは、しばらくセレスティアを見ていた。


 その目には怒りだけでなく、戸惑いがあった。


「私は、君を信頼していた」


 彼は低く言った。


「細かなことを任せられるほどに」


 その言葉は、かつてのセレスティアなら嬉しかったかもしれない。


 信頼していた。


 任せていた。


 だが、今は分かる。


 信頼と放任は違う。


「信頼していただいたことには、感謝しております」


 セレスティアは言った。


「ですが、任せることと、見ないことは違います」


 ジュリアスは黙った。


 オルドが、次の資料を示した。


「次に、セレスティア様名義の略式確認印について確認します」


 その言葉に、ジュリアスは眉をひそめた。


「略式確認印?」


「王太子府内で、セレスティア様が確認済みであることを示すために用いられていた印です。バゼル殿の証言によると、王太子府内の事務処理を早めるために作成されたものです」


「知らない」


 ジュリアスは即答した。


 その声には、本当に驚きがあった。


 少なくとも、印の存在は知らなかったのだろう。


 セレスティアはそう感じた。


 オルドが確認する。


「王太子府内で、セレスティア様の確認済みを示す印が本人の知らないところで使われていたことについて、殿下はご存じなかったと」


「知らない。そんなものを作るよう命じた覚えもない」


「では、王太子府内の事務処理で、セレスティア様の確認がどのように扱われていたか、確認したことは」


 ジュリアスは、また言葉に詰まった。


「それは……事務方が」


「確認したことはありますか」


「ない」


 短い答えだった。


 それが記録される。


 ジュリアス自身も、その重さを少しずつ感じ始めているようだった。


 知らない。


 命じていない。


 確認していない。


 それらは彼を守る盾になるはずだった。


 だが、ここでは違う。


 王太子府の責任者が、知らず、命じず、確認しなかった。


 そういう記録になっていく。


 ローレン副監が口を開いた。


「殿下。会計上、責任者が細部をすべて見る必要はありません。しかし、不足が続いている支出、外部補填のある支出、名義確認が必要な支出については、最低限の報告経路を持つ必要があります」


 ジュリアスは、苦々しげに言った。


「それを今さら言われても困る」


「今さら確認しなければ、さらに困ることになります」


 ローレンの声は、年長者らしい静かな厳しさがあった。


「王太子府は、王国の中枢です。知らなかったという言葉が通る範囲と、通らない範囲があります」


 ジュリアスは、椅子の肘掛けを握った。


「私は、国のために動いてきた。若手貴族をまとめ、地方へ支援を呼びかけ、外交の場に立ち」


「その費用の一部が、王妃基金から不適切に補填されていた疑いがあります」


 オルドが言った。


「国のためという目的があっても、会計処理の不正は正当化されません」


 ジュリアスは、今度こそ言葉を失った。


 セレスティアは、その姿を見ていた。


 かつてなら、ここで助け舟を出した。


 殿下は民を思っておられたのです。

 支出経路については事務方の不備です。

 今後改善すればよいのです。


 そう言っただろう。


 今は言わない。


 ジュリアスの沈黙は、ジュリアス自身のものだ。


 やがて、彼は低く言った。


「では、私はどうすればいい」


 その問いは、初めて少しだけ王太子らしくなかった。


 子どものように聞こえた。


 セレスティアは胸が痛んだ。


 答えてしまいそうになる。


 こうしてください。

 この順番で確認してください。

 この文面で謝罪を出してください。

 この資料を集めてください。


 そう言いたくなる。


 十年の癖だ。


 だが、彼女が答える前に、カインが言った。


「まず、知れ」


 短い言葉だった。


 ジュリアスがカインを見る。


「知る?」


「王太子府の支出を。誰が処理し、誰が承認し、誰の名が使われたのかを。君は、知らなかったと言った。なら今から知れ」


 ジュリアスは黙った。


 カインの声は容赦がなかった。


「その上で、責任を取る範囲を決めろ。知らないまま、責任がないと言うな」


 聞き取り室に、静かな重みが落ちた。


 セレスティアは、カインの横顔を見た。


 自分が言いたかったことを、彼は短く切り出した。


 感情ではなく、手順として。


 知らなかったなら、知る。


 その上で責任を見る。


 当たり前のことだ。


 だが、王太子府ではその当たり前が置き去りにされていた。


 ジュリアスは、長く沈黙した。


 そしてようやく言った。


「略式確認印と関連文書は提出する」


 オルドが記録する。


「提出期限は」


 カインが言った。


「本日中」


 ジュリアスが顔を上げる。


「本日中?」


「遅らせる理由はない」


「王太子府にも整理が必要だ」


「だからこそ本日中だ。整理されすぎたものは信用しない」


 グレアムのときと同じだ。


 選別する時間を与えない。


 ジュリアスは屈辱に顔を強張らせたが、拒否はしなかった。


「……分かった」


 それは、王太子としては珍しいほど小さな声だった。


 オルドが最後に確認する。


「本日の聞き取りにおいて、殿下は、王太子府関連費への王妃基金等からの補填について詳細な認識はなかったと回答されました。一方で、茶会費等の予算不足については一定の認識があり、補填経路については確認していなかったと認められました。また、セレスティア様名義の略式確認印については知らなかったが、王太子府内での確認運用を確認したこともなかった、と」


 ジュリアスは険しい顔で聞いていた。


「そのまとめでは、私が無責任に聞こえる」


 オルドは静かに答えた。


「異議がある場合は、文書で提出してください」


 ジュリアスは唇を噛んだ。


 セレスティアは、その姿を見て思った。


 父と同じだ。


 自分の言葉が記録されることに、彼らは慣れていない。


 記録とは、言った者にも責任を返す。


 だから怖いのだ。


 聞き取り終了後、ジュリアスはすぐには立ち上がらなかった。


 しばらく机の上の資料を見ていた。


 それから、セレスティアへ視線を向けた。


「君は、私を軽蔑しているのか」


 その問いは、記録の外へ滑り落ちそうな声だった。


 法務官が反応する前に、カインが言った。


「回答する必要はない」


 だが、セレスティアは首を横に振った。


「答えます」


 カインは彼女を見た。


 少しだけ間があり、やがて頷いた。


「許可する」


 セレスティアは、ジュリアスを見た。


 胸は痛い。


 けれど、もう逃げない。


「軽蔑はしておりません」


 ジュリアスの表情がわずかに揺れる。


「では」


「失望はしています」


 言った瞬間、彼の顔が傷ついたように歪んだ。


 セレスティア自身も痛かった。


 だが、嘘はつけなかった。


「私は、殿下に知ってほしかったのだと思います。私が何を見ていたのか。王妃基金が何のためにあるのか。茶会や演説や式典の裏で、どれだけの人の生活が数字に繋がっているのか」


 声は静かだった。


「でも、殿下は見ようとなさらなかった」


 ジュリアスは、何も言わない。


「それが、とても悲しいです」


 聞き取り室は静まり返った。


 これは監査記録に必要な発言ではなかったかもしれない。


 けれど、セレスティアには必要だった。


 怒りではなく、悲しみとして言葉にすることが。


 ジュリアスは、視線を落とした。


「私は……君が見てくれていると思っていた」


「はい」


「それでは駄目だったのか」


 セレスティアは、ゆっくり頷いた。


「駄目でした」


 短い答えだった。


 しかし、その一言で十分だった。


 ジュリアスは目を閉じた。


 しばらくして立ち上がる。


「本日中に、略式確認印と関連文書を提出させる」


 声は硬かった。


 だが、先ほどまでとは少し違った。


 怒りだけではない。


 初めて、自分の足元を見下ろそうとしているような声だった。


 彼はカインへ礼をし、最後にセレスティアを見た。


 何かを言いかけた。


 だが、結局何も言わずに部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 足音が遠ざかる。


 セレスティアは、椅子に座ったまま、深く息を吐いた。


 手が震えていた。


 カインが水を差し出す。


「戻ってきたか」


 セレスティアは杯を受け取る。


「はい」


 声は小さかった。


「戻ってきました」


「よく言った」


 その一言で、目の奥が熱くなった。


 だが、泣くほどではなかった。


 たぶん、今日の涙はもう少し後で来る。


 今は、まだ記録を確認する時間だった。


 その日の夕方、王太子府から略式確認印と関連文書が届いた。


 小さな木箱に入れられていた。


 中には、赤い印章が一つ。


 印面には、略式の文字が刻まれている。


『セ確認済』


 セレスティアは、それを見た瞬間、胸の奥に冷たいものを感じた。


 小さな印だった。


 たったこれだけのもので、自分が確認したことにされていた。


 木箱には、使用文書一覧も入っていた。


 その数は、想定より多かった。


 王太子府茶会費。

 広報費。

 若手貴族交流費。

 慈善関連報告書。

 外交贈答品調整。

 式典資料作成費。


 ローレン副監が一覧を確認し、低く言った。


「これは、王太子府全体の再監査になります」


 オルドも頷く。


「第二章どころか、王宮全体に広がりますね」


 セレスティアは、印章を見つめていた。


『セ確認済』


 短い文字。


 そこに、自分の名前の一部が使われている。


 セレスティアではない。


 セ。


 人間ですらない。


 ただの略号。


 便利な印。


 彼女は、静かに言った。


「この印は、無効です」


 オルドが記録する。


「はい」


「私本人は存在を知りませんでした。使用を許可したこともありません。この印が押された文書については、すべて本人確認済みとは認めません」


「記録しました」


 カインが、印章を保全袋へ入れるよう命じた。


 木箱が閉じられる。


 セレスティアは、少しだけ目を閉じた。


 今日、ジュリアスに言えた。


 駄目でした、と。


 それは、彼だけに向けた言葉ではなかった。


 過去の自分にも向けた言葉だった。


 見ないことを許し続けた関係は、駄目だった。


 自分の名前が略号になる関係は、駄目だった。


 もう、そこへは戻らない。


 夜、セレスティアは自分の机の引き出しを開けた。


 いつもの覚書の束がある。


 そこへ、今日の一枚を重ねる。


『信頼と放任は違う。任せることと、見ないことは違う』


 少し迷って、もう一行書き足した。


『私は、もう「セ確認済」ではない。セレスティア・エルフォードとして確認する』


 引き出しを閉じる。


 小さな音がした。


 窓の外には、王宮の灯りがある。


 王太子府も、その中にある。


 明日から、そこに残された文書を一枚ずつ確認しなければならない。


 痛い作業になる。


 けれど、もう怖さだけではない。


 彼女の名前は、切り取られた署名欄から、略式確認印から、少しずつ戻ってきている。


 そして、その先にはまだ、リリアナの手紙が届くかもしれない。


 父の家。

 王太子府。

 妹の謝罪。

 王妃基金の真実。


 すべてはまだ途中だ。


 セレスティアは、机に手を置いた。


 自分で選んだ机。


 自分で署名するための場所。


 明日も、ここから始める。

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