第21話 知らなかった、では済まされません
王太子府の会計責任者は、痩せた男だった。
名をヘンリク・バゼルという。
年は五十を少し越えた頃だろう。髪は薄くなり、頬はこけ、銀縁の眼鏡の奥に疲れた目をしている。王太子府に長く仕えた文官特有の、丁寧すぎるほど丁寧な物腰を身につけていた。
彼は聞き取り室に入るなり、深く頭を下げた。
「ヘンリク・バゼルでございます。本日は、王太子府会計に関する確認のため参りました」
声は落ち着いている。
だが、指先は落ち着いていなかった。
袖口を何度も整え、持参した書類袋の紐を結び直し、椅子に座ってからも膝の上で指を組み替えている。
セレスティアは、その仕草に見覚えがあった。
王太子府にいた頃、期限の迫った支出確認を求めると、彼はよく同じように袖口を触っていた。
人のよい文官だった。
少なくとも、悪人には見えなかった。
けれど、悪人でない者の手を通っても、不正な書類は動く。
そのことを、セレスティアはもう知っていた。
聞き取り室には、カイン、法務官オルド、記録官ミリア、王宮会計副監ローレン、そしてセレスティアがいた。
机の中央には、エルフォード公爵家会計室から押収された『王』帳簿の写しが置かれている。
その隣には、王太子府側から提出された回答文。
王太子府は、昨日の照会に対して短くこう答えてきた。
『王妃基金から王太子府関連費が補填された事実について、王太子殿下は認識していない。王太子府としても、当時の処理について確認中である』
王太子殿下は認識していない。
それは、おそらく嘘ではない。
問題は、嘘ではないことだった。
知らなかった。
見ていなかった。
任せていた。
それで済む立場ではない。
オルドが聞き取り開始を宣言する。
「これより、王太子府会計責任者ヘンリク・バゼル殿への聞き取りを開始します。対象は、エルフォード公爵家会計室より保全された『王』帳簿に記載された王太子府関連費補填疑い、ならびに王妃基金および慈善関連費からの転用疑いです」
ミリアの筆が走る。
バゼルは、一度唾を飲み込んだ。
「承知いたしました」
オルドは最初の頁を示した。
「こちらの項目をご確認ください。『王太子府茶会費補助』『基金経由』『セ確認扱い』とあります。この支出に心当たりはありますか」
バゼルは帳簿の写しを覗き込んだ。
すぐには答えなかった。
彼の目が、項目と日付の間を何度も往復する。
「……この時期、王太子府の茶会費が不足していたことは事実です」
「理由は」
「若手貴族との交流会が増えておりました。殿下が将来の政務基盤を固めるため、王太子府主催の小規模茶会を頻繁に開いておられました」
「予算は足りていたのですか」
「足りておりませんでした」
バゼルは、はっきりと答えた。
そこまでは隠さないらしい。
オルドが続ける。
「不足分は、どこから補填しましたか」
バゼルの指が膝の上で強く組まれる。
「当時、エルフォード公爵家より、慈善広報費との共同処理が可能であると説明を受けました」
セレスティアは顔を上げた。
エルフォード公爵家。
やはり出た。
オルドが確認する。
「慈善広報費との共同処理、とは」
「王太子府の茶会において、慈善活動や地方支援についても貴族たちへ周知する。その名目で、一部を王妃基金関連の広報費として処理できると」
ローレン副監の表情が険しくなる。
「本来、そのような処理は認められません」
「はい」
バゼルは小さく頷いた。
「今なら、そう分かります。当時も疑問はありました。ただ……」
「ただ?」
「エルフォード公爵家からの書類には、セレスティア様の確認があると記されていました」
聞き取り室が静かになった。
セレスティアは、その言葉を胸で受けた。
まただ。
また、自分の名が出る。
オルドが、静かに問う。
「セレスティア様ご本人に確認しましたか」
バゼルは顔を伏せた。
「しておりません」
「なぜ」
「王太子府では、当時セレスティア様が多くの文書を確認しておられました。エルフォード公爵家からも、セレスティア様確認扱いで問題ないと」
「本人確認ではなく、確認扱い」
「……はい」
ミリアの筆が止まらない。
セレスティアは、自分の手を見た。
震えてはいない。
ただ、冷たかった。
確認扱い。
この言葉は、何度聞いても慣れない。
自分が見ていないものを見たことにされる。
考えていないことを考えたことにされる。
責任だけが自分の名前に乗る。
それが、この数年の間に何度も起きていた。
オルドは、次の項目を示した。
「『孤児院広報文作成費 転用』とあります。王太子府側で、この費用を受けた認識はありますか」
バゼルの顔色が、さらに悪くなった。
「その名目ではありません」
「では、別名目で?」
「王太子府の広報文作成費として、同額に近い補助を受けています」
「補助元は」
「……エルフォード公爵家経由と記憶しております」
「王妃基金からとは知らなかった?」
「はい」
即答だった。
だが、オルドは逃がさない。
「確認しなかったのですか」
バゼルは唇を引き結んだ。
「しませんでした」
「理由は」
「セレスティア様の確認があると聞いていたためです」
また、同じ答えだった。
ローレン副監が、低く言った。
「王太子府会計責任者としては、あまりに不用心です」
バゼルは反論しなかった。
「おっしゃる通りです」
その声には、疲労と後悔が滲んでいた。
「当時の王太子府は、殿下の活動を広げる時期でした。茶会、式典、若手貴族との交流、外交使節への対応。必要な支出は増えていましたが、予算増額は簡単ではありませんでした」
「だから、外部から補填を受けた」
「はい」
「その補填がどこから来たか、確認せずに」
「……はい」
バゼルは深く頭を下げた。
「私の怠慢です」
怠慢。
その言葉を、セレスティアは静かに聞いた。
この男は、自分の怠慢を認めた。
父は家のためと言った。
ジュリアスは知らなかったと言った。
マルクスは旦那様の判断と言った。
その中で、バゼルの「怠慢です」は、ひどく弱々しいが、まだ正直な言葉に聞こえた。
オルドは問いを続ける。
「王太子殿下へ、不足分の補填経路について報告しましたか」
バゼルは首を横に振った。
「詳細は報告しておりません」
「なぜ」
「殿下は、細かな会計処理を好まれませんでした。必要額、支出結果、対外的な問題の有無を報告する形が常でした」
セレスティアの胸が、ちくりと痛んだ。
それは知っている。
ジュリアスは、細かな会計を嫌った。
必要なら任せる、と言った。
君たちが整えてくれ、と言った。
セレスティアが説明しようとしても、「細かい数字は君に任せる」と笑った。
その笑顔を、かつては信頼だと思っていた。
今は、別の形に見える。
責任から目を逸らすための柔らかな幕。
「王太子殿下は、予算が不足していることを知っていましたか」
オルドが尋ねる。
バゼルは迷った。
「ある程度は」
「どの程度ですか」
「茶会や式典の費用が予定より膨らんでいることは、侍従長からも報告されていたはずです。ただ、具体的な不足額までは」
「不足額を知ろうとされたことは」
「ほとんどありません」
ミリアの筆が走る。
セレスティアは、机の端を見つめた。
ほとんどありません。
その言葉は、本人が直接不正を命じたという証言より、ある意味で痛かった。
ジュリアスは知らなかったのかもしれない。
だが、知ろうとしなかった。
自分が輝くための場が整っていくことを当然とし、その裏側を見なかった。
オルドが、別の写しを出す。
「こちらは、王太子府から提出された当時の支出報告書です。『セレスティア・エルフォード確認済み』とあります。この確認印は王太子府で作成したものですか」
バゼルは顔を上げ、目を見開いた。
「これは……」
「見覚えが?」
「はい。王太子府内で使っていた略式確認印です」
セレスティアは初めて聞く言葉に眉を寄せた。
「略式確認印?」
思わず口に出た。
オルドが彼女へ頷く。
「発言を許可します」
セレスティアはバゼルを見る。
「私は、その印の存在を知りません」
バゼルは青ざめた。
「セレスティア様には、直接お見せしたことがなかったかもしれません」
「私の名前の確認印なのに?」
「正式印ではありません。王太子府内で、セレスティア様がすでに確認された案件を区別するための」
「私が確認していないものにも使われていましたか」
バゼルは黙った。
その沈黙で、答えは見えた。
セレスティアは、胸の奥に怒りが静かに積もるのを感じた。
切り取られた署名欄だけではなかった。
王太子府の中には、彼女の確認を示す略式印まであった。
しかも本人は知らない。
「誰が、その印を作成しましたか」
オルドが尋ねる。
「当時の侍従長補佐です。王太子府内の事務処理を早めるために」
「王太子殿下は知っていましたか」
「印の存在までは、ご存じなかったと思います」
「では、王太子府内でセレスティア様の名前を用いた確認印が使われていたことを、責任者は誰も問題視しなかったのですか」
バゼルは、深く俯いた。
「当時は、セレスティア様が王太子妃候補で、ほぼすべての実務を見ておられました。誰も、不自然だとは」
セレスティアは、静かに言った。
「私は、ほぼすべてを見ていたのではありません」
バゼルが顔を上げる。
「見せられたものを見ていました。見せられなかったものは、見ていません」
部屋の空気が止まった。
「それなのに、王太子府では私が見たことになっていたのですね」
バゼルは、何も言えなかった。
オルドが記録する。
ローレン副監は厳しい顔で言った。
「略式確認印の原物を提出してください」
「はい」
「作成経緯、使用範囲、押印された文書一覧も必要です」
「承知しました」
バゼルの声は、もうほとんど抵抗を失っていた。
彼自身、自分がどれだけ危ういものを運用していたか、今になって理解しているのだろう。
カインが低く言った。
「王太子府への強制提出命令を準備する。略式確認印、関連文書、当時の侍従長補佐の聞き取りも行う」
「承知しました」
オルドが答える。
バゼルは顔を上げた。
「宰相閣下。ひとつ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「言え」
「殿下は、本当に細部をご存じありませんでした」
セレスティアの胸が、また痛んだ。
バゼルは続ける。
「殿下は、王太子として華やかな場に立ち、人々を励まし、若手貴族をまとめることを期待されていました。会計や裏方は、私どもが整えるものだと」
「だから責任がないと?」
カインの声は冷たい。
バゼルは首を横に振った。
「いいえ」
その答えは、聞き取り室の誰もが少し意外に思った。
「責任は、ございます」
バゼルは、ゆっくりと言った。
「殿下が知ろうとなさらなかったことにも。私が知らせようとしなかったことにも。セレスティア様の名前が便利に使われることに、誰も疑問を持たなかったことにも」
セレスティアは、バゼルを見た。
この男は弱い。
強くはない。
自分の責任を避けようとした。流れに乗った。慣例に従った。
それでも今、彼は言った。
責任はある、と。
その一言は、ひどく重かった。
オルドが確認する。
「今の発言を記録します。王太子殿下が細部を知らなかったとしても、知ろうとしなかったことには責任がある、という理解でよろしいですか」
バゼルは、目を閉じた。
そして頷いた。
「はい」
ミリアの筆が、ゆっくりとその言葉を書き残した。
聞き取りが終わる頃、セレスティアはひどく疲れていた。
父と向き合ったときのような激しさではない。
もっとじわじわと削られる疲れだった。
王太子府の中に、自分の名前がどれほど当然のように使われていたのか。
それを一つずつ知らされる疲れ。
バゼルが退室する前、彼はセレスティアへ深く頭を下げた。
「セレスティア様」
彼の声は、最初よりずっと老けて聞こえた。
「私は、あなたに甘えておりました」
セレスティアは、すぐには答えなかった。
甘えていた。
王太子府が。
公爵家が。
ジュリアスが。
リリアナが。
父が。
母が。
そして、彼自身も。
その言葉は、あまりにも広かった。
「甘えでは済まないこともあります」
セレスティアは静かに言った。
バゼルは深く頷いた。
「承知しております」
「ですが、証言は記録されます」
「はい」
「今後は、記録に従ってください」
「必ず」
それだけだった。
許しではない。
断罪でもない。
ただ、次の一歩だった。
バゼルが退室すると、聞き取り室には重い空気が残った。
ローレン副監が、王太子府の略式確認印についてのメモをまとめながら言った。
「これは、王太子府全体の事務体制の問題です」
オルドが頷く。
「略式印の原物と使用文書が出れば、さらに広がるでしょう」
カインは短く言った。
「ジュリアス本人を呼ぶ」
セレスティアの指が止まった。
分かっていた。
避けられないと。
それでも、言葉として聞くと胸が痛む。
「明日、ですか」
カインは彼女を見る。
「明日だ」
「早いですね」
「遅らせれば、王太子府内で話が整えられる」
「はい」
「君は同席するか」
セレスティアは、すぐには答えなかった。
ジュリアス本人。
元婚約者。
かつて愛していた人。
そして、王太子府の責任者。
彼に「知らなかったでは済まない」と告げる場になる。
同席したくない気持ちはある。
でも、同席しなければならないと思った。
「同席します」
セレスティアは答えた。
「ただ、質問の主導は法務官にお願いします」
「当然だ」
「私は、必要なときだけ発言します」
「それでいい」
カインは少しだけ視線を緩めた。
「無理なら退室しろ」
「はい」
「情があるまま、記録しろ」
前にも言われた言葉。
セレスティアは、深く頷いた。
「はい」
王太子府では、バゼルの聞き取り内容が戻るより先に、宰相府から次の通知が届いた。
王太子ジュリアス本人への聞き取り要請。
日時は明日午前。
場所は宰相府聞き取り室。
ジュリアスは文書を読んだ瞬間、顔を強張らせた。
「私を呼びつけるのか」
侍従長は慎重に答える。
「王太子府関連費について、殿下ご本人の認識確認が必要とのことです」
「認識などない。知らなかったと言えば済む」
侍従長は黙った。
済まない。
おそらく、済まない。
だが、それを口にする勇気はなかった。
部屋の隅にいたリリアナが、小さく息を吸った。
「殿下」
ジュリアスが振り向く。
「何だ」
「明日は……お姉様も、いらっしゃるのでしょうか」
ジュリアスの表情が険しくなる。
「いるだろうな。彼女は、私を追い詰めたいのだから」
リリアナは胸が痛んだ。
違う。
そう言いたかった。
でも、完全に違うと言い切る勇気もなかった。
セレスティアは確かに殿下を追及している。
けれど、それはただの報復なのだろうか。
帳簿がある。
略式確認印がある。
王妃基金がある。
それを無視して、お姉様が怒っているだけと言うのは、もう難しい。
「殿下」
リリアナは、震えながら言った。
「知らなかったことは、正直におっしゃった方がよいと思います。でも……」
「でも?」
「知らなかったから悪くない、と言うのは、違うのかもしれません」
言った瞬間、部屋の空気が凍った。
ジュリアスの目が、信じられないものを見るようにリリアナへ向いた。
「君は、私を責めるのか」
「違います。責めたいのではなくて」
「なら、何だ」
リリアナは手を握りしめた。
「私も、知らなかったと言って逃げていました。お姉様のお仕事も、お父様のことも、王妃基金のことも。でも、知らなかったから何も悪くないわけではないと、今は思います」
ジュリアスは黙った。
その沈黙は、怒りの前触れのようだった。
リリアナは怖かった。
それでも、最後まで言った。
「殿下は王太子です。だから、私よりずっと……知らなかったことが重いのではありませんか」
侍従長が目を伏せた。
言ってしまった。
リリアナは、言ってしまった。
ジュリアスはしばらく彼女を見ていた。
やがて、低く言った。
「君は変わった」
それは、以前セレスティアに向けた言葉と同じだった。
リリアナの胸が、痛んだ。
「お姉様も、殿下にそう言われたのですか」
ジュリアスは答えなかった。
リリアナは、それで分かった。
同じなのだ。
彼にとって、自分の望む形から外れた女は、皆「変わった」ことになる。
セレスティアも。
自分も。
リリアナは、初めてそのことに気づいた。
「今日は下がります」
リリアナは静かに礼をした。
ジュリアスは止めなかった。
部屋を出ると、廊下の空気が冷たかった。
リリアナは壁に手をつき、少しだけ目を閉じた。
怖い。
殿下に嫌われるのは怖い。
でも、今のまま隣に立つことも怖い。
彼女は自室へ戻り、書きかけの手紙を開いた。
そして、続きを書いた。
『お姉様。私は、知らなかったと言えば許されると思っていました。でも、たぶん違いました』
文字は震えていた。
それでも、彼女は破らなかった。
宰相府の新しい部屋で、セレスティアは明日の聞き取り項目を三つだけ書いた。
一、王太子府の予算不足を知っていたか。
二、補填経路を確認したか。
三、セレスティア名義の略式確認印を知っていたか。
それ以上は書かなかった。
書こうと思えば、いくらでも書ける。
だが、明日重要なのは、この三つだ。
ジュリアスが何を知り、何を知らず、何を知ろうとしなかったのか。
そこを見る。
カインが、机の端に水を置いた。
「飲め」
「はい」
素直に受け取る。
もう抵抗しなかった。
「眠れそうか」
「分かりません」
「またか」
「すみません」
「謝るところではない」
カインは、少しだけ窓の外へ視線を向けた。
「明日は、父親のときとは違う揺れ方をする」
「分かっています」
「未練が残っていてもいい」
セレスティアは、息を止めた。
カインは続ける。
「未練があることと、戻ることは違う」
その言葉は、胸の奥の隠していた場所に届いた。
未練。
ある。
ないと言えば嘘になる。
十年も隣にいた。
支えたかった。
認めてほしかった。
愛していたと思う時間も、確かにあった。
それは、消えない。
でも、戻らない。
「はい」
セレスティアは、小さく答えた。
「未練があっても、戻りません」
「それでいい」
カインは、いつものように短く言った。
セレスティアは、明日の聞き取り項目を畳んだ。
王太子府。
ジュリアス。
知らなかった責任。
明日、その言葉を紙の上に置く。
情があるまま。
痛みがあるまま。
それでも、監査官として。




