第20話 帳簿の線は、王太子府へ伸びていました
奥棚から押収された帳簿は、宰相府の保全室へ運び込まれた。
『R』
『王』
『茶』
『冬』
『調』
背表紙に書かれていた符号は、どれも短い。
短いからこそ、不気味だった。
正式な帳簿名ではない。
年度も、支出分類も、保管番号もない。
誰かが、分かる者だけに分かるようにつけた印。
セレスティアは、新しい執務室の机に座り、そのうちの一冊――『王』と記された帳簿の写しを前にしていた。
原本は保全室にある。
今、彼女の前にあるのは、法務官立ち会いのもとで作成された確認用写しだった。
それでも、紙をめくる手は重い。
『王』。
おそらく、王太子府。
そう考えるだけで、胸の奥が硬くなる。
公爵家の帳簿を開くのも痛かった。父の筆跡を見るのも、家令の証言を聞くのも苦しかった。
だが、王太子府となると、また別の痛みがある。
十年。
セレスティアが立っていた場所だ。
婚約者として。
王太子妃候補として。
実務の影として。
自分が整えていた場所の裏に、この帳簿が繋がっているかもしれない。
それは、ひどく嫌な予感だった。
「無理なら、今日は概要だけにする」
向かいに座るカインが言った。
いつもの黒い執務服。机の上には、封印された原本の目録と、法務官オルドが作成した確認手順書がある。
セレスティアは首を横に振った。
「概要だけでは、かえって気になります」
「それは分かる」
「ですから、見ます」
「分かった」
カインはそれ以上止めなかった。
ただ、部屋にはいつもより人が多い。
法務官オルド。
王宮会計副監ローレン。
記録官ミリア。
そして、王太子府の会計形式に詳しい老書記官が一人。
全員が、同じ理由で集められていた。
『王』帳簿が本当に王太子府を指すのか。
もしそうなら、どの支出が、どの名目で、どこへ流れていたのか。
確認するためだ。
オルドが記録を始める。
「これより、エルフォード公爵家会計室奥棚より保全された符号『王』帳簿の確認を開始します。原本は保全室に封印中。本日は写しにより、項目確認、関連支出との照合、王太子府会計記録との突合を行います」
ミリアの筆が走る。
セレスティアは、帳簿の一頁目を開いた。
そこには、年度と月が記されていた。
その下に、項目が並んでいる。
『外交贈答品補填』
『式典衣装調整』
『王太子府茶会費補助』
『随行侍従手当外処理』
『演説資料作成費振替』
『慈善関連広報費』
表向きには、どれもあり得そうな名目だった。
王太子府は、公務のために多くの費用がかかる。外交使節への贈り物、式典の準備、茶会の開催、侍従や書記官の手配。
だが、問題は支出元だった。
帳簿の横欄に、別の符号がある。
『基金経由』
『R調整』
『茶残』
『冬差』
ローレン副監が顔をしかめた。
「これは、表会計には出せない書き方ですね」
セレスティアは、頁の下部に目を落とした。
そこには、小さな字で注記がある。
『セ確認扱い。王太子府へは詳細不要』
喉の奥が冷えた。
セ確認扱い。
まただ。
彼女が確認したことにされている。
王太子府へは詳細不要。
つまり、王太子府側には、細かい出どころを伝えない。
セレスティアは、その一文を見つめた。
「私は、確認していません」
静かに言った。
オルドが記録する。
「当該注記について、セレスティア様は確認事実なしと回答」
カインが問う。
「この時期に、王太子府関連の補填を見た覚えは」
「正規の社交費不足について相談を受けたことはあります。ただ、そのときは王太子府予備費か、王宮儀礼費からの調整だったはずです。王妃基金を経由する理由はありません」
「王妃基金から王太子府へ直接は?」
「原則として、ありません」
セレスティアはきっぱり答えた。
「王妃基金は慈善、地方救済、孤児院、施療院、支援団体に関わる費用です。王太子府の衣装や茶会補填に使うものではありません」
ローレン副監が頷く。
「会計室規程上も同じです。王太子府の公務費とは会計区分が違います」
老書記官が帳簿の項目を見ながら、低く言った。
「ただ……王太子府の茶会費不足は、確かにこの頃ありました。殿下が若手貴族との交流を増やしていた時期です」
カインが視線を向ける。
「正式記録は」
「表には、王太子府社交費の範囲で処理とあります。ですが、実際には予算が足りていなかったはずです。足りなかった分がどこから補われたかは、当時の記録では曖昧です」
曖昧。
その言葉が、セレスティアの胸に引っかかった。
曖昧なところに、誰かが入り込む。
責任が曖昧な場所。
会計区分が曖昧な支出。
善意や慣例の名で、誰も強く問わない領域。
そこに、彼女の署名が使われていた。
頁をめくる。
次の月。
『北方視察準備費 王府補填』
『孤児院広報文作成費 転用』
『若手貴族慰労茶会 茶残より』
セレスティアの手が止まった。
「孤児院広報文作成費、転用……」
オルドが顔を上げる。
「心当たりが?」
「孤児院広報文作成費は、寄付者向け報告書を作るための費用です。孤児院側が自力で印刷費を出せない場合に、基金から補助していました」
「それが転用された?」
「この帳簿では、そう読めます」
ローレン副監が王宮会計室の控えを確認する。
「表記録では、広報文作成費は支出済みになっています」
「実際に報告書は作られたのでしょうか」
セレスティアが尋ねると、老書記官は資料を探した。
「該当年度の報告書控え……ありません。提出遅延とだけ記されています」
セレスティアは、静かに息を吐いた。
見えてきた。
孤児院の報告書作成費として基金から出す。
表向きには支出済みにする。
だが実際には報告書が作られていない。
その金が、王太子府周辺の茶会費へ流れる。
まだ断定はできない。
だが、帳簿の書き方はそう示している。
「この時期、私は孤児院報告書の遅れについて問い合わせた覚えがあります」
セレスティアは言った。
「返答は?」
カインが問う。
「確か、現地の人手不足と聞きました。父からも、北方は冬で事務が遅れがちだから急かすなと」
口にした瞬間、胸が冷えた。
父。
また父だ。
ローレン副監が渋い顔をする。
「実際には、費用が届いていなかった可能性がありますね」
セレスティアは、帳簿の該当行を見つめた。
孤児院の報告書が遅れている。
当時の自分は、現地が大変なのだと思った。
人手が足りないのだと。
雪で郵便が遅れているのだと。
だが、もしそもそも作成費が届いていなかったなら。
自分は、原因を間違えていた。
いや、間違えさせられていた。
拳を握りそうになって、セレスティアは意識して指を開いた。
紙に置く。
胸に抱え込まない。
「記録してください」
声は落ち着いていた。
「孤児院広報文作成費が王太子府関連費へ転用された疑い。該当年度の報告書控えなし。過去問い合わせ時、現地遅延との説明あり。説明元の確認が必要です」
ミリアが一字ずつ記録する。
頁はさらに続く。
読み進めるほど、線は濃くなっていった。
王太子府の茶会費。
外交使節への贈答品。
ジュリアスの側近貴族たちの交流費。
王太子府の広報文作成費。
式典用装飾費。
それらの一部に、王妃基金や慈善関連費からの「調整」が入っている。
金額は一件ずつなら致命的ではない。
だが積み重なれば大きい。
さらに問題なのは、そこにセレスティアの名が繰り返し使われていることだった。
『セ確認扱い』
『セ承認済扱い』
『セ署名控え使用』
『セ経由で問題なし』
まるで、彼女がすべての抜け道の蓋にされているようだった。
セレスティアは、ある頁で完全に手を止めた。
そこには、短い注記があった。
『殿下へは報告不要。結果のみ』
殿下。
この場合は、王太子ジュリアスだろう。
カインが低く問う。
「ジュリアスが知っていた可能性は」
セレスティアは、しばらく黙った。
答えたくないわけではない。
正確に言わなければならない。
「この帳簿だけでは、王太子殿下ご本人が詳細を知っていたとは言えません」
「続けろ」
「ですが、王太子府が本来負担すべき費用を、別経路で補填されていたことは事実に近いと思います。殿下が詳細を知らなかったとしても、支出増と予算不足の解消を疑問に思わなかった責任はあります」
ローレン副監が頷いた。
「会計上はその見方が妥当です。本人が指示したかどうかは別として、王太子府の管理責任は問われます」
老書記官が苦い顔をした。
「殿下は、細かな会計をあまりご覧になりませんでした。セレスティア様が整えておられた時期は、特に」
その言葉が、静かに刺さった。
セレスティアが整えていたから、ジュリアスは見なかった。
そしてセレスティアの名が使われていたから、周囲も通した。
嫌な円だった。
自分の努力が、知らないところで抜け道にも利用されていた。
「王太子府への照会が必要ですね」
セレスティアは言った。
カインが頷く。
「必要だ」
「王太子殿下ご本人への聞き取りも、いずれ」
「避けられない」
その言葉を聞いても、以前ほど胸は揺れなかった。
ジュリアスと向き合うことは怖い。
けれど、父との聞き取りを越えた今、恐怖の形が少し変わっていた。
彼は元婚約者だ。
けれど、同時に王太子府の責任者でもある。
情と職務を分けなければならない。
そうしなければ、自分の名前はまた曖昧な場所へ戻される。
オルドが帳簿の該当箇所をまとめる。
「王太子府関連費への不適切補填疑い。対象支出は現時点で十二件。うち七件にセレスティア様の署名または確認扱いの記載あり。王太子府への照会、ならびに当時の王太子府会計責任者への聞き取りが必要」
カインが言った。
「今日中に照会文を出す」
セレスティアは顔を上げた。
「王太子府へ」
「ああ」
「殿下は反発されるでしょうね」
「するだろうな」
「リリアナも巻き込まれます」
「すでに巻き込まれている」
その通りだった。
王太子府の費用、慈善茶会、妹の婚約。
すべて繋がっている。
リリアナは、まだ王太子の隣にいる。
いや、揺れ始めているのかもしれない。
セレスティアは、昨日のリリアナの顔を思い出した。
謝りたいことがある、と言った妹。
文書にしてくださいと返した自分。
あれは正しかったのか、今でも分からない。
だが、今は立ち止まれない。
カインが彼女を見る。
「休憩だ」
「まだ」
「休憩だ」
二度目は、反論を許さない声だった。
セレスティアは、開きかけた帳簿から手を離す。
「……はい」
素直に立ち上がると、ミリアがほっとした顔をした。
ローレン副監も、老書記官も同じような表情をしている。
セレスティアは少し恥ずかしくなった。
「私、そんなに危なそうでしたか」
カインが答える。
「かなり」
「かなり」
「顔色が紙と同じ色だ」
「それは少し言い過ぎでは」
「鏡を見るか」
「休憩します」
即答すると、カインは満足そうに頷いた。
休憩室で、セレスティアは温かい茶を受け取った。
茶葉は薄めで、胃に負担がないようにされている。女官長の配慮だろう。
カインは向かいに座らず、窓辺に立っていた。
距離を置いてくれているのだと分かった。
今のセレスティアには、少しだけ一人で呼吸する時間が必要だった。
王太子府。
ジュリアス。
彼が詳細を知っていたかは分からない。
だが、知らなかったから無関係とは言えない。
彼が知らないことで、誰かが動かせた金がある。
彼が見ないことで、誰かが隠せた帳簿がある。
彼がセレスティアに任せきりだったことで、彼女の名が便利に使われた。
責任とは、直接命じることだけではない。
見ないことにも、責任は宿る。
セレスティアは、茶杯を両手で包んだ。
「私は……王太子殿下を庇ってきたのかもしれません」
ふと、言葉がこぼれた。
カインは窓の外を見たまま答えた。
「そうだな」
「否定されないのですね」
「事実だからな」
容赦がない。
でも、その方がよかった。
「殿下が細かな会計をご覧にならなくても、私が整えれば済みました。演説の内容を覚えていなくても、原稿に注釈を入れれば済みました。支援先の事情を知らなくても、私が事前に説明すれば済みました」
「ああ」
「私は、それを支えることだと思っていました」
「支えでもあった」
カインは言った。
「だが、隠れ蓑にもなった」
セレスティアは目を伏せた。
隠れ蓑。
胸が痛い。
「私のせいでしょうか」
「違う」
今度は即答だった。
セレスティアは顔を上げる。
カインは彼女を見ていた。
「君が支えたことと、他人がそれを悪用したことは別だ」
「でも、私が」
「また全部自分の責任に戻している」
少し厳しい声だった。
セレスティアは口を閉じる。
カインは続けた。
「君が書いた原稿を、王太子が自分の言葉として読んだ。そこまでは職務の範囲だ。だが、君の署名を切り貼りし、基金の金を別用途へ回したのは、君ではない」
「はい」
「君が見つけられなかったことを悔やむのは分かる。だが、罪にするな」
セレスティアは、ゆっくり頷いた。
「はい」
茶の温かさが、少しずつ手に戻ってくる。
カインは、いつもの淡々とした口調で言った。
「それに、見つけた」
「今、ですか」
「そうだ。遅いか早いかではない。見つけたなら進める」
セレスティアは、少しだけ息をついた。
その言葉は、乱暴なようで救いだった。
過去は戻らない。
だが、今見つけたなら、今から進める。
「宰相閣下」
「何だ」
「王太子府への照会文は、私も確認します」
「ああ」
「情を挟まずに」
「情はあるだろう」
「……あります」
「あるまま確認しろ。情がないふりをすると、かえって歪む」
セレスティアは、茶杯を見つめた。
情があるまま。
それは難しい。
けれど、きっとその方が正しい。
ジュリアスをかつて愛していたことも、支えたいと思っていたことも、傷ついたことも、全部消さなくていい。
そのうえで、帳簿を見る。
それが、今の自分にできることだった。
王太子府へ照会文が届いたのは、その日の夕刻だった。
ジュリアスは、自分の執務室で封を切った。
内容を読み進めるうちに、顔色が変わっていく。
『エルフォード公爵家会計室より保全された帳簿に、王太子府関連費への不適切補填を示す記載が確認された』
『王太子府茶会費、外交贈答品、式典衣装調整、広報費等について、王妃基金または慈善関連費からの転用疑いあり』
『当時の王太子府会計責任者、関連侍従、ならびに王太子殿下ご本人の認識について確認を求める』
最後の一文で、ジュリアスは文書を机に置いた。
「私の認識だと?」
声には怒りが滲んでいた。
侍従長は慎重に答える。
「正式な照会文です。回答期限が明日正午となっております」
「宰相府は、私を疑っているのか」
「疑いというより、確認かと」
「同じことだ」
ジュリアスは椅子から立ち上がった。
部屋の中を歩く。
彼の中で、いくつもの感情がぶつかっていた。
叔父カインへの苛立ち。
セレスティアへの怒り。
エルフォード公爵家への不信。
そして、自分が知らないところで王太子府の費用が補填されていたかもしれないという不安。
知らなかった。
そう言いたい。
実際、細かな金の流れなど知らない。
茶会費が足りないと言われれば、侍従たちが調整した。贈答品が必要なら、担当者が準備した。式典衣装や装飾も、王太子にふさわしく整えられていた。
それを当然だと思っていた。
誰が、どこから、どう補ったのか。
考えたこともなかった。
そこへ、リリアナが入ってきた。
「殿下。お呼びでしょうか」
ジュリアスは振り向く。
「宰相府から照会が来た」
「照会……」
「王太子府の費用が、王妃基金から補填されていた疑いがあるそうだ」
リリアナの顔が青ざめた。
「王妃基金から……」
慈善茶会費を差し止められた記憶が、彼女の中で蘇る。
あのとき、セレスティアは言った。
王妃基金は、過度な装飾や個人衣装に使うものではない。
その意味が、今になって別の重さを持つ。
「そんなこと、殿下はご存じなかったのですよね」
リリアナは、すがるように尋ねた。
ジュリアスはすぐに答えた。
「当然だ」
その声は強かった。
強すぎた。
リリアナは少しだけ目を伏せる。
「では、誰が」
「それを確認しろと言ってきている」
ジュリアスは苛立たしげに文書を指す。
「セレスティアは、私まで追い詰めるつもりだ」
以前なら、リリアナはすぐに頷いただろう。
お姉様は怒っているのです。
殿下は悪くありません。
私がいます。
そう言えた。
けれど今は、喉につかえた。
「お姉様は……帳簿を見ているのですよね」
リリアナは小さく言った。
ジュリアスの目が鋭くなる。
「何が言いたい」
「感情だけで動いているわけでは、ないのかもしれないと」
「君までそう言うのか」
「違います。殿下を疑っているのではありません」
リリアナは慌てた。
「でも、もし本当に王妃基金から出ていたなら……それは確認しなければいけないのでは」
ジュリアスは、しばらく彼女を見つめた。
その目が少しずつ冷えていく。
「リリアナ。君はセレスティアに影響されている」
「私は」
「君は優しい。だから罪悪感につけ込まれているのだ」
リリアナは、胸が痛んだ。
罪悪感。
確かにある。
でも、これはそれだけなのだろうか。
茶会の目的を書けなかった自分。
姉の部屋を衣装部屋にしようとした自分。
父の不正を見ないふりしかけた自分。
その罪悪感は、つけ込まれたものではなく、自分の中から出てきたものではないのか。
リリアナは、答えられなかった。
ジュリアスは侍従長へ命じる。
「当時の会計責任者を呼べ。明日までに、王太子府は関知していないと回答する」
侍従長は頭を下げた。
「承知いたしました。ただ、帳簿の確認は」
「まず回答だ」
「しかし」
「私が知らないものは、王太子府の責任ではない」
その言葉を聞いた瞬間、リリアナの胸がきゅっと縮んだ。
知らないものは責任ではない。
本当に、そうなのだろうか。
自分もそう思っていた。
知らなかった。
考えなかった。
だから悪くない。
でも、今はその言葉がひどく頼りなく聞こえる。
宰相府では、王太子府へ送った照会文の控えが保管された。
セレスティアは、自分の机でその控えを読み返していた。
勤務時間は、ぎりぎり終わる前。
カインが時計を見た。
「あと半刻で終わりだ」
「分かっています」
「半刻で何をするつもりだ」
「明日の確認項目を三つだけ」
「三つで終わるならいい」
「終わらせます」
そう答えたあと、セレスティアは紙に短く書いた。
一、王太子府会計責任者の認識。
二、王太子本人への報告経路。
三、王妃基金からの転用疑い支出と、実際の受益者。
それ以上は書かなかった。
ペンを置く。
カインが少し意外そうな顔をした。
「本当に三つで止めたな」
「止めました」
「成長だ」
「子ども扱いでは」
「褒めている」
セレスティアは少しだけ笑った。
笑ったあと、窓の外を見た。
王太子府の方角に灯りが見える。
あそこへ、照会文が届いている。
ジュリアスは怒っているだろう。
リリアナは揺れているだろう。
王太子府の侍従たちは、慌てて帳簿を探しているかもしれない。
かつてなら、セレスティアもその中にいただろう。
どうすれば殿下に傷がつかないか。
どうすればリリアナが泣かずに済むか。
どうすれば公爵家の面目が保てるか。
そう考えていたはずだ。
今は違う。
どうすれば事実が残るか。
それを考えている。
「宰相閣下」
「何だ」
「明日、王太子府が『知らなかった』と答えたら」
「その知らなかった範囲を確認する」
「知らないことにも責任はありますか」
カインは、少しだけ考えた。
「立場による」
「王太子なら」
「ある」
短い答えだった。
セレスティアは頷いた。
痛い答えだった。
でも、必要な答えだった。
「では、明日も記録します」
「ああ」
「情があっても」
「情があるまま、記録しろ」
セレスティアは、静かに息を吐いた。
「はい」
机の引き出しを開ける。
覚書の上に、今日の一枚を重ねた。
『見ないことにも責任は宿る』
引き出しを閉める。
小さな音がした。
次の扉は、王太子府へ繋がっている。
かつての居場所へ。
そして、かつて愛した人の責任へ。




