表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
19/79

第19話 公爵家会計室に、宰相府の封印が貼られました

エルフォード公爵家への資料提出命令は、翌朝一番に届けられた。


 宰相府の印が押された正式文書だった。


 内容は明確だった。


 ラドクリフ商会との過去十年分の取引記録。

 王妃基金に関わる推薦状、紹介状、承認控え。

 セレスティア・エルフォードの署名が用いられた全書類。

 家令マルクスの作業記録。

 旧会計箱に関連する帳簿類。

 エルフォード公爵家会計室に保管されている慈善関連支出控え。


 提出期限は、本日正午。


 グレアム・エルフォード公爵は、その文書を読んで、しばらく黙っていた。


 当主執務室には、朝の光が差し込んでいる。窓辺の花はいつも通り整えられ、机の上の銀のペーパーナイフも磨かれていた。


 屋敷は美しい。


 だが、その美しさは、いまや薄い布のようだった。


 少し触れれば、下に隠していたものが見えてしまう。


「旦那様」


 執事長が控えめに声をかけた。


「宰相府への返答は、いかがいたしましょう」


 グレアムは、ゆっくり顔を上げた。


「提出する必要はない」


 執事長の顔がこわばる。


「ですが、正式な提出命令です」


「公爵家には公爵家の機密がある。何でもかんでも宰相府へ差し出すつもりはない」


「拒否なさるのですか」


「拒否ではない」


 グレアムは文書を机に置いた。


「選別する」


 その言葉に、部屋の空気が冷えた。


 選別。


 都合のよいものだけを出すという意味だった。


 執事長は、もう長くこの家に仕えている。主人の言葉の裏を読めないほど若くはなかった。


「どの範囲を」


「王妃基金に直接関係するものだけだ。公爵家内部の会計記録、商会との私的取引、派閥関連の支出は出さなくていい」


「しかし、ラドクリフ商会は」


「だからこそだ」


 グレアムの声は低かった。


「あの商会に関わるものをすべて見せれば、余計な線まで引かれる」


「余計な線……」


「王宮の者は、紙を並べれば何でも真実になると思っている。だが、貴族家の運営は帳簿だけで成り立っているわけではない」


 執事長は黙った。


 それは、かつてなら屋敷中が納得した言葉だった。


 貴族家には、表の帳簿には書けない調整がある。

 商会への便宜、派閥の付き合い、茶会の支援、王太子府との関係維持。


 そういうものは、きれいな数字だけでは回らない。


 だが今、その「調整」のためにセレスティアの署名が切り貼りされていた可能性がある。


 王妃基金の金が、別の場所へ流れた疑いがある。


 それでも同じ言葉で押し通せるのか。


 執事長には、もう分からなかった。


 扉が叩かれる。


「入るな」


 グレアムが言うより早く、扉が開いた。


 エヴァンジェリン夫人だった。


 薄い朝の装いのまま、顔色は悪い。だが、目は昨日よりも強かった。


「あなた。提出してください」


 いきなりだった。


 グレアムの眉が吊り上がる。


「何を聞いていた」


「聞こえました。選別する、と」


「女が口を出す話ではない」


「母親として口を出しています」


 エヴァンジェリンは震えていた。


 それでも、下がらない。


「これ以上、セレスティアに隠し事を重ねないでください」


「セレスティアのためではない。家のためだ」


「その家のために、あの子の署名を切り取ったのでしょう」


 グレアムの顔色が変わった。


「誰が言った」


「屋敷中が知っています」


 エヴァンジェリンの声はかすれていた。


「使用人たちも、リリアナも、もう知らないふりはできません。あなたが命じたか、家令が勝手にしたか、まだ私には分かりません。でも、あの子の名前が使われたことは事実なのでしょう」


「黙れ」


「黙っていたから、こうなったのです」


 その言葉は、静かだった。


 静かだからこそ、重かった。


 グレアムは妻を睨んだ。


「お前まで、あの娘の味方をするのか」


「味方という言葉で済む話ではありません」


「では何だ」


「私たちが、あの子に何をしたのかを知る話です」


 グレアムは立ち上がった。


 怒鳴りつける気配に、執事長がわずかに身を強張らせる。


 だが、そこでさらに別の声がした。


「お父様」


 扉の外に、リリアナがいた。


 昨日から、彼女は何度も大人たちの会話の外側に立っていた。けれど今日は違う。自分から部屋へ入ってきた。


 手には、白い封筒を持っている。


 セレスティア宛てに書きかけていた手紙だ。


「資料を出してください」


 リリアナは小さく、しかしはっきりと言った。


 グレアムは信じられないものを見るように娘を見た。


「リリアナ。お前まで何を」


「私、お姉様に謝る手紙を書いています。でも、何を書いても薄く見えてしまうんです。だって、まだお父様が隠しているなら、私が謝っても何も変わらないから」


「お前は何も知らない」


「はい。知りませんでした」


 リリアナは頷いた。


「でも、知らなかったことを理由にしてはいけないと、やっと少し分かりました」


 グレアムは唇を噛んだ。


 エヴァンジェリンが、リリアナの肩に手を置く。


 母と妹。


 かつては何も知らず、セレスティアに譲らせる側にいた二人が、今は父の前に立っている。


 それがグレアムには、裏切りに見えた。


「出ていけ」


 彼は低く言った。


「二人とも出ていけ。これは当主の判断だ」


 エヴァンジェリンは動かなかったが、執事長が苦しげに頭を下げた。


「奥様、リリアナ様……」


 これ以上ここにいれば、屋敷内でさらに激しい衝突になる。


 エヴァンジェリンはリリアナの肩を抱き、部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 グレアムは、荒い息を吐いた。


「正午までに、提出用の箱を作れ」


「かしこまりました」


「ただし、公爵家会計室の奥棚には触れるな」


 執事長の手が止まった。


「奥棚、でございますか」


「私が見る」


「……承知いたしました」


 執事長は深く礼をした。


 そして部屋を出る直前、ほんの一瞬だけ振り返った。


 その目にあったのは、忠誠ではなかった。


 恐れと、諦めだった。


 正午。


 宰相府へ届いた資料箱は、三つだけだった。


 セレスティアは、新しい執務室でそれを見た瞬間、胸の奥に嫌な冷たさを覚えた。


 少なすぎる。


 過去十年分の資料を求めたはずだった。


 ラドクリフ商会との取引だけでも、箱三つでは収まらない。まして、公爵家内部会計や署名控え、推薦状関連まで含めれば、倍以上はあるはずだ。


 法務官オルドが目録を確認する。


「提出物。ラドクリフ商会関連請求書写し、一部。推薦状控え、一部。慈善関連支出一覧、過去三年分。家令マルクス作業記録、該当なしとの回答」


 カインの表情は動かなかった。


 だが、部屋の温度が下がったように感じた。


「該当なし、か」


 ローレン副監が低く言う。


「あり得ません。家令が昨日、署名欄を保管し文書に用いたと証言しています。作業記録がまったくないなら、それ自体が問題です」


 セレスティアは提出された一覧を見た。


 文字は整っている。

 だが、整いすぎている。


 余計な線が消されている。


「これは、選別されています」


 彼女は言った。


 オルドが頷く。


「私もそう見ます」


「過去三年分しかありません。問題の支出は五年以上前にもあります。王妃陛下崩御直後の署名流用疑いも入っていません」


 セレスティアは、提出箱の中身を一枚ずつ確認しながら言った。


「それから、ラドクリフ商会の輸送費関係が薄いです。王宮会計室の控えでは複数年にわたり記録がありますが、こちらには二件しかありません」


「意図的な不提出だな」


 カインの声は短かった。


 セレスティアの手が止まる。


「強制保全に入りますか」


 自分で言って、胸が少し重くなった。


 公爵家会計室。


 父が絶対に他人を入れたがらない場所。


 そこに踏み込む。


 この一線を越えれば、父はもう娘への怒りだけでは済ませないだろう。公爵家当主として、全力で抵抗するかもしれない。


 それでも。


「入る」


 カインが答えた。


 迷いはなかった。


「提出命令に対する不完全提出。監査妨害の可能性あり。法務官、強制保全命令を準備しろ」


「承知しました」


 オルドが立ち上がる。


 セレスティアは顔を上げた。


「私も同行します」


 カインは彼女を見た。


「会計室だ。昨日より重い」


「分かっています」


「公爵は抵抗する」


「分かっています」


「君に直接言葉を向ける可能性が高い」


「それも、分かっています」


 カインは少し黙った。


 セレスティアは続けた。


「ですが、提出された資料が選別されているかどうか、私は判断できます。父が何を隠したいかを、私なら見つけられるかもしれません」


 それは、娘だからではない。


 十年、王宮と公爵家の間で書類を見続けたからだ。


 父の癖。

 家令の整理の仕方。

 公爵家会計室の控えの付け方。

 どこに何が残るか。


 それを知っている。


「同行を許可する」


 カインは言った。


「ただし、前回より護衛を増やす」


「はい」


「私的会話は禁止。父親が何を言っても、その場で議論しない」


「はい」


「顔色が悪くなったら、即時退室」


「はい」


「本気で言っている」


 セレスティアは、少しだけ笑った。


「分かっています」


 笑えたことに、自分でも驚いた。


 怖い。


 でも、以前のようにただ震えるだけではない。


 彼女には机がある。

 役職がある。

 記録官がいる。

 そして、自分で署名した監査開始文書がある。


 カインが短く言った。


「では行くぞ」


 エルフォード公爵邸に二度目の宰相府の馬車が到着したとき、門前の空気は昨日よりも重かった。


 使用人たちは、すでに何かを察していた。


 黒塗りの馬車が二台。

 護衛騎士が四名。

 法務官、記録官、会計監査官。

 そして、セレスティアとカイン。


 これは訪問ではない。


 強制保全だった。


 玄関前で待っていた執事長は、顔面蒼白だった。


「宰相閣下……これは」


 オルドが正式文書を示す。


「提出命令に対する不完全提出、および監査妨害の可能性に基づき、エルフォード公爵家会計室の強制保全を行います」


 執事長は文書を見て、言葉を失った。


 そこへ、当主執務室の方からグレアムが現れた。


 昨日よりも顔色は悪い。


 しかし、威圧は失っていなかった。


「宰相府は、公爵家の会計室へ踏み込むつもりか」


「すでに命令は出ている」


 カインが答える。


「提出物が不完全だった」


「こちらは必要なものを提出した」


「必要かどうかを決めるのは監査側だ」


 グレアムの視線がセレスティアに移る。


「お前の差し金か」


 セレスティアの胸に、鋭い痛みが走る。


 だが、彼女は答えなかった。


 私的会話は禁止。


 カインとの約束だ。


 代わりに、オルドが言う。


「公爵閣下。会計室へ案内を」


「拒否する」


 短い言葉だった。


 廊下にいた使用人たちが息を呑む。


 オルドは表情を変えない。


「拒否される場合、正式に監査妨害として記録し、王宮法務局へ即時報告します」


「私はエルフォード公爵だ」


「はい。その公爵家が、亡き王妃陛下の基金支出と関わる資料提出を拒否しています」


 グレアムの顔が赤くなる。


 カインが一歩前へ出た。


「グレアム」


 その声は、王弟宰相としてのものだった。


「これ以上抵抗すれば、君の家だけでは済まない。王妃基金を軽んじた公爵家として、社交界にも議会にも名が残る」


 グレアムは唇を噛んだ。


 家名。


 それが、彼にとって最大の弱点だった。


 しばらく沈黙した後、彼は低く言った。


「……案内しろ」


 執事長が震える声で答える。


「かしこまりました」


 会計室は、屋敷の西棟にあった。


 厚い扉。

 鉄の錠。

 窓には内側から格子。


 公爵家の金の流れを管理する場所だけあって、他の部屋とは空気が違った。


 執事長が鍵を取り出そうとする。


 そのとき、グレアムが言った。


「その鍵は私が持つ」


 執事長の手が止まる。


 グレアムは懐から鍵束を出した。


 だが、カインが制した。


「開錠前に鍵を確認する」


「疑うのか」


「手順だ」


 グレアムは渋々鍵を差し出した。


 オルドが鍵の本数、形状、札を記録する。


 その中の一本に、札がない鍵があった。


 セレスティアは、それを見て目を細めた。


「その鍵」


 思わず声が出た。


 カインが見る。


「何か分かるか」


「会計室の奥棚の鍵だと思います」


 グレアムの顔がわずかに変わった。


 セレスティアは続ける。


「昔、父上がその鍵を使って奥棚を開けているのを見たことがあります。札は当時もありませんでした」


 オルドが即座に記録する。


 グレアムは苛立った声で言った。


「子どもの頃の記憶だろう」


「はい。ですが、確認はできます」


 カインが鍵を受け取り、護衛に扉を開けさせた。


 会計室の中は、思ったより整っていた。


 整いすぎていた。


 棚には帳簿が年度ごとに並び、机には羽根ペンと計算板。壁際には大きな金庫。奥には、鉄格子付きの棚があった。


 セレスティアは入室した瞬間、違和感を覚えた。


「この部屋、最近整理されています」


 オルドが問う。


「根拠は」


「床の埃です。棚の手前だけ薄い。机の上の帳簿も、古い順ではなく、見せたい順に並べられています」


 ローレン副監が頷いた。


「会計室を普段使う者の並べ方ではありませんね。監査用に整えたように見えます」


 グレアムは黙っていた。


 セレスティアは奥棚を見た。


「まず、奥棚を確認してください」


 グレアムの声が低くなる。


「そこには公爵家の私的帳簿がある。王妃基金とは関係ない」


「関係があるかどうかを確認します」


 セレスティアは、静かに答えた。


 カインがオルドへ合図する。


 札のない鍵が奥棚の錠に差し込まれた。


 合った。


 扉が開く。


 中には、革表紙の帳簿が何冊も並んでいた。


 その背表紙には、通常の年度表記ではなく、短い符号が書かれている。


『R』

『王』

『茶』

『冬』

『調』


 セレスティアは、息を呑んだ。


「符号管理……」


 ローレン副監が帳簿を取り出す。


「通常会計ではありませんね」


 最初に開いたのは『R』の帳簿だった。


 ラドクリフのR。


 中には、ラドクリフ商会との取引記録が、公爵家内部用に記されていた。


 王宮へ提出された表向きの請求額。

 実際の見積額。

 差額。

 差額の配分。


 そこには、信じがたい項目が並んでいた。


『調整分――公爵家交際費へ』

『調整分――王太子府関係茶会費』

『調整分――派閥維持費』

『セレスティア確認扱い』


 最後の一行で、セレスティアの視界が揺れた。


 確認扱い。


 確認済みではない。


 確認扱い。


 つまり、本人が確認していなくても、確認したことにするという意味だ。


 カインが低く言った。


「保全」


 オルドの声も硬い。


「奥棚より、ラドクリフ商会内部取引帳簿と思われる帳簿を発見。表向き請求額、実見積額、差額配分の記載あり。『セレスティア確認扱い』の文言あり」


 グレアムは青ざめた。


 さすがに、もう言い逃れが難しいと分かったのだろう。


 セレスティアは、帳簿を見つめた。


 確認扱い。


 自分が十年かけて積み上げた確認の価値が、ただの印として使われていた。


 胸が痛い。


 悔しい。


 だが、それ以上に、はっきりと怒りがあった。


 次に『王』の帳簿を開く。


 そこには、王太子府関連の支出調整が記されていた。


 ジュリアスの名はない。


 だが、王太子府付き侍従、茶会、衣装、外交贈答品補填などの文字が見える。


 ローレン副監が深く息を吸った。


「これは、王太子府にも照会が必要です」


 カインの目が冷える。


「分かっている」


 グレアムが口を開いた。


「それは、王太子府への忠誠として」


「忠誠ではなく、基金の私物化だ」


 カインが切り捨てた。


 その声には、もう容赦がなかった。


「グレアム。君は何をしたか分かっているのか」


「私は家を守った」


「王妃基金の金を動かし、娘の署名を確認扱いにして、家と派閥と王太子府の体面を守ったわけだ」


 カインの言葉が、部屋に突き刺さる。


 グレアムは歯を食いしばった。


「貴族家とはそういうものだ」


 セレスティアは、静かに父を見た。


 そして言った。


「いいえ」


 グレアムの視線が彼女へ向く。


「少なくとも、王妃陛下はそうではありませんでした」


 その一言で、父の顔が歪んだ。


「王妃陛下は、慈善を体面に使うことを嫌っておられました。だから帳簿を残したのです。だから私に、数字の後ろにいる人を見るよう教えてくださいました」


 セレスティアは、奥棚の帳簿へ視線を落とす。


「父上が守ったのは家ではありません。家の顔です」


 グレアムは何も言わない。


「その顔を守るために、私の名前と、支援を待つ人たちのお金を使ったのです」


 会計室の中に、重い沈黙が落ちた。


 カインが短く命じる。


「奥棚の全帳簿を保全。会計室の封印を行う」


「承知しました」


 オルドと監査官が動き出す。


 棚から帳簿が次々と取り出され、保全袋へ入れられる。目録に番号が振られる。


 グレアムは、それをただ見ていた。


 自分の家の中心部から、秘密の帳簿が持ち出されていく。


 その顔にあるのは怒りだけではなかった。


 喪失だった。


 セレスティアは、その顔を見て胸が痛んだ。


 けれど、止めなかった。


 止めてはいけない。


 やがて、会計室の扉に宰相府の封印紙が貼られた。


 赤い印が押される。


 エルフォード公爵家の会計室は、王宮監査の管理下に入った。


 その瞬間、廊下に控えていた使用人たちが静かにざわめいた。


 リリアナも、少し離れた場所から見ていた。


 彼女は泣いていなかった。


 ただ、真っ青な顔で封印紙を見つめていた。


 エヴァンジェリンは、その横で唇を押さえている。


 グレアムは、最後にセレスティアへ言った。


「満足か」


 その声は低く、疲れていた。


 セレスティアは、ゆっくり首を横に振った。


「いいえ」


 満足など、あるはずがない。


 実家の会計室に封印紙が貼られて、喜べるはずがない。


「ただ、必要でした」


 グレアムは目を閉じた。


 それ以上、何も言わなかった。


 宰相府へ戻った後、セレスティアは自分の机で保全目録の控えを読んだ。


 奥棚帳簿。


『R』

『王』

『茶』

『冬』

『調』


 とくに『王』の帳簿は危険だった。


 王太子府との関係が、具体的に記されている可能性がある。


 これが事実なら、監査は公爵家だけで終わらない。


 ジュリアスの足元にも届く。


 セレスティアは、静かに紙を閉じた。


 カインが向かいから言う。


「今日はここまでだ」


「はい」


 今度は反論しなかった。


 疲れていた。


 体も、心も。


「宰相閣下」


「何だ」


「会計室に封印紙が貼られたとき、少し悲しかったです」


「ああ」


「父が私を見て、満足かと言いました」


「言いそうなことだ」


「満足ではありません」


「分かっている」


 その一言で、セレスティアの胸が少し緩んだ。


 分かっている。


 それだけで、今日は十分だった。


「次は、王太子府ですね」


 セレスティアは言った。


 カインは短く頷く。


「奥棚の『王』の帳簿を確認してからだ」


「はい」


「だが、避けられないだろう」


 避けられない。


 セレスティアは、窓の外を見た。


 王宮の灯りが、夜の中で静かに光っている。


 その中に、王太子府がある。


 かつて、自分が支えていた場所。

 今は、自分の署名と王妃基金の流れが向かう先かもしれない場所。


 公爵家の次は、王太子府。


 物語は、もう家族の中だけには収まらなくなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ