第18話 父は「家のため」と言いました
グレアム・エルフォード公爵が宰相府の聞き取り室に入った瞬間、空気が変わった。
彼はいつものように背筋を伸ばし、濃紺の上着を隙なく着こなしていた。銀の杖は飾りのように見えるが、持つ者の威厳を強めるためのものだ。胸元には公爵家の徽章。指には当主の印章指輪。
まるで、ここが自分の屋敷であるかのような歩き方だった。
だが、ここはエルフォード公爵邸ではない。
宰相府の聞き取り室だった。
机の向こうには、王弟宰相カイン・ヴァレンティア。
その隣に法務官オルド。
記録官ミリア。
王宮会計副監ローレン。
そして、セレスティア。
グレアムの視線が、最後にセレスティアへ向いた。
その目には、怒りと失望が混じっていた。
かつてなら、それだけでセレスティアは背筋を強張らせた。
父を怒らせた。
家に迷惑をかけた。
娘として間違った。
そう考えて、言葉を飲み込んだだろう。
けれど今日は違う。
彼女の前には、紙がある。
切り取られた署名欄の保全記録。
ラドクリフ商会の推薦状原本写し。
家令マルクスの証言記録。
旧会計箱から出た父の筆跡と思われる紙片。
父の視線よりも、紙の方が重い。
そう思えた。
「座れ」
カインが言った。
命令口調ではない。
だが、逆らう余地のない声だった。
グレアムは一瞬眉を動かし、それでも椅子に腰を下ろした。
「私は、公爵として来た」
「ここでは監査対象者として扱う」
カインは即座に返した。
その一言で、グレアムの顔が赤くなる。
「王弟殿下。いくらあなたでも、エルフォード公爵家をこのように扱うとは」
「家格の話をする場ではない」
「では何の場だ」
「君の家が、王妃基金とセレスティア嬢の署名をどう扱ったかを確認する場だ」
グレアムは黙った。
記録官ミリアの筆が動き出す。
その音が、聞き取り室に静かに響いた。
オルドが口を開く。
「これより、グレアム・エルフォード公爵への聞き取りを開始します。対象は、セレスティア・エルフォード様の署名欄保管および使用、ラドクリフ商会関連推薦状、王妃基金支出、ならびに亡き王妃陛下私信未交付の経緯です」
グレアムは、苦々しげに言った。
「まるで罪人扱いだな」
「現時点では事実確認です」
オルドの声は揺れない。
「まず、こちらの文書をご確認ください」
机に一枚の紙が置かれた。
父の筆跡と思われる紙片。
『セレスティアには見せるな。数字だけ整えておけ』
グレアムはそれを見た。
表情は崩さない。
しかし、指がほんのわずかに動いた。
「この筆跡に見覚えはありますか」
オルドが尋ねる。
「古い紙だ。覚えていない」
「筆跡は公爵閣下のものですか」
「似ていると言えば似ている」
「ご自身の筆跡かどうか、断定できませんか」
グレアムはオルドを睨んだ。
「法務官殿。十年近く前のメモを見せられて、即答できる者がどれだけいる」
「では、即答できないと記録します」
ミリアが筆を走らせる。
グレアムの視線が、ちらりとセレスティアへ向いた。
セレスティアは黙っていた。
胸の奥は痛い。
父が正面から否定しないことも。
覚えていないと言いながら、明らかに紙を恐れていることも。
どちらも痛い。
だが、言葉を挟まない。
今は聞く。
紙の上に置く。
オルドは次の資料を示した。
「家令マルクス殿は、セレスティア様の署名欄を切り取った紙片が旧会計箱に保管されていたことを認めました。また、それらの一部をラドクリフ商会等の推薦状に用いたことも認めています」
グレアムの口元がわずかに歪む。
「家令が勝手にしたことだ」
来た。
セレスティアは、そう思った。
カインが言っていた通りだった。
逃げ道を残せば、人は部下に責任を押しつける。
オルドは淡々と問う。
「マルクス殿は、公爵閣下のご判断であったと証言しています」
「家令が私の意を誤解したのだろう」
「署名欄を保管する指示は出しましたか」
「不要文書を整理するよう命じたことはある」
「署名欄だけを切り取るよう命じましたか」
「そこまでは命じていない」
「署名欄を用いて、商会推薦状を整えることを了承しましたか」
グレアムは、少し沈黙した。
その沈黙は長くはなかった。
だが、十分だった。
「公爵家が紹介する商会について、セレスティアの確認があることを示す必要があった」
「本人確認がない場合でも?」
「セレスティアは公爵家の娘だ」
グレアムの声が、少し強くなった。
「家が責任を持つなら問題はない」
ミリアの筆が止まりかけた。
セレスティアは、膝の上の手を握った。
家が責任を持つなら。
その言葉は、あまりにも父らしかった。
娘個人の意思より家。
署名者本人の確認より家。
王妃基金の規程より家の都合。
ずっとそうだった。
「公爵閣下」
オルドが確認する。
「セレスティア様本人の確認がなくても、公爵家が責任を持つなら、同人の署名を使用して問題ないとお考えだった、ということですか」
「言い方が悪い」
「では、正確にお答えください」
グレアムは唇を引き結んだ。
「セレスティアは、当時王太子妃候補だった。王宮実務にも深く関わっていた。公爵家が扱う慈善関連の書類について、彼女の名を添えることは不自然ではなかった」
「本人が内容を確認していない書類でも?」
「家のために必要だった」
その言葉が出た瞬間、セレスティアの胸の奥で何かが静かに沈んだ。
家のため。
やはり、そこへ戻る。
オルドは言った。
「家のためであれば、本人の許可なく署名を使ってよい、という意味ですか」
「私はそうは言っていない」
「では、本人の許可は必要だったとお考えですか」
グレアムは答えなかった。
答えないことが、答えになった。
セレスティアは、ゆっくり息を吸った。
今なら言える。
感情に流されずに、言える。
「お父様」
聞き取り室の空気が止まった。
グレアムがセレスティアを見る。
父としての顔になった。
怒り、威圧し、娘を黙らせようとする顔。
だが、セレスティアは目を逸らさなかった。
「私は、発言してもよろしいでしょうか」
カインが短く答える。
「許可する」
セレスティアは、父に向き直った。
「私の署名は、エルフォード公爵家の備品ではありません」
その言葉は、静かだった。
だが、聞き取り室の壁にまっすぐ届いた。
グレアムの眉が跳ねる。
「何だと」
「私の名前は、家の信用を飾るための印ではありません。私が読み、確認し、責任を持つと決めた文書にだけ置くものです」
「お前は誰のおかげで、その名前を持っていると思っている」
グレアムの声が低くなる。
昔のセレスティアなら、その声だけで黙った。
今は違う。
「父上と母上からいただいた名前です」
セレスティアは答えた。
「ですが、使い道まで父上のものではありません」
グレアムは椅子の肘掛けを握った。
「セレスティア。お前は自分が何をしているのか分かっているのか。実の父を公の場で糾弾しているのだぞ」
「私は、監査対象者に確認しています」
「私はお前の父だ」
「はい」
セレスティアの胸が痛む。
それでも続ける。
「だからこそ、何度も黙ってきました」
グレアムの目が揺れた。
「王妃陛下からの手紙を渡されなかったことも。私の部屋がリリアナの衣装部屋になる予定だったことも。王太子殿下に婚約破棄された後も、私だけが補佐に戻るよう求められたことも」
言葉を一つずつ置いていく。
「けれど、私の署名を切り取り、別文書に用いたことは、黙ってはいけないことです」
グレアムは、冷たく言った。
「家を壊すつもりか」
セレスティアは、その言葉を受け止めた。
家。
壊す。
父にとっては、監査することが家を壊すことなのだ。
だが。
「違います」
セレスティアは言った。
「家の中で壊れていたものを、帳簿が見つけただけです」
ミリアの筆が走る。
グレアムはセレスティアを睨んだ。
「誰にそんな口を利くよう教えられた」
「誰にも」
「宰相か」
「私です」
セレスティアは、はっきりと言った。
「私が考え、私が申し上げています」
グレアムは一瞬、言葉を失った。
彼もまた、ジュリアスと同じだった。
セレスティアが自分で考えて父に逆らうなど、想像していなかったのだろう。
誰かに吹き込まれた。
宰相府に操られている。
怒って意地を張っている。
そう思えば楽だった。
けれど、セレスティアは自分の言葉で話している。
その事実が、父を苛立たせていた。
カインが静かに言った。
「続けるぞ」
空気が切り替わる。
オルドは次の資料を示した。
「亡き王妃陛下からセレスティア様宛ての私信について確認します。公爵閣下は、内容確認後、本人へ渡さなかったことを認めています。改めて理由をお聞かせください」
グレアムは、セレスティアを一度見てから答えた。
「王妃陛下は、セレスティアを王太子妃候補から外そうとしていた」
「はい」
「そんなことを認めれば、エルフォード公爵家の立場は大きく損なわれる。セレスティアも混乱しただろう。だから私が判断した」
「本人の意思確認は」
「不要だ」
即答だった。
セレスティアの胸が、また痛んだ。
不要。
自分の未来について、本人の意思確認は不要。
父はそう言った。
オルドが確認する。
「本人の進路に関わる文書でも、父である公爵閣下の判断が優先されると?」
「当時のセレスティアは未熟だった」
セレスティアは、思わず父を見た。
未熟。
十年近く王宮実務を支え、王妃基金を見て、王太子の原稿を書き、地方救済費を確認していた頃の自分を、父は未熟だと言う。
「未熟だったから、署名だけは使えたのですか」
言葉が、自然に出た。
グレアムの顔が強張る。
カインが少しだけ目を細めた。
オルドは、すぐに記録官を見る。
ミリアが書く。
セレスティアは、父から目を逸らさなかった。
「王妃陛下の手紙を理解するには未熟。自分の進路を決めるには未熟。でも、公爵家の取引に信用を与える署名者としては十分だったのですね」
グレアムは立ち上がりかけた。
「セレスティア!」
その声は、聞き慣れた怒声だった。
だが、今度はカインが先に言った。
「座れ」
短い一言。
グレアムの動きが止まった。
カインの目は、冷えていた。
「ここは君の屋敷ではない」
グレアムは歯を食いしばり、ゆっくり椅子に戻った。
セレスティアは、自分の胸が激しく打っているのを感じていた。
怖い。
やはり怖い。
父が怒鳴ると、体が覚えている。
黙れ。
謝れ。
従え。
そう命じられているような気になる。
けれど、今は一人ではない。
言葉は紙に置かれている。
父の怒声も、記録されている。
セレスティアは、ゆっくり息を整えた。
戻ってこい。
カインの言葉が、胸に残っている。
戻る。
自分の場所へ。
オルドは質問を続けた。
「公爵閣下。セレスティア様の署名欄を用いた推薦状によって、ラドクリフ商会は王妃基金関連支出を受けています。その中には、実際の支援内容と請求内容に差異があるものが複数確認されています。差異について認識はありましたか」
「細かな請求までは知らん」
「ラドクリフ商会を推薦した責任は」
「商会は家令が管理していた」
「公爵家として紹介していた以上、当主責任があるのでは」
グレアムは沈黙した。
「また、旧会計箱から、差し替え前と思われる見積控えが複数発見されています。公爵閣下は旧会計箱の存在を知っていましたか」
「古い箱など、屋敷にはいくらでもある」
「この箱の上部に、公爵閣下の筆跡と思われる『王妃基金関連。不要分は処分予定。セレスティア確認前』という文書が置かれていました」
グレアムは、また黙る。
答えない。
答えないことが増えていく。
そのたびに、記録が積み上がる。
セレスティアは、父の沈黙を見ていた。
昔は、父の沈黙も怖かった。
今は違う。
沈黙は、空白ではない。
記録すべき反応だ。
オルドが問いを変えた。
「公爵閣下。セレスティア様本人に確認させず、数字だけ整える必要があった理由は何ですか」
グレアムは、長く黙った。
聞き取り室の空気が張りつめる。
やがて彼は、低く言った。
「セレスティアは、余計なところに気づく」
セレスティアの指が止まる。
オルドが確認する。
「余計なところ、とは」
「金の流れ、請求の細部、商会の関係……そういうものだ」
「それらは、監査上重要な事項です」
「だから面倒なのだ」
グレアムは吐き捨てるように言った。
「家の都合というものがある。貴族家には、表に出せぬ調整もある。商会を育て、派閥を保ち、王太子府との関係を維持するには、多少の融通が必要だ。セレスティアは、それを分かろうとしなかった」
セレスティアは、父を見つめた。
ようやく本音が出た。
家の都合。
派閥。
王太子府との関係。
多少の融通。
そのために、王妃基金が使われた。
そのために、彼女の署名が使われた。
「多少の融通で、孤児院の修繕費が削られたのですか」
セレスティアは尋ねた。
グレアムは眉をひそめる。
「何?」
「聖ミラーナ救護院の修繕費。差し替え前の控えでは、屋根材と煙突補修が中心でした。差し替え後、礼拝堂装飾費が追加され、金貨百二十枚相当が増えています」
彼女は、机の上の資料を一枚押し出した。
「その金額があれば、冬の燃料費をどれだけ補えたか、ご存じですか」
グレアムは資料を見ようとしなかった。
「それは商会側の」
「北方三州の輸送費も同じです。冬季閉鎖される峠道を経路にして、水増し請求されています。慈善茶会の蜂蜜は、王宮納品として請求されながら、一部が王太子派侯爵家へ流れています」
セレスティアの声は静かだった。
けれど、止まらなかった。
「父上が『多少の融通』と呼ぶものの先に、支援を待っていた人たちがいます」
グレアムは、初めて少し顔を歪めた。
「お前は理想論を言っている」
「いいえ」
セレスティアは首を横に振った。
「帳簿の話をしています」
その一言で、グレアムは黙った。
理想論ではない。
感情論でもない。
帳簿。
数字。
支出。
差額。
流れ。
父が逃げたがっているものを、セレスティアは紙の上へ戻した。
カインが静かに言った。
「十分だ」
オルドが頷く。
「本日の聞き取りにより、以下を確認しました。公爵閣下は、セレスティア様の署名を公爵家の信用として用いる認識を持っていた。本人確認なしの使用について、明確な否定はなし。亡き王妃陛下私信を本人へ渡さなかった理由は、公爵家の立場と王太子妃候補継続のため。さらに、セレスティア様が金の流れや商会関係に気づくことを『面倒』と表現」
ミリアがまとめを書き上げる。
グレアムは顔を赤くした。
「そのまとめは偏っている」
カインは冷たく答えた。
「異議があるなら文書で出せ」
「私は公爵だぞ」
「だからこそ、文書で出せ」
聞き取り室が静まり返った。
グレアムは、セレスティアを見た。
その目には怒りがあった。
だが、それだけではない。
初めて、わずかな恐れがあった。
娘が自分の前で黙らない。
それが、父にとっては何より想定外だったのだろう。
「セレスティア」
父が低く呼んだ。
「お前は、本当に家へ戻れなくなるぞ」
その言葉は、最後の脅しだった。
あるいは、父なりの警告だったのかもしれない。
セレスティアは、胸の痛みを感じた。
戻れなくなる。
確かにそうだ。
もう、あの家へ娘として戻る日は来ないかもしれない。
それは悲しい。
悲しくないはずがない。
けれど。
「父上」
セレスティアは静かに言った。
「私はもう、あの家に戻るために自分の名前を差し出すことはしません」
グレアムは何も言わなかった。
その沈黙を、ミリアが記録した。
聞き取りが終わると、グレアムは一礼もそこそこに部屋を出ていった。
扉が閉まった瞬間、セレスティアの体から力が抜けた。
椅子に座ったまま、両手を握る。
震えていた。
我慢していた震えが、今になって出てきた。
カインが水を差し出す。
「戻ってきたか」
セレスティアは、杯を受け取りながら頷いた。
「……はい」
「よく戻った」
その言葉で、涙が出そうになった。
けれど、泣きはしなかった。
泣かないように我慢したのではない。
今は、泣くより先に息をしたかった。
水を飲む。
冷たさが喉を通る。
ようやく、胸の奥の熱が少し引いた。
「私、言い過ぎたでしょうか」
セレスティアは尋ねた。
カインは即答した。
「足りないくらいだ」
オルドが少しだけ苦笑した。
ミリアは目元を赤くしている。
ローレン副監は腕を組み、低く言った。
「帳簿の話としては、非常に的確でした」
その言い方があまりにも会計官らしくて、セレスティアは少し笑ってしまった。
笑ったら、涙が一粒だけ落ちた。
今度は、誰も見ないふりをしなかった。
カインがハンカチを差し出す。
セレスティアは受け取った。
「ありがとうございます」
「礼はいらない」
「それでも、ありがとうございます」
彼は何も言わなかった。
ただ、そばにいた。
それだけで、セレスティアは崩れずに済んだ。
その日の午後、エルフォード公爵邸では重い沈黙が広がっていた。
グレアムは帰宅するなり、当主執務室へ閉じこもった。
誰も近づけない。
使用人たちは足音を潜め、母エヴァンジェリンは廊下に立ったまま扉を見つめていた。
リリアナは、自室でセレスティア宛ての白紙を前に座っていた。
文書にしてください。
姉はそう言った。
謝罪が本当なら、残る形にしてほしい、と。
リリアナは、何度もペンを取ろうとして、置いた。
何から謝ればいいのか分からない。
お姉様の婚約者を奪ってごめんなさい。
お姉様の仕事を簡単だと思ってごめんなさい。
お姉様の部屋を衣装部屋にしようとしてごめんなさい。
お姉様が苦しんでいたのに、何も知らなくてごめんなさい。
どれも本当だ。
でも、どれも軽く見える。
言葉にすると、許してほしいという自分の都合が滲んでしまいそうで怖かった。
そのとき、王太子府から使者が来た。
ジュリアスからの呼び出しだった。
リリアナは封書を見つめた。
以前なら、すぐに向かった。
殿下が呼んでいる。
自分は選ばれた。
殿下のそばにいなければ。
けれど今は、白紙の方が重かった。
リリアナは使者に言った。
「今日は、体調が優れないとお伝えください」
使者は驚いた顔をした。
リリアナ自身も驚いていた。
王太子の呼び出しを断ったのは、初めてだった。
机の上には、まだ白紙がある。
彼女は震える手で、最初の一行を書いた。
『お姉様へ。何から謝ればいいのか、まだ分かりません』
そこまで書いて、涙が落ちた。
でも、紙は破らなかった。
残る形にする。
姉がそう言ったから。
宰相府では、聞き取り記録が正式にまとめられた。
オルドが最終確認を行い、カインが承認印を押す。
セレスティアは、自分の机で控えを読んでいた。
父の言葉が、紙の上に並んでいる。
『家のために必要だった』
『本人の意思確認は不要』
『セレスティアは余計なところに気づく』
『多少の融通が必要』
『お前は家へ戻れなくなる』
胸は痛む。
だが、もうその痛みだけではない。
紙の上に置かれた父の言葉は、彼女を縛る命令ではなく、監査の材料になっていた。
「次はどうなりますか」
セレスティアが尋ねると、カインは答えた。
「公爵家に対し、正式な資料提出命令を出す。ラドクリフ商会との全取引、署名欄保管に関わる文書、家令マルクスの作業記録。拒否すれば強制保全に切り替える」
「父は拒否するでしょうか」
「する可能性は高い」
「その場合は」
「公爵家の会計室に入る」
セレスティアは息を呑んだ。
公爵家の会計室。
父が最も他人を入れたがらない場所だ。
そこに踏み込めば、もはや家族内の問題には戻れない。
「覚悟は」
カインが問う。
セレスティアは、少しだけ考えた。
怖い。
痛い。
それでも、もう答えは変わらない。
「あります」
カインは頷いた。
「では進める」
セレスティアは、自分の署名欄へ目を落とした。
今日、また一つ分かった。
父は、彼女の名前を家のために使った。
ならば、彼女は自分の名前で、その家を調べる。
それだけだ。




