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妹に婚約者も屋敷も奪われましたが、亡き王妃の帳簿には私の名前しかありませんでした 〜追放された公爵令嬢が王宮の裏金を暴いたら、冷徹宰相閣下に「国ごと君を守る」と言われています〜  作者: 終焉を綴る堕天筆聖セラフィム・夜叉王院常闇寛龍


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第17話 家令は「旦那様のご判断です」と言いました

 家令マルクスは、エルフォード公爵家に三十年仕えていた。


 セレスティアがまだ幼い頃から、彼は屋敷にいた。


 いつも黒い上着を乱さず、銀縁の眼鏡をかけ、使用人たちに短い指示を出す。感情を表に出すことは少なく、父グレアムの言葉を誰よりも正確に屋敷へ伝える男だった。


 セレスティアにとって、彼は優しい人ではなかった。


 だが、冷酷な人という印象もなかった。


 ただ、屋敷の規則そのもののような男だった。


 夕食の時間。

 来客の順番。

 馬車の手配。

 王宮から届いた文書の取り次ぎ。

 父からの呼び出し。


 そのすべてを、マルクスは淡々とこなした。


 幼いセレスティアが熱を出しても、彼は父へ「お嬢様は本日の礼法稽古を欠席されます」と報告するだけだった。リリアナが泣けば、医師を呼び、侍女を走らせ、母へ連絡した。セレスティアが泣かない子だったから、マルクスも彼女を「手のかからない令嬢」として扱った。


 そういう男だった。


 そのマルクスが、今、宰相府の聞き取り室に座っている。


 背筋は伸びている。

 服装も乱れていない。

 眼鏡もきちんと拭かれている。


 けれど、指先だけがわずかに震えていた。


 セレスティアは、それに気づいた。


 昔なら、気づいても気づかないふりをしただろう。


 今は記録する。


 自分の中で。


 聞き取り室には、カイン、法務官オルド、記録官ミリア、王宮会計副監ローレン、そしてセレスティアがいた。


 マルクスの前には、ラドクリフ商会から押収した推薦状原本の写し、切り取られた署名欄の保全記録、旧会計箱から出た父の筆跡と思われる紙片が置かれている。


 セレスティアは、今日も机の中央ではなく、少し横の席に座っていた。


 聞き取りの主導は法務官オルドが行う。


 彼女は当事者だ。

 同時に監査官代理でもある。


 感情が揺れる可能性がある場では、役割を分ける。

 カインがそう決めた。


 以前なら、自分が前に出なければと思っただろう。


 だが、今は分かる。


 役割を分けることは、逃げではない。


 正確に進めるための手順だ。


「これより、エルフォード公爵家家令マルクス殿への聞き取りを開始します」


 オルドが淡々と告げた。


 ミリアの筆が動き始める。


「対象は、王妃基金関連推薦状の作成、保管、提出経緯。ならびに、セレスティア・エルフォード様の署名欄が切り取られた紙片の管理経緯です」


 マルクスは、深く頭を下げた。


「承知いたしました」


 声は落ち着いている。


 だが、唇は乾いていた。


 オルドは最初の書類を示す。


「こちらは、ラドクリフ商会より保全した推薦状原本の写しです。セレスティア様の署名欄が別紙から切り貼りされた疑いがあります。この文書に見覚えはありますか」


 マルクスは書類を見た。


 目が一瞬だけ動いた。


「古い文書でございますので、即答はいたしかねます」


「見覚えがない、という回答ではなく、即答できないということでよろしいですか」


「……はい」


 ミリアの筆が走る。


 オルドは次の資料を出した。


「では、こちらの旧会計箱より発見された紙片について確認します」


 紙には、父の字でこう書かれている。


『セレスティアには見せるな。数字だけ整えておけ』


 マルクスの顔色が、わずかに変わった。


「この文書に見覚えは」


「ございません」


 即答だった。


 今度は早すぎた。


 オルドは、少しも表情を変えずに問う。


「先ほどは古い文書のため即答できないとおっしゃいました。こちらは即答できるのですか」


 マルクスの喉が動く。


「旦那様の筆跡に似ておりますが、私が扱ったものではございません」


「旦那様とは、グレアム・エルフォード公爵ですね」


「はい」


「似ている、と判断した理由は」


「長年お仕えしておりますので」


「つまり、筆跡には見覚えがある」


「……はい」


 セレスティアは、静かにそのやり取りを聞いていた。


 マルクスは慎重だ。


 言葉を選んでいる。


 父を守ろうとしているのか。

 自分を守ろうとしているのか。


 おそらく、両方だ。


 オルドは、今度は切り取られた署名欄の束を示した。


「こちらは、エルフォード公爵家奥倉庫の旧会計箱より発見されました。セレスティア様の署名欄のみが切り取られた紙片です。保管場所について、心当たりはありますか」


 マルクスは、しばらく黙った。


 その沈黙は、長かった。


 聞き取り室の空気が重くなる。


 カインは何も言わない。


 セレスティアも、口を開かなかった。


 やがて、マルクスは低く答えた。


「旧会計箱の存在は、存じておりました」


 オルドが筆記を確認する。


「旧会計箱の存在は知っていた、と」


「はい」


「中身も?」


「一部は」


「署名欄のみ切り取られた紙片が入っていることは?」


 マルクスは目を伏せた。


「……存じておりました」


 その瞬間、セレスティアの胸が鈍く痛んだ。


 やはり。


 そう思っていた。


 それでも、本人の口から聞くと違う。


 マルクスは知っていた。


 自分の署名欄が切り取られ、箱にしまわれていることを。


 オルドの声が少し低くなる。


「誰の指示で保管していましたか」


 マルクスは答えない。


「マルクス殿」


「……屋敷の文書管理として」


「誰の指示ですか」


 沈黙。


 オルドは急がない。


 それが逆に、マルクスを追い詰めていく。


 マルクスの額に汗が浮かんだ。


「公爵家のためでございました」


「質問に答えてください。誰の指示ですか」


 マルクスは、唇を噛んだ。


「旦那様の……ご判断です」


 ミリアの筆が、はっきりと音を立てた。


 セレスティアは、膝の上で手を握った。


 父。


 また父の名が出た。


 けれど、今度はもっと近い。


 家令の口から、旦那様の判断だと出た。


 オルドは続ける。


「グレアム公爵が、セレスティア様の署名欄を切り取って保管するよう命じた、という意味ですか」


「そこまでは申しておりません」


「では、具体的に説明してください」


 マルクスは苦しげに息を吐いた。


「セレスティア様は、王宮関連の文書に多く署名されておりました。その中には、屋敷へ戻された控えや、不要になった写しもございました。旦那様は、それらを文書管理上まとめておくようにと」


「署名欄だけを切り取って?」


「……後に確認が必要になる場合がある、と」


「何の確認ですか」


「商会との取引で、セレスティア様が関与されたことを示すためです」


 部屋の空気が、さらに冷えた。


 ローレン副監が低く言う。


「関与していない文書にも使われていた疑いがあります」


 マルクスは黙った。


 オルドが問う。


「あなたは、署名欄を別文書に貼り付けたことがありますか」


「私は……」


 マルクスは一瞬、セレスティアを見た。


 その目に、わずかな罪悪感があった。


 昔から感情の見えない男だと思っていた。


 けれど、今は見える。


 彼は知っている。


 自分が何をしたのか。


「答えてください」


 オルドが言う。


 マルクスは、かすれた声で答えた。


「ございます」


 セレスティアは、息を止めた。


 来ると分かっていた言葉だった。


 それでも、胸に刺さった。


 オルドは表情を崩さない。


「どの文書に」


「ラドクリフ商会の推薦状、輸送契約の補助確認書、慈善茶会物品調達の推薦控え……ほかにも数通」


「誰の指示ですか」


「旦那様のご判断です」


「グレアム公爵が直接、貼り付けを命じたのですか」


 マルクスはすぐには答えない。


「旦那様は、細かな作業まではご存じありません」


「では、署名欄を用いて文書を整えるよう包括的に命じた?」


「……はい」


「その際、セレスティア様本人の許可は?」


 マルクスは、ゆっくり首を横に振った。


「ございません」


 ミリアの筆が震えそうになり、すぐに持ち直す。


 セレスティアは、机の木目を見つめた。


 本人の許可は、ない。


 それだけだ。


 それだけの事実なのに、重かった。


 署名は、自分の意思を示すものだ。


 それを、許可なく切り取り、貼り付けた。


 マルクスは、淡々とした家令の顔を保とうとしていた。


 だが、もう崩れ始めている。


「マルクス殿」


 オルドは次の質問に移る。


「ラドクリフ商会主は、あなたから『問題ない』と聞いたと証言しています。これは事実ですか」


「……はい」


「何が問題ないと?」


「セレスティア様の署名があるため、王妃基金関連の推薦として通る、と」


「実際にはセレスティア様本人は確認していなかった」


「はい」


「それを知っていた」


「……はい」


 短い言葉が、次々に積み上がる。


 それは小さな石のようで、やがて逃げ道を塞ぐ壁になっていく。


 カインが初めて口を開いた。


「マルクス」


 低い声だった。


 マルクスの肩がわずかに跳ねる。


「君は、自分が何を認めているか分かっているな」


「……はい」


「セレスティア嬢の署名を無断で別文書に用いた。商会には本人確認済みと伝えた。ラドクリフ商会はその文書を使い、王妃基金から支出を受けた。これが今の証言だ」


 マルクスは青ざめた。


「私は、旦那様のご意向に従っただけでございます」


「命じられたから罪が消えるわけではない」


 カインの言葉は冷たかった。


 マルクスは唇を震わせた。


 そこで、セレスティアは初めて口を開いた。


「マルクス」


 その声に、家令はゆっくり顔を上げた。


 彼女を見た瞬間、マルクスの表情が崩れかけた。


 昔の呼び方だったからかもしれない。


 セレスティア様、と彼はいつも呼んでいた。

 けれど彼女が彼を呼ぶときは、幼い頃からただ「マルクス」だった。


「あなたは、私がその署名の使われ方を知ったら、どう思うと考えましたか」


 責める声ではなかった。


 ただ、聞いた。


 マルクスは、何度か口を開こうとして、失敗した。


 やがて、小さく答えた。


「お怒りになると」


「怒ると分かっていたのですね」


「……はい」


「では、私が許可しないことも分かっていた」


 沈黙。


 長い沈黙の後、マルクスは答えた。


「はい」


 セレスティアは、目を閉じた。


 胸が痛む。


 怒りもある。


 けれど、それ以上に、長い年月の中で自分がどれほど軽く扱われていたのかが、改めて分かった。


 彼らは知っていた。


 セレスティアが怒ることを。

 許可しないことを。

 だから知らせなかった。


 知らないから使ったのではない。


 知らせれば使えないから、知らせなかったのだ。


 セレスティアは、目を開けた。


「分かりました」


 それだけ言った。


 その短い言葉に、マルクスはなぜか深く俯いた。


 聞き取りは昼前まで続いた。


 マルクスの証言によって、いくつかの流れが明確になった。


 まず、セレスティアの署名欄は、公爵家内に戻った控えや不要文書から切り取られ、旧会計箱に保管されていた。


 次に、それらの一部はラドクリフ商会や関連業者の推薦状、補助確認書、支出根拠資料に貼り付けられた。


 さらに、マルクスはラドクリフ商会へ「セレスティア様確認済み」と伝えていた。


 そして、その一連の行為について、グレアム公爵は少なくとも「署名控えを使って文書を整える」ことを了承していた。


 細かな貼り付け作業まで直接指示したかは、まだ断定できない。


 だが、知らなかったとは言いにくい。


 聞き取りの最後に、オルドが尋ねた。


「マルクス殿。グレアム公爵は、セレスティア様本人にこの件を伝える意思を示しましたか」


 マルクスは首を横に振った。


「ございません」


「理由は」


 マルクスは苦い顔をした。


「セレスティア様は、細かいことを気にされるので」


 その瞬間、セレスティアの胸に、怒りが灯った。


 細かいこと。


 署名を切り貼りされることが。

 自分の名前で商会が推薦されることが。

 王妃基金から支出が動くことが。


 細かいこと。


 セレスティアは、静かに言った。


「マルクス」


「はい」


「細かいことを気にしたから、王妃基金は守られていたのです」


 マルクスは返事をしなかった。


「細かいことを気にしなかったから、今こうなっています」


 部屋の空気が張りつめた。


 セレスティアの声は荒くない。


 だが、そこには確かな怒りがあった。


「記録してください」


 オルドが頷く。


 セレスティアは続けた。


「エルフォード公爵家内において、私の監査上の確認行為は『細かいこと』として扱われ、本人に無断で署名欄が使用された。この認識が、文書管理上の不正を招いた可能性があります」


 ミリアが一字ずつ記録する。


 マルクスは、俯いたままだった。


 聞き取りが終わると、彼は立ち上がり、深く頭を下げた。


「セレスティア様」


 その声は、家令としての整った声ではなかった。


 年老いた男の、疲れた声だった。


「申し訳ございませんでした」


 部屋が静かになる。


 謝罪。


 セレスティアは、久しぶりに自分へ向けられた謝罪の言葉を聞いた。


 だが、思っていたほど胸は軽くならなかった。


 謝罪は、必要だ。


 けれど、それだけでは戻らないものが多すぎる。


「謝罪は記録されます」


 セレスティアは言った。


 マルクスが顔を上げる。


「はい」


「ですが、謝罪とは別に、あなたの証言内容は精査されます」


「承知しております」


「それで結構です」


 冷たいだろうか。


 そう思った。


 けれど、これが今の彼女にできる精一杯だった。


 許すとも、許さないとも言えない。


 ただ、記録する。


 今はそれだけでいい。


 マルクスが退室したあと、聞き取り室には重い沈黙が残った。


 ミリアは記録をまとめ、オルドは証言の要点を確認している。


 ローレン副監は、署名欄紙片の束を見ながら低く言った。


「これで、公爵家内部での不正使用はほぼ確定ですね」


 カインが頷く。


「次はグレアム公爵だ」


 その名前が出た瞬間、セレスティアの指がわずかに動いた。


 カインは見逃さなかった。


「大丈夫か」


「……大丈夫ではないと思います」


 正直に答えた。


「ですが、必要です」


「直接対決になる」


「はい」


「父親としてではなく、監査対象者として聞けるか」


 セレスティアはすぐには答えなかった。


 父の顔が浮かぶ。


 怒り。

 威圧。

 失望。

 お前は家に逆らうのか、という声。


 それを聞いても、監査官として座っていられるだろうか。


 怖い。


 でも、逃げたくはない。


「聞けるかどうかは、正直分かりません」


 セレスティアは言った。


「けれど、聞こうとします」


 カインは、少しだけ頷いた。


「それでいい」


「完璧にできるとは言えません」


「完璧でなくていい。崩れたら戻ってこい」


 いつもの言葉。


 今は、それが支えだった。


 オルドが書類をまとめる。


「グレアム公爵への正式聞き取り要請を出します。日程は」


「明日」


 カインが即答した。


 セレスティアは顔を上げる。


「明日ですか」


「今日の証言を受けて、時間を空ける理由はない。むしろ空ければ、口裏合わせや文書処分の危険が増す」


「……分かりました」


 明日。


 父と向き合う。


 セレスティアは、胸の奥が重くなるのを感じた。


 だが、その重さの下に、小さな硬い芯もあった。


 もう、逃げられない。


 そして、逃げるつもりもない。


 その日の夕方、グレアム・エルフォード公爵のもとへ、宰相府からの正式聞き取り要請が届いた。


 彼は当主執務室で封を開けた。


 内容を読み終える前に、手が震えた。


『家令マルクスの証言により、セレスティア・エルフォード署名欄の保管および推薦状等への使用について、エルフォード公爵の了承があった旨が確認された』


『ついては、グレアム・エルフォード公爵本人への聞き取りを実施する』


『日時、明日午前。場所、宰相府聞き取り室』


 宰相府へ来い。


 つまり、向こうの場で話せということだ。


 自分の屋敷ではない。

 自分の机の前でもない。

 自分の使用人たちに囲まれた場所でもない。


 宰相府の記録の前で。


 セレスティアの前で。


 グレアムは、文書を机に叩きつけた。


「マルクスめ……」


 部屋の隅にいたエヴァンジェリンが顔を上げる。


「家令は、何と?」


「余計なことを喋った」


「本当のことを?」


 グレアムの目が鋭くなる。


「お前まで」


「本当のことを話したのですか」


 エヴァンジェリンは怯えながらも、問いを繰り返した。


 グレアムは答えなかった。


 その沈黙で、彼女には十分だった。


 扉の外に、リリアナが立っていた。


 また聞いていたのだろう。


 今度は隠れもしなかった。


「お父様」


 リリアナの声は小さかった。


「お姉様の署名を、本当に使ったのですか」


 グレアムは怒鳴ろうとした。


 だが、リリアナの顔を見て言葉が止まった。


 泣きそうな顔ではない。


 信じたいのに、もう信じきれなくなった顔だった。


「リリアナ。これはお前が考えることではない」


「いいえ」


 リリアナは首を横に振った。


「私、考えなかったから、こんなことになったのだと思います」


 グレアムは眉をひそめた。


「何を言っている」


「お姉様が何をしていたのか、考えなかった。お父様が何をしているのかも、考えなかった。殿下が何を知らないのかも、考えなかった。ただ、皆が私を守ってくれるから、それでいいと思っていました」


 エヴァンジェリンが、口元を押さえた。


 リリアナは震えながら続ける。


「でも、お姉様の署名が切り取られていたなんて……そんなの、守るとか家のためとかではないでしょう?」


「黙れ」


 グレアムの声は低かった。


 リリアナはびくりとした。


 それでも、最後に一つだけ言った。


「明日、お姉様に嘘をつかないでください」


 グレアムは、目を見開いた。


 リリアナは泣きながら部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 執務室には、夫婦だけが残った。


 エヴァンジェリンは、静かに夫を見ていた。


「あなた。私からもお願いします」


「お前もか」


「嘘をつかないでください」


 グレアムは椅子に座り込んだ。


 机の上には、宰相府の聞き取り要請書。


 その横には、エルフォード公爵家の印章。


 彼が長年守ってきた家の権威が、今はひどく重く見えた。


 宰相府の新しい部屋で、セレスティアは明日の聞き取り項目を確認していた。


 勤務時間は終わっている。


 だから本来なら、明日に回すべきだった。


 カインは扉のところで腕を組み、彼女を見ている。


「何度見ても項目は増えない」


「増えないように確認しています」


「それは詭弁だな」


「……はい」


 セレスティアは素直に紙を置いた。


 カインは少しだけため息をつく。


「眠れるか」


「分かりません」


「眠れなくても横になれ」


「はい」


「明日、父親に何を言われても、その場で結論を出す必要はない」


 セレスティアは顔を上げる。


「結論」


「許すか、許さないか。娘としてどう思うか。そんなことは明日決めなくていい」


 カインの声は静かだった。


「明日決めるのは、証言内容の確認だけだ」


 セレスティアは、ゆっくり頷いた。


「はい」


「父親の言葉を、全部胸で受けるな。紙に置け」


「紙に」


「そうだ。言葉を紙に置けば、少し距離ができる」


 セレスティアは、机の上の白紙を見た。


 父の言葉。


 明日、それを紙に置く。


 胸に刺さる前に、記録にする。


 できるだろうか。


 怖い。


 でも、やる。


「宰相閣下」


「何だ」


「明日、私が黙ってしまったら」


「オルドが進める」


「私が泣いたら」


「休憩を入れる」


「私が怒ったら」


「記録する」


 即答だった。


 セレスティアは、思わず少し笑ってしまった。


「怒りも記録されるのですね」


「必要ならな」


「では、戻ってこられますね」


「ああ」


 カインは短く言った。


「何度でも戻ってこい」


 その言葉で、セレスティアはようやく紙を閉じた。


 明日、父と向き合う。


 娘としてではなく。


 いや、娘であることは消せない。


 それでも、監査官として座る。


 父の言葉を、紙の上に置くために。

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