第16話 切り取られた署名欄が、商会主の嘘を暴きました
切り取られた署名欄は、全部で二十七枚あった。
宰相府の小会議室の机に、それらが一枚ずつ並べられている。
小さな紙片だった。
大きいものでも指二本分ほど。
小さいものは、セレスティアの名前と日付だけがぎりぎり残る程度に切り抜かれている。
そのすべてに、彼女の署名があった。
セレスティア・エルフォード。
見慣れた字。
自分で何度も書いてきた名。
けれど、こうして切り取られて並べられると、それはもう自分の名前ではなく、誰かに剥ぎ取られた皮膚のように見えた。
セレスティアは、机の前に座ったまま、しばらく何も言わなかった。
隣にはカイン。
向かいには法務官オルドと王宮会計副監ローレン。
記録官ミリアは、震えないよう慎重に筆を持っていた。
誰も急かさない。
それがかえって、紙片の異様さを際立たせていた。
「……始めます」
セレスティアは、ようやく声を出した。
カインが短く頷く。
「ああ」
まず、一枚目。
紙質は王宮会計室の公用紙。
署名は、セレスティアの筆跡。
日付は六年前の初夏。
彼女は記憶を探る。
「この日付には、孤児院支援先一覧の確認書へ署名した覚えがあります」
ローレンが資料をめくる。
「会計室控えに該当あり。聖ミラーナ救護院、北方施療院、西部養蜂組合への支援継続確認です」
「その書類は、王宮会計室で保管されていますか」
「はい。こちらが写しです」
差し出された写しには、署名欄が残っている。
つまり、切り取られた紙片は、その原本から取られたものではない。
セレスティアは眉を寄せた。
「では、私は同じ日に、別の控えにも署名していた可能性があります」
オルドが記録する。
「同日複数署名の可能性。要原本照合」
二枚目。
紙質が違う。
これは、エルフォード公爵家で使っていた私用便箋の下部に似ていた。
日付は五年前の冬。
「この紙は、公爵家の便箋です」
セレスティアは言った。
「筆跡は」
「私のものです。ただ、この形式で王妃基金関連文書に署名することはありません。公爵家内の受領確認か、父へ提出した控えの可能性があります」
ミリアが紙片を見つめながら、ぽつりと漏らした。
「署名だけ切り取るために保管していたのでしょうか」
その言葉に、部屋の空気がさらに重くなった。
誰もすぐには答えなかった。
カインが静かに言う。
「その可能性を見るために照合する」
三枚目。
四枚目。
五枚目。
作業は続いた。
セレスティアは一枚ずつ紙質を見て、日付を読み、記憶を辿る。
王宮会計室の公用紙。
公爵家の便箋。
王太子府の仮原稿用紙。
慈善茶会の出席確認用紙。
署名の出どころはばらばらだった。
共通しているのは、署名欄だけが切り取られていること。
彼女の名前だけが、文脈から切り離されていることだった。
十五枚目で、セレスティアの手が止まった。
「これは……」
カインが顔を向ける。
「どうした」
「この署名は、王妃陛下が亡くなられた翌月のものです」
声が少しかすれた。
その頃のことは、今でもよく覚えている。
王宮全体が喪に沈み、けれど実務は止まらなかった。王妃基金はむしろ忙しくなった。王妃が支援していた孤児院や施療院が、今後の継続を不安がったからだ。
セレスティアは、泣く時間もなく書類に向かっていた。
ジュリアスは葬儀後の儀礼で忙しく、父は「公爵家として王宮を支えよ」と言い、母はリリアナが泣き疲れているからと姉に気遣いを求めた。
あの時期、セレスティアは確かに多くの署名をした。
けれど。
「この日、私は王妃基金の継続確認書に署名しました。亡き王妃陛下の支援先を、次期処理まで継続するためのものです」
ローレンが会計室控えを探す。
すぐに該当資料が見つかった。
「あります。こちらです」
控えを見る。
署名欄は残っている。
切り取られてはいない。
だが、同じ日付で、ラドクリフ商会の推薦状にもセレスティアの署名が使われていた記録が出てきた。
セレスティアは、その写しを並べた。
署名欄の字の角度が同じ。
インクの濃淡も似ている。
そして、紙片の切り口が、推薦状写しの署名部分の輪郭と一致しそうだった。
ローレンが拡大鏡を使って確認する。
「これは……重ねれば合う可能性があります」
オルドが低く言った。
「つまり、王妃陛下の死後、混乱期に署名欄だけを流用した」
セレスティアは唇を結んだ。
吐き気がした。
王妃が亡くなり、彼女が必死に支援先を守ろうとしていた時期に。
誰かは、その署名を別の商会推薦へ使っていた。
「ひどい」
ミリアが思わず呟いた。
オルドが咎めることはなかった。
むしろ、誰もが同じことを思っていた。
セレスティアは、紙片から目を離さない。
「記録してください」
声は静かだった。
「王妃陛下崩御後の支援継続確認に関わる署名が、ラドクリフ商会推薦状に流用された疑いあり。紙片と推薦状写しの輪郭照合を求めます」
「はい」
ミリアが書く。
筆の音が、部屋に響く。
セレスティアは一度目を閉じた。
悲しみを、怒りに変えるのは簡単ではない。
怒りを、記録に変えるのはもっと難しい。
けれど、やる。
自分の名前が切り取られたのなら、切り口まで見てやる。
そう思った。
午前の照合作業が終わる頃には、二十七枚の署名欄のうち、少なくとも八枚が過去の不自然な推薦状写しと関連している疑いが出ていた。
その多くに、ラドクリフ商会の名がある。
偶然ではない。
誰も、もうそう思っていなかった。
ローレン副監は、まとめた一覧を机に置いた。
「ラドクリフ商会への照会だけでは足りません。帳簿、原本、取引先控えを直接押さえる必要があります」
オルドも頷く。
「法務局から保全命令を出せます。商会側に時間を与えすぎると、帳簿が消える可能性があります」
カインが言った。
「今日中に出す」
セレスティアは顔を上げた。
「今日中に、ですか」
「遅いくらいだ」
「ラドクリフ商会は、応じるでしょうか」
「応じなければ、監査妨害だ」
カインの声は淡々としている。
しかし、その淡々とした声が、商会にとってどれほど重いものか、セレスティアはもう知っていた。
「私も立ち会います」
そう言うと、カインはすぐに彼女を見た。
「商会へ行くつもりか」
「はい」
「昨日の今日だ」
「分かっています」
「顔色はまだ悪い」
「それも分かっています」
「なら休め」
「いいえ」
セレスティアは首を横に振った。
今度は、意地ではなかった。
「ラドクリフ商会の推薦状に使われた署名が、私のどの署名から取られたものか、現地で確認する必要があります。私が見れば、すぐ分かるものがあるかもしれません」
カインは黙って彼女を見る。
セレスティアは続けた。
「それに、これは私の名前の問題です。私が逃げると、また誰かが私の名前を勝手に語ります」
「逃げているとは言っていない」
「はい。でも、私は行きたいのです」
行きたい。
自分でそう言った。
命じられたからではない。
家のためでもない。
王太子のためでもない。
自分の名前を取り戻すために。
カインはしばらく黙ったあと、短く言った。
「条件は昨日と同じだ」
「護衛、法務官、記録官、会計監査官同行。私的会話はしない。無理なら言う」
「加えて、今日は商会主との直接対面がある。挑発される可能性が高い」
「承知しました」
「君の署名を利用した相手かもしれない。冷静でいられる保証はない」
「ありません」
セレスティアは正直に答えた。
「ですが、冷静でいられなくなったら、戻ってきます」
カインは、少しだけ目を細めた。
「分かった」
ラドクリフ商会は、王都の商業区に立派な店を構えていた。
表向きは、布地、燃料、輸送、食材調達まで扱う総合商会である。王宮や貴族家との取引を誇り、入口には磨き上げられた真鍮の看板が掲げられていた。
商会名の下には、小さくこう刻まれている。
『王宮御用達』
セレスティアは馬車を降り、その文字を見た。
王宮御用達。
どれだけの取引が、その言葉で通ってきたのだろう。
どれだけの人が、その裏にある書類を見ずに信用したのだろう。
そして、その信用の一部に自分の署名が使われていたのだとしたら。
胸が重くなる。
だが、足は止まらなかった。
商会の入口では、すでに店員たちが騒然としていた。
宰相府の馬車。
法務官。
会計監査官。
護衛騎士。
そして、セレスティア。
王都の商業区でこれほど目立つ訪問はない。
通りの向こうから、商人や通行人たちがちらちらとこちらを見ている。
噂になるだろう。
いや、もうなっているかもしれない。
ラドクリフ商会が、宰相府の監査を受けた。
それだけで商会の信用は揺らぐ。
だからこそ、早く動く必要があった。
店内へ入ると、香料と布地と古い木材の匂いが混じっていた。
奥から、丸い体つきの中年男が慌てて出てくる。
絹の上着。太い指輪。よく笑う商人らしい顔。
だが、その額には汗が浮いていた。
「これはこれは、宰相府の皆様。何か行き違いがあったようで」
男は深々と頭を下げた。
「私、ラドクリフ商会代表のベルン・ラドクリフでございます」
オルドが前へ出る。
「法務官オルドです。王妃基金関連支出に関する特別監査に基づき、帳簿、推薦状原本、取引控えの保全を行います」
「もちろん、もちろんでございます。ただ、突然のことでして。帳簿は倉庫に分けて保管しておりまして、すぐには」
「保全命令です。今すぐ確認します」
ラドクリフの笑顔が少し固まった。
「いや、しかし、商会には商会の機密も」
「王妃基金から支出を受けた取引については確認対象です」
「それは承知しております。ただ、何か誤解があるのではないかと。弊商会は、長年エルフォード公爵家のご紹介で、まじめにお役目を果たしてまいりました」
エルフォード公爵家。
その名をわざわざ出した。
セレスティアは、静かにラドクリフを見た。
彼は彼女に気づいたように、少し大げさに目を見開いた。
「これは、セレスティア様。ご無沙汰しております」
「業務上の確認に参りました」
セレスティアは言った。
ラドクリフは少し笑みを深める。
「いやはや、以前は大変お世話になりました。セレスティア様のご推薦のおかげで、弊商会も王宮のお役に立てまして」
胸の奥が、冷える。
ご推薦。
その言葉を、この男は簡単に口にした。
「私が、どの推薦をしたとおっしゃっているのですか」
セレスティアが尋ねると、ラドクリフは一瞬だけ目を泳がせた。
「それは、いろいろと。孤児院の修繕や、北方への輸送など」
「具体的な文書名と日付を」
「ええと、それは帳簿を見ませんと」
「では見ましょう」
ラドクリフの笑顔が消えかけた。
オルドが淡々と言う。
「帳簿保管場所へ案内してください」
「……こちらです」
案内されたのは、店の奥にある帳簿室だった。
高い棚が並び、革表紙の帳簿や取引控えがぎっしり詰まっている。一見すると整っているが、奥の棚の一部だけ、最近触られたように埃が薄かった。
カインがそれを見逃さなかった。
「奥の棚から確認する」
ラドクリフの肩が揺れた。
「あちらは古い雑帳でして」
「だから確認する」
護衛騎士が棚の前に立ち、監査官が帳簿を取り出す。
ラドクリフは何か言いたげだったが、カインの視線を受けて黙った。
古い雑帳。
そう言われた帳簿の中には、王妃基金関連の控えが混じっていた。
聖ミラーナ救護院。
北方三州輸送。
慈善茶会物品。
燃料費。
毛布調達。
そして、封筒に入った推薦状原本。
オルドが一通を開く。
セレスティアの署名があった。
本文は、商会の信用を強調する不自然な推薦状。
紙の下部だけ、わずかに質が違う。
セレスティアは、持参した署名欄紙片の写しと照合した。
切り口の角度。
インクの位置。
日付の筆圧。
合う。
ほとんど、合ってしまう。
「この推薦状の署名欄は、別文書から切り取られたものです」
セレスティアは言った。
ラドクリフの顔がこわばった。
「そのようなことは」
「紙質が違います。接着跡があります。こちらの保全紙片と切り口が一致する可能性が高いです」
「わ、私は知りません。文書はエルフォード公爵家から」
言いかけて、ラドクリフは口を閉じた。
遅かった。
オルドが即座に確認する。
「今、エルフォード公爵家から文書を受け取ったと発言されましたか」
「いや、それは、紹介を受けたという意味で」
「推薦状原本は、ラドクリフ商会が作成したものですか。公爵家から受領したものですか」
ラドクリフは汗を拭いた。
「昔のことですので」
「記録に残します。回答保留」
ミリアが筆を走らせる。
カインは静かに言った。
「ラドクリフ。今のうちに正確に答えた方がいい」
「宰相閣下、私は本当に」
「署名欄を切り貼りした推薦状原本が、君の商会の帳簿室から見つかった」
カインの声は平坦だった。
「知らないで済む段階ではない」
ラドクリフの喉が鳴った。
セレスティアは彼を見た。
怒鳴りたい気持ちはなかった。
ただ、聞きたいことがあった。
「ラドクリフ商会主」
「……はい」
「私の署名が、切り貼りされていることを知っていましたか」
ラドクリフは目を逸らした。
答えは、それだけで半分出ていた。
「知っていたのですか」
「私は、書類の形式までは」
「知っていたのですね」
セレスティアの声は静かだった。
その静かさに、ラドクリフはかえって追い詰められた顔をした。
「エルフォード公爵家から、問題ないと聞いていたのです」
部屋の空気が張りつめた。
オルドがすぐに言う。
「誰から」
「家令のマルクス殿です。セレスティア様の確認は取れている、と」
「公爵本人ではなく家令ですか」
「最初は家令殿です。しかし大きな案件では、公爵閣下の了承も……」
ラドクリフはそこまで言って、唇を噛んだ。
もう遅い。
ミリアの筆が追いつかないほど動いている。
セレスティアは、胸の奥が冷たく沈むのを感じた。
父。
やはり、父の名が近づいてくる。
直接か。
間接か。
どこまで知っていたのか。
まだ断定はできない。
けれど、ラドクリフ商会主は、公爵家から問題ないと聞いていたと言った。
それは、記録に残った。
「帳簿をすべて保全する」
カインが命じた。
「ラドクリフ商会の王妃基金関連取引、エルフォード公爵家関連取引、王太子府推薦取引、過去十年分。封鎖しろ」
ラドクリフは青ざめた。
「そんなことをされたら、商会が」
「監査が終わるまでは、関連帳簿の移動を禁じる」
「弊商会の信用が」
カインは冷たく言った。
「信用を語るなら、切り貼りされた署名欄を使うべきではなかったな」
ラドクリフは黙った。
セレスティアは、推薦状原本を見ていた。
自分の署名。
切り貼りされた名前。
この原本は、彼女の目の前でようやく文脈を取り戻した。
これは、彼女が推薦した文書ではない。
誰かが彼女の名前を貼った文書だ。
「この推薦状について、私は無効を申し立てます」
セレスティアは言った。
オルドが頷く。
「記録します」
「私が確認した事実はありません。署名欄が別紙から切り貼りされた疑いが濃厚です。王妃基金関連推薦としての効力を認めません」
言い切った。
胸が少し震えた。
だが、その震えは恐怖だけではなかった。
取り戻した感覚があった。
この署名は、自分のものではないと、初めて正面から言えた。
ラドクリフ商会を出る頃には、通りに人だかりができていた。
宰相府の封印紙が帳簿室に貼られたことは、すぐに商業区中へ広がるだろう。
王宮御用達の看板は、まだ入口に光っている。
だが、もう先ほどまでと同じ意味では見えなかった。
馬車に乗る前、セレスティアは一度だけ振り返った。
店の奥で、ラドクリフ商会主が椅子に崩れるように座っているのが見えた。
可哀想だとは思わなかった。
ただ、こう思った。
自分の名前で積まれた信用は、自分の名前で崩す。
それだけだ。
馬車の中で、オルドが速報記録をまとめた。
「ラドクリフ商会帳簿室より、署名欄切り貼り疑いの推薦状原本を確認。商会主、エルフォード公爵家家令より問題なしと聞いた旨発言。大きな案件では公爵閣下の了承もあったと発言しかけ、途中で撤回」
カインが言う。
「撤回ではなく、発言中断として記録しろ」
「承知しました」
セレスティアは窓の外を見ていた。
夕方の商業区は、人と馬車で賑わっている。
誰もが自分の取引に忙しく、誰かの署名がどう使われたかなど知らない。
けれど、その小さな署名一つで金が動き、信用が動き、誰かが得をし、誰かへの支援が削られる。
王妃は、それを知っていた。
だから帳簿を残した。
「次は、公爵家家令ですね」
セレスティアは言った。
カインが頷く。
「ああ。マルクスを呼ぶ」
「父は」
「まだ直接には呼ばない」
「なぜですか」
「逃げ道を残している間、人は部下に責任を押しつける。その過程で記録が増える」
セレスティアは、少しだけ息を呑んだ。
冷徹。
確かに、カインはそう呼ばれるだけのことはある。
けれど、その冷たさは人を傷つけるためではなく、事実を逃がさないためにある。
「私は、父に直接聞きたい気持ちがあります」
セレスティアは正直に言った。
「なぜ、と」
「聞けばいい」
カインは言った。
「ただし、今ではない」
「はい」
「今聞けば、父親の言葉として受けてしまう。監査対象者の証言として聞く準備ができてからにしろ」
セレスティアは、ゆっくり頷いた。
父親の言葉。
監査対象者の証言。
同じ口から出る言葉でも、受け取り方が違う。
その切り替えは、まだ難しい。
でも、しなければならない。
「分かりました」
彼女は答えた。
「まずは、家令マルクスから」
その夜、エルフォード公爵邸では、家令マルクスが青ざめた顔で当主執務室へ呼ばれていた。
グレアム公爵は机の前に立っている。
手には、宰相府から届いたばかりの通知があった。
『ラドクリフ商会への初動監査において、エルフォード公爵家家令マルクスの名が言及された。王妃基金関連推薦状の作成、受領、提出経緯について聞き取りを行う』
マルクスは汗を拭いた。
「旦那様、これは何かの誤解でございます」
「ラドクリフが喋った」
グレアムの声は低い。
「あの男、余計なことを」
「私は、旦那様のご指示通りに」
「私の指示?」
グレアムの目が鋭くなる。
マルクスは慌てて口を閉じた。
部屋の隅には、エヴァンジェリンが立っていた。
彼女は黙って二人を見ている。
その沈黙が、マルクスには不気味だった。
以前の奥様なら、こういう話から目を逸らしていた。
今は違う。
見ている。
グレアムは低く言った。
「いいか、マルクス。お前が勝手にやったことだ」
マルクスの顔が引きつった。
「旦那様」
「公爵家の名を守るためだ。分かるな」
「しかし、私は……」
「分かるな」
二度目の声は、命令だった。
マルクスは唇を震わせた。
エヴァンジェリンが小さく言った。
「あなた。また誰かに背負わせるのですか」
グレアムは妻を睨む。
「黙っていろ」
「いいえ」
エヴァンジェリンは震えながらも言った。
「もう黙っていた結果が、今なのではありませんか」
グレアムは何も言わなかった。
だが、マルクスはそのやり取りを見て、はっきり理解した。
この屋敷は、もう以前のようには動かない。
旦那様の命令だけで、全員が黙る場所ではなくなりつつある。
その中心にいるのは、ここにいないセレスティアだった。
追い出されたはずの長女の署名が、屋敷中の沈黙を少しずつ裂いていた。
宰相府へ戻ったセレスティアは、その日の終業時刻ぎりぎりまで、ラドクリフ商会の速報記録を確認した。
勤務時間を過ぎる直前、カインが書類を閉じる。
「今日はここまでだ」
「あと一枚だけ」
「駄目だ」
「本当に一枚です」
「君の一枚は三十枚に増える」
セレスティアは言い返せなかった。
実績がある。
「……分かりました」
素直にペンを置く。
カインが少しだけ満足そうに頷いた。
セレスティアは、机の上の写しを見た。
切り貼りされた署名。
ラドクリフの発言。
家令マルクスの名。
父の影。
線は、確実に近づいている。
その先に何があるのかは分からない。
父の罪か。
家令の独断か。
王太子府まで繋がる大きな不正か。
どれであっても、傷つくのだろう。
だが、もう止まれない。
セレスティアは机の引き出しを開けた。
そこには、自分で書いた覚書が重なっている。
『私は、私の名前を取り戻す』
その上に、今日の一枚を加えた。
『切り取られた署名欄は、私の名前ではあっても、私の意思ではなかった』
引き出しを閉める。
小さな音がした。
カインが扉の近くで言う。
「明日は家令の聞き取りだ」
「はい」
「揺れるぞ」
「分かっています」
「戻ってこい」
セレスティアは、少しだけ笑った。
「はい。戻ってきます」
窓の外では、宰相府の庭に夜が落ちていた。
遠くに、王宮の灯りが見える。
あの光の中で、彼女の名前は勝手に使われていた。
けれど今、その名前は少しずつ戻ってきている。
紙片から。
帳簿から。
嘘の推薦状から。
ひとつずつ。
セレスティアは、明日の聞き取り記録用紙を棚にしまった。
家令マルクス。
父の側に長くいた男。
公爵家の古い帳簿を知る者。
彼が何を語るかで、次の扉が開く。
そして、その扉の向こうには、おそらく父がいる。




