第14話 妹の衣装部屋にされるはずだった部屋から、証拠が出ました
セレスティアの部屋は、屋敷の北側にあった。
エルフォード公爵邸の中でも、陽当たりのよい南側にはリリアナの部屋や客間、母の私室が並んでいる。庭園が見え、午後には柔らかな光が入り、春には薔薇の香りが窓辺まで届く。
対して、セレスティアの部屋は静かだった。
窓の外に見えるのは、庭ではなく古い石壁と背の高い常緑樹。日差しは午前の短い時間しか入らず、冬には足元が冷えた。けれど本を置くには悪くなかった。光が強すぎないから紙が傷みにくい。机を窓際に寄せれば、朝のわずかな明るさで文字も読めた。
セレスティアは、その部屋に不満を言ったことがない。
少なくとも、屋敷の使用人たちはそう記憶していた。
いつも静かに机へ向かい、必要な書類を整え、夜更けに蝋燭の火を落とす。華やかなドレスより法典の写しを大切にし、宝石箱より手紙の小箱を奥へしまっていた。
だから使用人たちは、なんとなく思っていた。
セレスティア様は、あの部屋で十分なのだろう、と。
その思い込みが、どれほど都合のよいものだったのか。
宰相府の監査官たちが部屋へ入った日、使用人たちはようやく少しだけ気づくことになる。
「封印紙、破損なし」
法務官オルドが扉を確認し、記録官ミリアがその言葉を書き留める。
廊下には、エルフォード公爵家の執事長と侍女長、そして数人の使用人が控えていた。誰も口を開かない。
部屋の前には、数日前までリリアナの新しい衣装箱が置かれていた。
淡い薔薇色の布を張った箱。
金具に小さな花模様がついた、見るからに愛らしいもの。
それは今、廊下の端へ寄せられている。
セレスティアの部屋を衣装部屋にする計画は、宰相府の保全命令によって止まった。
止まっただけではない。
この部屋は今、監査対象の一部になっていた。
オルドは手袋を直し、扉を開けた。
古い紙と、乾いたインクの匂いがした。
部屋の中は、大きく荒らされてはいない。
ただ、途中まで片付けようとした痕跡が残っていた。
書棚の一部は空になり、本が箱に詰められている。机の上の小物は布で包まれかけ、衣装箱を運び込むためか、壁際の椅子が廊下へ出されていた。
そして、部屋の中央には半端な空白があった。
誰かの生活を途中で止めたような、不自然な空白。
記録官ミリアは、部屋に入った瞬間だけ、少し眉を下げた。
だがすぐに表情を戻し、記録を始める。
「セレスティア・エルフォード様旧私室。北側二階。保全命令後、封印紙破損なし。室内、一部整理途中の形跡あり」
オルドは執事長を見る。
「この部屋の整理を命じたのはどなたですか」
執事長は一瞬迷い、答えた。
「奥様でございます。ただし、旦那様のご意向でもありました」
「目的は」
「……リリアナ様の衣装部屋として使用するためと伺っております」
ミリアの筆が走る。
廊下にいた若い侍女が、いたたまれない顔で目を伏せた。
オルドは部屋の中へ進む。
まず机。
その机はすでに宰相府へ移されているため、ここにあるのは予備机だった。セレスティアが昔使っていた小さな机で、引き出しの底に古いインク染みが残っている。
次に書棚。
法典、会計記録の写し、王妃基金に関する古い資料、地方領主夫人からの手紙、孤児院から届いた礼状。
これらはすでに一部が保全されている。
今日の目的は、未確認の場所だった。
衣装箱を運び込むために動かされかけていた壁際の収納棚。
床板の傷。
机の奥の隙間。
そして、セレスティア自身も存在を忘れていたかもしれない古い私物。
「この棚を開けます」
オルドが言うと、執事長が小さく頷いた。
棚の中には、布袋や古い箱が入っていた。
リリアナの華やかな衣装箱とは違う。
質素な木箱ばかりだ。
その一つを開けると、子どもの頃の教材が出てきた。古い文字練習帳、礼法の覚書、王宮史の写し。
ミリアは中身を確認し、目録に記す。
次の箱には、古い茶会記録の草案が入っていた。
「これは公的資料ですか」
ミリアが尋ねる。
オルドが確認する。
「正式記録ではありませんが、王妃基金関連の補助資料に当たる可能性があります。保全対象」
さらに奥の箱を出そうとしたとき、棚の底板がかすかに浮いていることにミリアが気づいた。
「オルド様」
「どうしました」
「この底板、少しずれています」
オルドが膝をついて確認する。
確かに、底板の端にわずかな隙間があった。普通に見ただけでは分からない。けれど、箱をすべて出したことで見えた。
「執事長。この棚に隠し板があることを知っていましたか」
執事長は青ざめた。
「いえ、存じません」
「この部屋の家具は、誰が管理を」
「基本的にはセレスティア様ご本人が。ただ、大きな修繕は旦那様の指示で職人を」
「いつ頃の家具ですか」
「セレスティア様が王太子妃候補になられた頃、書類が増えるため新調されたものと記憶しております」
オルドは記録官を見た。
「隠し板らしき箇所を確認。開封前記録」
ミリアが頷き、位置と状態を書き留める。
オルドは慎重に底板を外した。
中には、薄い封筒が数通と、小さな布包みが入っていた。
その場にいた全員が息を呑む。
封筒の一つには、見覚えのある印が押されていた。
エルフォード公爵家の私印。
だが、宛名はない。
オルドは手袋越しに封筒を持ち上げた。
「記録。隠し板内より封筒五通、布包み一つを発見。封筒一通にエルフォード公爵家私印。宛名なし」
執事長の顔色がさらに悪くなる。
「そのようなものが、この部屋に……?」
「現時点では、誰が保管したものか不明です」
オルドはそう答え、封筒を保全袋へ入れた。
布包みを開けると、小さな鍵が出てきた。
古い銅色の鍵。
鍵には札がついている。
そこには、薄くなった字でこう書かれていた。
『奥倉庫・旧会計箱』
オルドは、その札を見て目を細めた。
「執事長。奥倉庫とは」
「屋敷の裏手にある古い倉庫です。昔の帳簿や壊れた家具を置いております」
「旧会計箱は」
「……存じません」
執事長の声は、自信がなかった。
オルドは扉の外の使用人たちへ視線を向ける。
「この鍵、見覚えのある方はいますか」
誰も答えない。
しばらくして、一人の年配の侍女が小さく手を上げた。
「おそらく、先代奥様の頃の会計箱ではないかと」
「先代奥様?」
「旦那様のお母上でございます。昔は屋敷の寄付金や慈善関連の控えを、奥倉庫の箱にしまっていたと聞いております」
オルドは静かに頷いた。
「奥倉庫も保全対象に追加します」
ミリアが即座に記録する。
その瞬間、廊下の向こうから足音が聞こえた。
「何をしているの」
声の主は、リリアナだった。
淡い水色のドレスを着ている。普段なら可憐に見える装いだが、今日は顔色が悪く、目元も赤い。
彼女は部屋の入口で立ち止まった。
そこがかつて姉の部屋だったことを、今さら思い出したような顔だった。
「リリアナ様」
侍女長が慌てて近づく。
「こちらは現在、宰相府の調査中でございます」
「分かっているわ」
リリアナは小さく答えた。
そして、部屋の中を見た。
書棚。
古い箱。
布で包まれかけた私物。
空になりかけた壁際。
隠し板から出された封筒。
ここを、自分の衣装部屋にする予定だった。
その事実が、今になって妙に重く感じた。
「お姉様は……ここで、ずっと」
リリアナは呟いた。
オルドは礼をする。
「リリアナ様。申し訳ありませんが、現在室内への立ち入りは制限されています」
「入りません」
リリアナはすぐに言った。
以前なら、なぜ自分の家の中なのに駄目なのかと泣いていたかもしれない。
だが今は、足が動かなかった。
部屋の空気が、彼女を拒んでいるように思えた。
いや、違う。
拒んでいるのではない。
ここには、姉がいた。
リリアナが見ようとしなかった時間が、ここに残っている。
「その箱は、何ですか」
リリアナは小さく尋ねた。
オルドは答える。
「隠し板内より発見されたものです。今後、宰相府で保全確認を行います」
「隠し板……?」
リリアナは目を見開いた。
この部屋にそんなものがあったことを知らなかった。
そもそも、姉の部屋に何があるかなど、ほとんど知らなかった。
姉はいつも自分の部屋にいた。
机に向かい、書類を読んでいた。
リリアナが遊びに来ると、少し困ったように笑いながらも、必要なら席を立ってくれた。
お姉様は、いつもそこにいる。
そう思っていた。
でも、その「そこ」がどんな場所だったのか、知らなかった。
「リリアナ様」
オルドは穏やかに言った。
「確認ですが、この部屋を衣装部屋にする予定について、ご存じでしたか」
リリアナは肩を震わせた。
廊下にいた侍女たちの視線が集まる。
彼女は少し迷ったが、嘘はつけなかった。
「はい」
「どなたから聞きましたか」
「お母様からです。お姉様は別邸へ移るから、この部屋を使っていいと」
「セレスティア様ご本人の了承はありましたか」
リリアナは唇を噛んだ。
「……分かりません」
答えたあと、すぐに言い直す。
「いいえ。たぶん、ありません」
その言葉を口にした瞬間、胸が痛んだ。
以前なら、こう思っていた。
お姉様なら譲ってくれる。
お姉様は強いから。
お姉様は物に執着しないから。
お姉様は私を嫌いではないから。
でも、それは了承ではなかった。
リリアナは、ようやくそこに気づき始めていた。
オルドは記録官へ視線を向ける。
ミリアが記録する。
リリアナは、その筆の音を聞きながら、急に怖くなった。
自分の何気ない言葉も、記録される。
これまで姉が書いていた記録とは、こういうものだったのかもしれない。
人の言葉を、なかったことにしないためのもの。
「……お姉様は、このことを知っていますか」
リリアナは尋ねた。
「部屋の保全状況については、宰相府を通じて報告されます」
「そう、ですか」
リリアナは俯いた。
謝りたい。
そう思った。
けれど、何を謝ればいいのか分からない。
婚約者を奪ったこと。
王太子妃の仕事を軽く見たこと。
茶会費で怒ったこと。
この部屋を衣装部屋にしようとしたこと。
姉が何を大切にしていたか、何ひとつ知らなかったこと。
謝るには、多すぎた。
だから言葉が出なかった。
宰相府の新しい部屋で、セレスティアは隠し板から見つかった封筒と鍵の報告を受けた。
ちょうど、ラドクリフ商会関連の推薦状分類を終えたところだった。
カインは報告書を読み、すぐに眉を寄せる。
「奥倉庫の旧会計箱か」
セレスティアは記憶を探った。
「聞いたことがありません」
「公爵家の古い会計記録かもしれない」
「なぜ私の部屋に鍵が」
「誰かが隠したか、誰かが君の部屋を保管場所として使ったか」
セレスティアは、手元の報告書を見つめた。
隠し板。
自分の部屋に、そんなものがあった。
知らなかった。
いや、本当に知らなかったのだろうか。
棚の底板が少し浮いていることに、何度か気づいたような気もする。けれど、書類に追われて確かめなかった。古い家具だから歪んでいるのだと思っていた。
あの部屋には、まだ自分の知らないものがあった。
それが、少し怖かった。
「この封筒は、ここで開封しますか」
ミリアが尋ねる。
カインはセレスティアを見る。
「君の部屋から出たものだ。立ち会うか」
「はい」
セレスティアは迷わず答えた。
怖くても、見る。
もう、それを自分に約束していた。
法務官オルドの帰還を待ち、封筒は宰相府の小会議室で開かれることになった。
机の上に五通の封筒が並べられる。
一通目。
エルフォード公爵家私印。宛名なし。
中には、古い取引控えが入っていた。
ラドクリフ商会の名がある。
日付は、七年前。
支出名目は、孤児院用毛布の調達。
セレスティアは資料を見た瞬間、眉をひそめた。
「この年の毛布調達は、別の商会だったはずです」
ローレン副監が確認する。
「会計室記録では、北方毛織物組合から直接購入となっています」
「では、なぜラドクリフ商会の控えが」
オルドが中の紙をさらに確認する。
「これは、仲介手数料の内訳のようです」
セレスティアは息を呑んだ。
直接購入したはずの支援物資に、見えない仲介が入っている。
そして、その仲介先がラドクリフ商会。
二通目。
こちらには、エルフォード公爵家の家令が書いたと思われる短いメモがあった。
『セレスティア様署名入り控え使用。王妃基金関連として処理可。旦那様確認済』
部屋の空気が凍った。
セレスティアは、その一文から目が離せなかった。
セレスティア様署名入り控え使用。
旦那様確認済。
父が、確認している。
まだ、それが何を意味するか慎重に見なければならない。
だが、限りなく近づいた。
「記録」
カインの声は低かった。
オルドが書き留める。
「セレスティア様署名入り控え使用、旦那様確認済との記載あり」
セレスティアは、ゆっくり息を吸った。
胸が痛い。
けれど、崩れない。
カインが言った通りだ。
崩れても戻ればいい。
今は、まだ立っていられる。
三通目には、古い見積書が入っていた。
そこにもラドクリフ商会。
四通目には、社交費の控えらしきもの。
そして五通目には、封のされていない小さな紙片が入っていた。
紙片には、父の筆跡で短く書かれていた。
『セレスティアには見せるな。数字だけ整えておけ』
セレスティアは、しばらく動けなかった。
見せるな。
父の字だった。
間違えようがない。
幼い頃から何度も見た字。
書き取りを直された字。
王宮へ行く前に渡された訓示の字。
そして今、彼女に見せるなと命じている字。
カインが静かに問う。
「筆跡は」
セレスティアは答えた。
「父のものです」
声は小さかった。
だが、確かだった。
「断定できるか」
「はい」
「記録」
オルドが筆を動かす。
セレスティアは、紙片を見つめたまま言った。
「これで、父が少なくとも一部の隠蔽を認識していた可能性が高まりました」
自分で言った言葉が、胸に刺さった。
父。
隠蔽。
その二つの単語を、同じ文の中で口にした。
もう戻れない。
戻れなくていい。
「奥倉庫を開ける必要があります」
セレスティアは言った。
カインが頷く。
「ああ。旧会計箱とやらを確認する」
「私も立ち会います」
カインは、少しだけ目を細めた。
「現地に行くことになる」
「はい」
「公爵邸だ」
「分かっています」
「父親と顔を合わせる可能性がある」
セレスティアは、紙片から目を離した。
「それでも、行きます」
自分の声は、思ったよりも落ち着いていた。
「私の部屋から出た鍵です。私の署名が関わる文書です。私が立ち会うべきです」
カインはすぐには答えなかった。
けれど、止めもしなかった。
「条件がある」
「はい」
「宰相府の護衛をつける。法務官、記録官、会計監査官も同行。公爵家の者との私的会話は禁止。何か言われても、その場で返答せず記録させろ」
「承知しました」
「無理だと感じたら、すぐに言え」
「はい」
「強がるな」
セレスティアは、少しだけ苦笑した。
「最近、強がりが通用しなくなりましたね」
「通用させる気がない」
「そうでした」
カインは、紙片を保全袋へ入れるよう指示した。
その手つきは冷静だった。
だが、セレスティアには分かった。
彼は怒っている。
彼女が怒る前に、彼が怒ってくれている。
それが少しだけ、胸を支えた。
その夜、セレスティアは自分の机に向かった。
今日の勤務時間は終わっている。
だから、仕事はしない。
ただ、覚書だけを書いた。
『父の筆跡で、「セレスティアには見せるな」とあった』
書いて、しばらくペンを止める。
次の言葉を探した。
怒り。
悲しみ。
失望。
怖さ。
どれもある。
けれど、一番近いものは、空白だった。
胸の中にぽっかりと穴が開いたような感覚。
父ならそうするだろうと、どこかで思っていた。
それでも、実際に字を見ると違う。
想像と証拠は、重さが違う。
セレスティアは、続きを書いた。
『証拠は、想像より重い。けれど、重いからこそ逃げない』
そこで、小さく息を吐く。
明日、彼女は公爵邸へ行く。
追い出された屋敷へ。
衣装部屋にされかけた部屋から見つかった鍵を持って。
監査官として。
セレスティアは、机の引き出しを開けた。
青い栞。
自分で書いた覚書。
そして、王妃の手紙の写し。
その一番上に、今日の覚書を重ねる。
引き出しを閉める。
小さな音がした。
もう、何もなかったことにはしない。
翌朝、エルフォード公爵邸へ向かう馬車に、セレスティアは乗った。
隣にはカイン。
向かいには法務官オルドと記録官ミリア。
護衛の騎士が前後を固めている。
車輪の音が、王都の石畳を規則的に叩く。
セレスティアは、膝の上で手を重ねていた。
手は少し冷たい。
カインがそれを見て言った。
「戻れるか」
セレスティアは窓の外を見た。
近づいてくる、見慣れた屋敷の門。
かつては帰る場所だった。
今は、監査対象だった。
「戻るのではありません」
セレスティアは静かに答えた。
「調べに行きます」
カインは頷いた。
「それでいい」
馬車が門前で止まる。
エルフォード公爵家の門が、ゆっくりと開いた。
その向こうに、セレスティアが失った屋敷がある。
けれど今、彼女の手には鍵があった。
誰かに閉じ込められるためではない。
隠された箱を開くための鍵が。




