第3話 誤解と誤解
「おっ、落ち着いてくださいっ……!」
「店員さん助けてください~っ!」
半分涙目になった矢吹が、ひしとしがみついてきて離れない。なんとか引きはがそうかとも思ったけど、むやみに女性客の身体に触るのもまずい気がするし……とにかく冷静になってもらわないと。
「えっと、お客様?」
「はいっ!?」
「あのっ、休まれているお客様もいますので。いったん声のボリュームを下げていただけますか」
「えっ? あっ……す、すみません!」
落ち着きを取り戻したのか、矢吹は腕の力を緩めてきた。恥ずかしそうに口元を右手で覆い、目を見開いている。
「ごめんなさい、私ったらつい……」
矢吹は俯いて、申し訳なさそうにもじもじしていた。一方で、身体が自由になった俺はほっとため息をつき、矢吹の背丈に合わせて少し身をかがめる。
「大丈夫ですよ。それで、何かお困りでしょうか?」
「えっと、その……」
「?」
「……がいるんです」
「えっ、なんですか?」
聞き返してみると、矢吹は静かに震え出した。再び涙目になり、背後の方を指さして……必死に訴えてくる。
「おばけ!!」
「へっ?」
「おばけがいるんですっ!! 隣の席に!!」
「おっ……おばけぇ……?」
「いいから来てくださいっ!」
「ちょっ、えっ!?」
予想外のフレーズに拍子抜けしつつ、俺はただただ矢吹に引きずられていったのだった……。
***
連れられるままたどり着いた先は、矢吹のブースの前だった。
「ほらっ、聞いてくださいよ!」
「聞いてって、何を……」
「この声! ぜったいおばけですっ!」
早くなんとかしろと言わんばかりに、矢吹はむうっと頬を膨らませて俺のことを見ていた。たしかに耳を澄ませば、近隣のブースから化物の唸り声のようなものが聞こえてくる。まあ、おばけの声という解釈も出来なくはないだろうが……。
「あの」
「はいっ!?」
「恐らくですが、おばけではなくて」
「じゃあ幽霊ですか!? ネッシーですか!?」
「そっ、そうではなくて!」
ネッシーはネカフェにいるからネッシーと呼ばれているわけじゃないと思う……。
「いびきです」
「へっ?」
「他のお客様のいびきです」
「い、いびき……? こんな変ないびきをする人がいるんですか!?」
「いや、変ということはないと思いますが」
「そっ、そんな……」
矢吹は絶句して、下を向いた。ちょっと大きめの音量ではあるけど、成人男性のいびきとしてそれほどおかしいものでもないと思う。ただ、矢吹にとっては聞き慣れないものだったのだろう。
「私ったら、とんだ勘違いを……」
「いっ、いえ! 解決したのなら何よりです」
申し訳なさそうに頭を下げる矢吹に対して、両手を横に振った。それにしても、男に大外刈りを決める度胸はあるのにおばけは怖いんだな。なんだか子どもっぽい一面を見た気がして、微笑ましい。
「あの……」
「!」
しかし矢吹が顔を上げた瞬間、緩いパジャマの胸元から二つの膨らみが見えそうになって……思わず顔をそむける。
「て、店員さん?」
「いえっ、その……」
「……あっ!!」
自分がパジャマを着ていることを思い出したのか、矢吹は顔を赤らめて両手で胸を覆った。さっきまでは、動揺していて服装なんか気にしていられなかったんだろうな。
「……み、見ましたか?」
「いえ、何も……」
「見たんですね!?」
「何も見てないですっ!」
「……ふんっ、男の人って本当に……」
矢吹は少し不満そうに鼻を鳴らし、そっぽを向いた。怒るくらいならせめてブラジャーくらいしてほ……いや、これ以上はやめておく。
「で、では僕は失礼します。また何かあれば……」
「あのっ、ひとつお聞きしたいんですけど」
「何でしょう?」
自分の仕事に戻ろうとしたところを、再び呼び止められた。矢吹は自分のブースの上を指さし、じっとこちらを見ている。
「どうして上が開いてるんですか」
「と、申しますと」
「個室だと思っていたので。その……これ、壁で仕切られてるだけなんですか?」
「ああ……」
どうやら完全な部屋になっていないことが気になったらしい。隙間があるのが目についたのだろうか。上からのぞき見されないか……なんて心配なのかもしれない。
「当店のブースは全て半個室になっておりまして。完全な個室はご用意できないんです」
「どうして個室にしないんですか?」
「自分も詳しくないんですが。風営法の関係で個室に出来ないと聞いています」
「ふーえいほう?」
「そういう法律があるんです。正式には、『風俗営業等の――』」
「ふっ、風俗!?」
「!?」
突然吹き上がったかのように、矢吹が声を出した。つかつかと俺の方に歩み寄ってきて、詰問するように言葉を放つ。
「どういうことですか!? なんでふ……風俗が関係してるんですか!?」
「そっ、そういう法律の名前なんですって! 別に当店が風俗というわけでは――」
「ネットカフェって風俗なんですか!? だから私のことを変な目で――」
「違いますって! あと変な目で見てないですからっ!」
「最低っ! 変態ですっ! いやらしいっ! 汚らわしいですっ!!」
「そっ、そんな大きい声で――」
「もう寝ますからっ! おやすみなさいっ!」
「ちょっ、本当に――」
誤解しないでくださいよ、と言おうとしたところで矢吹がブースの中に入ってしまった。ピシャっと扉が閉まり、俺はただいびきの響く通路にひとりで取り残されてしまう。
「違うんだけどなあ……」
ぽりぽりと頭をかきつつ、俺は自分の仕事に戻ったのだった……。
***
矢吹とのやり取りがあったあと、俺は黙々と仕事をこなした。深夜に入ってくる客の受付をしたり、通路にモップ掛けをしたり。一息つける頃には、既に時計の針は朝七時を指していた。
「ふわあ……」
店内の通路を歩きながら、大きなあくびをした。八時にシフトが終わったら、今日はそのまま大学に行こうかな。やっぱり講義中に寝ちゃいそうだけど、こればかりは仕方ない。
「ん」
ふと向こうに目をやると、スカートを履いた矢吹が歩いてくるのが見えた。シャツの上から羽織ったデニムジャケットがよく似合っていて、きのうのパジャマ姿とは随分と印象が違う。
「おはようございます」
「……お、おはようございます」
矢吹は少しムスッとした表情で挨拶を返してきた。まだ昨日のことを根に持っているのだろうか。別にいやらしいことをしたつもりはないんだけどな……。
「ん?」
すれ違いざま、違和感を覚えた。薄い化粧の下に見えた、目元の微かな赤色。何でもないと言われればそれまでだが、どうしても気になった。
「目、腫れてたな……」
男のいびきも聞いたことのなかった子が、どうしてネットカフェに寝泊まりをしているのか。詮索してはいけないと分かってはいるが……心に、少し引っ掛かるものを覚えたのだった。




