第九十八話 琥原瑠璃子との出会い
それからニ年後の春。
光希の代わりの様に直希を手に入れた裕子は子育てに夢中で、すっかり光希にあれこれ言うのをやめてしまった。
光希は寸暇を惜しんで研究に没頭する反面、属する教授の元で学生育成の講義を見守ることにも慣れて来たところだった。
その年の一年生の初めての製図の講義の巡回を開始した光希は後ろの方にいる蜂蜜色の髪に気づく。
『あれがこの学科初まって以来の初めての女子学生か….…』取立てて関心があった訳ではないが、勝手にその製図台に足が向いていた。
彼女は腰まであろうかと言う長い髪を一つにまとめて、色白の肌、頬をうっすら上気させながら、伏し目がちに懸命に線引きをしていた。
元々、この大学の学生は授業料の高さゆえに裕福な家庭育ちの子女が多かった。
そのこともあってか光希は彼女に向かってこう言い放ったのだ。
「何だ、その髪は!女であることを強調すると何か得でもするのか?」
すると、彼女は顔を上げて琥珀色の瞳で光希を睨みつけると、自分のカバンの中からハサミを取り出し、止めていたゴムの上あたりからバッサリと髪を切ると後方にあるゴミ箱にそれをその束のまま投げ入れると、何も言わずにまた作業に戻った。
光希はその姿に圧倒されて何も言えなかった。
それが後の祐希の母である、琥原瑠璃子だ。
この事は、その時の光希は知る由もなかったが、彼女は早くに両親を亡くし、頼る親戚もおらず、児童養護施設に預けられたという経緯を持つ。
成績の良かった瑠璃子は高校を卒業するまでは施設で過ごし、その建屋の劣悪な環境に、他の施設を見て回るもいずれも変わり映えしないことに絶望した。
そして、まずはそう言った建物の設計に携わる仕事に就くために、この大学の奨学金制度を利用して入学を果たした女子学生だった。
彼女は生活のために居酒屋でアルバイトもしていたが、そのバイト先では毛色の違う綺麗な子として客寄せに一役買って重宝されていたらしい。
そのための長い髪を切ってしまったのだ。
『違うバイト探さなきゃだな……聞き流せば良いのにワタシの馬鹿!!』
住むところも学生ならではあるが、三畳一間、ガスコンロのみ。水道とお手洗いは共用で風呂無し。
それでも一ヶ月一万五千円はかかる。
居酒屋のバイトは深夜まで拘束されることはあったものの当時としては時給五百円に賄いつきの実入りのいい仕事だった。
そちらを平日一日三時間も働き、日曜日だけは朝から夕方までの近所のスーパーでレジ打ちのバイトをすれば、売れ残りの弁当を貰えたりで何とか一ヶ月をやり過ごせていたのにと思う瑠璃子。
どんよりした気分で彼女は線引きをやり終えると青焼きした提出用紙を手に教授机に向かう。
ところが先程言われたことに頭に来て、面前で髪を切った助教授が代理で今日は提出物を受け取るらしい。
神妙な面持ちでA1の用紙を差し出す瑠璃子。
光希は机の上に置かれた青焼きを見ると
「やり直し」
と、突き返してきた。
『どこが!?』など言い返せない。
無言で青焼きを受け取ると一礼して製図台に戻る。
製図用のトレーシングペーパーが一枚百五十円の時代。
どこがいけないのか自分で探し出し書き直す。
青焼きにすら一回三十円かかる。アルバイトに入る時間も迫るでイライラしてくる瑠璃子。
そこへ光希がやって来て、
「書き直しはここと、ここだけだ」
とだけ言って席に戻って行った。
瑠璃子は言われた通りにやり直しを始めた。




