第八十九話 稲垣直希助教授の特別講義==加筆・修正あり
「さて、今日は僕の一ミリも単位にもならない話を聞く為に一年生諸君お集まりを頂き有難う」
直希が言うと笑いが起きる。
「今年の一年生は優秀だと聞いたので、僕が尊敬する佐野教授ゼミの内容説明も兼ねての話になるが肩の力を抜いて、ただの勧誘だと思って聞いてくれたらいい」
直希の専門は建築学科の中でも最もエリート気質で、かつ"工学"としてのプライドが高い、構造系、"超高層ビルの構造計算"ゼミだった。
京王プラザホテル、住友ビル、三井ビルなどが完成し、さらにサンシャイン60"一九八七年竣工"が東洋一の高さを誇っていた直後の日本では、超高層ビルは"未来の象徴"であり、それを数学的に解明できる構造派は、デザイン派とは別の意味で"建築の支配者"のような自負がある。
とりわけ国立大からケンブリッジ大に留学経験を持つ直希は論文を引っ提げて日本に帰国し、院卒の後、スピード出世で齢三十歳の若さでこの大学の助教授にまで成り上がった。
工学系は硬派な印象があり、実際の建築現場にも立ち入る関係上、作業員の様な格好の学生が多い中、助教授という立場は教授が持ってきた国家レベルのプロジェクトや、大手ゼネコンからの委託研究の実務を、院生や三、四年生を使いながらゴリゴリ回すリーダー的存在で、プログラミングの鬼とも呼ばれるくらいデバック作業に追われ、まさに計算の鬼の異名まであるほどだったが、彼は異質だった。
パリッとしたライトブルーのワイシャツにグレーのスラックスに革靴という出立ちで、ブレザーでも羽織れば、どこかの若社長と名乗っても誰も疑わないであろう清潔感が溢れる好青年だ。
「と、いうことで振動論 、建物の揺れを解析する基本理論。弾塑性、建物がどこまで変形しても壊れないかという限界値。風荷重、超高層では地震より風の影響が大きくなる、と以上のことを踏まえた上で計算をする!楽しい作業だよ」
講義室内が静まり返る。
直希の疲れた顔を見たことがない人間じゃない説が流れるほどの格好いい好青年の見本の様な男性だったが、実際ゼミに入ってみると厳しい現実と向き合う結果になる。
FORTRAN《フォートラン》というプログラミング言語を使い、夜通し分厚いパンチカードの束を作り、それを大学の"計算機センター"に持ち込み、メインフレーム※で計算を回すも、翌朝、"エラー"という一行が出て絶望する先輩達の姿を見たことがあるからだ。
そんな中、やはり稲垣助教授の爽やかさ尋常じゃない。
※巨大で超高性能な汎用コンピューターのこと




