第五十九話 まだ言えないこと
弓道場。
いつもより授業が早く終わり、だいぶ早めに着いた祐希はスポーツウェアに着替え終わり、弽と下掛けを入れた巾着袋を下げて道場の入り口から射場に入ると、きちんとした道着を身につけた男性が一人で安土をスコップで掘り起こしているのが目に入った。
安土とは的を置く為の土台の様なもので、毎回、使う前になだらかな傾斜に整え、置き台の様な板を差し入た処に的を立てかける。
在籍は二十人、四人一組で週替わりで、一限の前に的を用意する的貼りからやる事になっている。
今週は『確か、文学部の四人がやるはずなのに……しかもあの人誰だ?』
祐希は急いで弓道の時に使っている雪駄を履いて的場に走って行き、その男性に声をかけた。
「あのう、失礼ですが五代先生のお知り合いの方でしょうか?」
五代先生はこの講義の指導を請け負っている近所の弓道場から派遣されている講師だ。
祐希はもしやと思い、まずはそう尋ねてみた。
振り返った大柄な男性は振り返り様に額の汗を道着の胸元を引き寄せてで拭きながら
「こんにちは、今日は五代先生のピンチヒッターで来ました志木と言います。君はもしかして琥原くんかな?」
「あ、はい!本日は宜しくお願いします。当番は来ていないんですか?」
「んー、どうしたもんなのかな?僕も錬士ではあるけど指導自体初めてだから、的貼りからご一緒しようかと思って当番さん達が来ると言われてる時間くらいに、ここに来たんだけれど誰も来ないんですよね」
「え?では的貼りから志木先生お一人で準備をして頂いたのですか?!申し訳ございません」
謝る祐希に志木は笑いながら
「君は悪くないでしょ?君の事は五代先生から美男子なのに気遣いの出来る唯一無二の学生さんで腕前もあると聞いて来たけど、その通りみたいですね。驚きました」
「五代先生がその様に仰って下さったとは恐縮です!ここはもう僕が仕上げますので、あちらでご休憩なさってて下さい」
「いやいや、二人でやってしまった方が早いでしょう。さあ、やってしまいましょう」
志木に促され祐希は一緒に安土を仕上げることになった。
多分そろそろ薫子が来る頃合いだ。
この近所の弓道場は一つしかない。
薫子から聞いた話では弓道場の師範は彼女の"小さいおじいちゃん"だ。
となると…
「志木先生、初対面の先生にこんなお願いは失礼かと存じますが」
祐希は改まって志木に声を掛ける。
「何でしょう?」
手を止める志木。
「五代先生は僕のことをご存知ではなかったので、自分からお話をしていなかったのですが、実は小学生の頃、堂上師範にお世話になったことがあります」
「実は僕も名も知らぬ小学生でしたが、その特徴的髪の色を見てもしや君の事では?とお会いした時に思っていたのです。君から話して来ないことを尋ねてもいいものか?と思っていたところでした。成長との兼ね合いもあるので高校生以上しか弓道は指導しないものなのに、堂上先生が毎日来る小学五年生に根負けして数ヶ月ほど教えたことがあると聞いてました。しかも筋がいいらしい。滅多に門徒を褒めない先生が小学生も高学年なら教えてもいいのかな?と仰り出して、当時僕も高校に行ってから弓道を始めた大学生だったので正直羨ましかったのを覚えています。五代先生はちょうど入れ替わりで道場を移動して来られたので君の事は知らないでしょう。こちらの事は堂上先生も五代先生に任せきりなので名簿も見ていないでしょうし….…とするともしや堂上先生にお会いになりたいのですか?」
「あ、いえ……あの三枝さんに堂上先生にお世話になっていたことを内緒にして頂きたいんです」
「薫子さんに?五代先生情報で個人的なことを聞いてしまっていて申し訳ないですが、お二人はお付き合いされているのでしょう?なのに、どうしてですか?」
「実は実家はこの近くなんですが、そのことを三枝さんには、事情があって…まだお話し出来ていません。今、新宿に住んでいると言う事しかお話していないんです。でも最近三枝さんから堂上先生とご親戚と言うことをお聞きして……」
「ご自身からがご実家のお話が出来るまでは内密にしたいと言う訳ですね?」
「はい、どうかお願いします」
「分かりました。僕にどうしてその話をされたのかは分かりませんが、当時その小学生は大変な道を歩まれていると堂上先生もご心配をされてました。察するに……もしかしたらこの大学にも関連のあることですよね?」
「はい、だからこそ自分から話したいんです」
「大丈夫ですよ。僕の口からはどなたにも話しません。薫子さんだけでなく取り巻く方々にもね。なので安心して下さい。でも、そんなリスクもある中で、よくぞ弓道を選択して下さいましたね」
「………あの時、無鉄砲にも小学生の僕は、とにかく弓をやりたい一心で、お月謝をお支払いすると言う事も知らず、堂上師範には本当にご迷惑をお掛けしてしまいました。しかも家のものがサッカーに行っていると思い込んでいた僕を堂上師範が誘い込んだ様な物言いで怒鳴り込むというご迷惑もお掛けしてしまいました。そんな事もありお恥ずかしい限りですが、未だその時のお礼にもお詫びにも伺えておりません。本来でしたら弓道の選択をすること自体が失礼かとは分かっていたのですが、弓を引いている時には無心になれるので、どうしても引きたくなりまして……ここに来て志木先生にまで、ご迷惑をお掛け致しますが宜しくお願いします」
「なんの、なんの。お安いご用です。」
「申し訳ございません」
志木の笑顔に安心しながらお詫びした祐希だった。




