第二話 話しかけられた!
授業が身が入らない薫子。
ただただひたすら板書を写すのみ。
こんなの初めてだった。
もう九〇分授業も半分を過ぎるのに心臓の音が喧しい。ずっとドキドキしっぱなし。
階段状の座席だから、頭のあたりしか見えないのに 蜂蜜色の髪が気になって仕方ない、彼が前髪をかきあげる度に何だかいい香りもする。『何これ?何これ?私どうにかなっちゃったの?』思っているうちに終業の鐘が鳴り響く。
「では本日はここまで」と講師が去って行くか行かないかのうちに皆机上を片付け始めた。
つられる様に薫子も片付け始める。
何これ?はまだ続いていて手が意思と関係なく震えて、布製の筆入れにペンが上手く納められない。
と、その時、消しゴムを落とした。落ちた先は……何と琥原と思われる男子学生の席横の通路。
慌てて立ち上がった時、後ろも見ないまま彼が右手を伸ばして消しゴムを取ると、座ったまま振り返り
「はい、これ」
と薫子に差し出した。
また目が合って思わず両手で消しゴムを受け取ると
「すみません、有難うございます」
と頭を下げる薫子。それに対して彼は短く
「ん」
と言って前を向いてしまった。
何これ?が続いてた薫子はますますドキドキが収まらなくて、早くこの場を立ち去りたい気持ちでいっぱいだった、のに……。
今日の薫子は理由は分からないが、もう彼に近づいたら心臓がもたないと思って後ろの扉から出ようと荷物を持って階段を登りかけた時だった。
「三枝さん」
と後ろから声が響いた。
聞こえていたけれど、そのまま気付かないふりをしようとした時、もっと大きな声で
「三枝薫子さん!」
と呼ばれて恐る恐る振り返ると、自席から立ち上がって私の席の目の前にいる彼の姿が目に入る。
階段一段下のはずなのに、それでも目線は私より少し上だった。
「何のご用でしょう?」
振り絞る様に尋ねると
「えーと俺、三枝さんの前の席の琥原祐希っていいます」
「はい、初めまして」
「初めまして!すみません。いきなり…お急ぎの様なのにお引き止めして申し訳ないです」
「いえ、それで何か?」
ドキドキ……
「大変勝手なお願いなんですけど、今日までの1 ヶ月分のノートってお借りできないでしょうか?」
「ノートですか?あ……はい」
薫子は今までにも何度となく聞いた事がある、その 問い掛けに急に冷静になって、誰とはなしにするような対応になる。
「正確にはオリエンテーションなどがあり、三週間分のノートになりますが、教科別のノートをお貸しするとかなりの量になりますので、全部の教科の板書を写した物でよろしければバインダーをお貸しした方が少ない量で済むと思いますが、それでいいですか?」
「この連休中お借りしても三枝さんに差し支えがなければお借り出来ると助かります。もちろんお礼はさせて頂くので」
と言われ薫子は背負っていたD バッグを下ろした。
「お貸しすることには問題ないのですが、お願いが
あります」
「お願い?ですか?」
「はい、まずはお礼は必要はありません」
「でも見ず知らず同然の俺に大切なノートを貸してくれるのに、さすがにお礼しないなんて出来ませんよ」
「学生の本分は勉学です。ノートはその付帯なので自分が必要だから取っているだけで。そこに対価は不要です」
「まあ仰ることは理解しますが」
「お礼をしたいなら別の方にお願いして下さい。お友達いらっしゃいますよね?」
「いや、あいつらは当てにならないんで!とにかく
三枝さんの言う通りにしますから、お願いします!」
「そうですか……ではお貸ししますが、ノートの取り方にクセがありまして、その講師の先生方の板書を写し書きした右横に私の気になったことや疑問を書き留めてあるんですが、以前ある方にノートをお貸ししたところ、そこの部分について質問されて困ったことがありまして……もしコピー機を使われるのであれば、そこは目隠しでもしてコピーしないで頂きたいです」
「私的考察ことですね、了解です」
「そんな大層なものではないんですが、あとに残る
のも恥ずかしいので宜しくお願いします」
「コピーは使いません。この連休は結構長いし自分がサボった結果なのでに手書きで写しますのでご心配なくです!」
「それはお気遣い有難うございます」
綺麗と言った方が相応しい見た目と違って真面目な雰囲気の琥原の態度に驚きつつ薫子は、
「では。」
とDバッグからバインダーを取り出すと琥原に差し出した。
「有難う助かります!ではお借りします。連休明け
には絶対お返しします!」
と琥原はべこりと頭を下げた。
そしてその前髪がサラサラと揺れるのを見て、つい
「あの」
と薫子が言うと
「はい?」
びっくりしたように応える琥原。
「目に髪の毛入ると目に良くないらしいですよ」
『しまった!何言ってんの私!』自分で言っておいて驚く薫子。
「やっぱ、そうですよね!俺もそろそろ切らないととは思ってたんだけど、ちょっと色々あって」
「ごめんなさい……差し出がましいことを」
「いえいえ、ご心配有難うです。ノートも有難う、では三枝さんにとって楽しいゴールデンウィークになりますように」
と言って手を振ると前のお三人の席の方に階段を足早に降りて行った。
私は 踵を返すと階段を駆け上がった。後ろの方から香山と草壁の声が揃えた様に
「カコちゃーん!カコちゃーん」と呼び止めるのを聞こえないフリして後ろ扉から講義室をあとにした。
「仲良し四人組!再結集おめでとう!」
と言いながら草壁が階段を降り、香山の席に四人が集まる。
「仲良し四人組って!」
祐希が笑う。
「祐希もやっと大学来たし、カコちゃんも一緒にどっかでお茶でもしたかったのに」
と香山。
「いつ来るかいつ来るかとは思ってたけど、これもう出席日数はギリギリもんだかんね」
と草壁。
「製図とか実験とかはどうする気なんだか?どうかなるんかな?」
とも呟く。
「で、どうよ?祐希」
と木元が祐希に聞いた。
「どうって何が?」
「初めてじゃん、女の子の名前フルネームで覚えたの?」
「え?そんなことない」
「中高とお前に何人もの女子が告って、同じ返事で泣かしたの忘れたのかー?」
「なんだそれ?」
と祐希。
「僕覚えてる!"話したこともないし、名前も知らない人とは付き合えない"だよね」
とクスクス笑う草壁。
続けて香山が
「同じクラスの隣の席の子にすら、その態度だったじゃーん」
「うわぁイケズ!さすが固形炭酸王子!でもどうよ?カコちゃん話した通りのいい子だったろ?」
と木元が言うと祐希が頷きながら
「うんうん」
と返した。
「おいおい素直じゃん?」
このあと話は入り乱れ祐希に他三人がわいわい話しかける展開に。
「だから早く大学出て来いって、あんなに言ったのにさぁ。お前自分からは行かないタイプだけど彼女も世間慣れしてない感じで、お似合いだなって思って!なぁ」
「オレら祐希が来るまでは他の奴らから守らなきゃって、ずっーと眼光らせてたんだぜ」
「そうそうあんなに可愛いのに賢くて優しくて気配りが出来るコそうそういないもん」
「あとガードも堅い」
「ガード?」
「どこに住んでるとか今だに教えてくれない」
「ご両親がきちんとした人なんじゃない?」
「それどう言う意味?」
「あれだけ可愛かったら誘拐とか心配じゃん、だか
ら知らない人とは話さないみたいな教育されてるんじゃないかな?」
「おいおい子供じゃないんだから」
「だからこそ今の方が心配ってこともあるかもしれないじゃん、ここにも下心あるヤツ多そうだし」
「てかお前こそどうなんだよ」
「俺は下心なんてないし!」
「まあとにかくカコちゃんは住んでるところを明さない、帰りはいつの間にかいなくなる、なーんて伝説を次々と作り出してる子だかんなぁ」
「あれもか?ノートを借りた全員がお礼断られ話」
「みんなランチとかお茶とかにも誘ってたけど」
「俺らは、それ見て学習して仲良くする為にノート借りるのやめたくらいだし」
「でもさっきのカコちゃん、いつもと断り方が違ったよね」
「確かに最初から厳しめだった」
「もしかして、つれなくしたのはむしろ祐希に関心持ったからだったりして」
「え!?」
「あれ?祐希、顔真っ赤だ」
他三人大爆笑。
「おい、からかうなよなっ!」
と言いつつ本当に祐希の顔は真っ赤だった。
「祐希のお姫様にちょうどいい気がすんだよな」
「何で、そんなあの子のこと推すんだ?」
「てか、祐希、何気にさっきカコちゃんのこと可愛いって言ったしね!もしかして惚れた?」
「俺!この後どうするか学年担任に相談してから帰るからお前達とは帰らないっ!」
と言い放つと前扉に向かって走って行ってしまったが、その後ろ姿は顔は見えなくても耳まで真っ赤になってるのは一目瞭然だった。
このことを薫子は知らない。
大学生になって初めての長めの連休。
大好きな建物巡りも考えてたのに気分が乗らない。
午前一〇時も過ぎたのに薫子はベッドの上で一緒にゴロゴロしてる愛犬に話しかける。
「ぴーちゃん、あのね、ようやく前の席の人登校してきて、ものすごくキレイな人でって言っても男の人なんだけど…特に目が綺麗なの」
ロングコートチワワのピップスは首を傾げて「ふぅん」と鳴いた。ピップスは父である三枝豊と一緒に小学校3年生頃の建物好きの薫子が、日曜日に恒例化していた散歩=建物巡りをしに出かけた先で、たまたま譲渡会をしていた保健所を訪れた際に出逢った保護犬だ。後ろ右脚に障害を持っていながらも一生懸命小さな尻尾を振りながらヨチヨチ歩いて来る姿に父娘の二人は完全に心を鷲掴みにされ、当日そのまま引き取ってしまい母の月子にどやされた過去がある。
ただ今は三枝家の癒し担当の長男のピップスの名前の由来は海外ドラマで見て知ったピップスグィーク=おチビちゃんの略だ。
中学高校と毎晩遅くまで受験対策勉強をする薫子に付き合って、そばにいつも寄り添ってくれる愛らしい相棒にずっーと琥原祐希の話をし続ける。
「お礼もいりません!なんて、先にはっきり言い過ぎたかなー?ねぇ、どう思う?」
「クン」と偶然とは思えない頷き様だ。
「え?ぴーちゃんもそう思う?」
窓から入ってくる近くに大きな公園があるせいか爽やかな木々の香りの風がレースのカーテンを揺らす。
「早く連休明けないかな……」
「カコー、たまには部屋の掃除くらいしなさいよ」
と階下から母の声が響いた。




