外伝 月子と豊の物語 その⑥
「あっー!生きてる!良かった!」
それは豊の本音だった。
年末の仕事納めの翌日ただボサボサになって髪だけは切りたくて床屋には行った。
その後は寝ては起きて、何か口に入れて、また寝る。今が何時なのか気にしないでいられることが本当に救いだった。
そして、年明けの朝、先ほどの雄叫びだった。
『そうだ、月窓師範のところに新年のご挨拶だけは行かせて頂かないと。月子さんの英語力が上がったかも知りたいし……』
実は仕事納めの後、寝て起きての繰り返しの中、月子の受験勉強のための問題集作りだけは欠かさなかった豊。
しかも職務に忙殺されている中に、こっそり銀座ウエストのドライケーキを手に入れた。もちろん月窓宅への正月の挨拶用だ。
勇んで吉祥寺に向かった。
そして午前十一時、ちょっと前。
豊はいつもの通り、声を掛ける為に勝手に玄関を開ける。玄関には無数の靴。中は大宴会中の様で何やら大騒ぎになっている様だ。
「あけま……」
そしてそこには華やかな中振りの着物姿の月子が立っていた。
後ろ姿なので、その表情を伺い知ることは出来なかったが、美しいに決まっている。
春子が上り框の上から、月子の襟元を直している。
「あら!森内さん!いらっしゃい」
「え!?」
月子が慌てて振り返った。
「先生!」
「え?あ、そうか。あぁ、あけましておめでとう」
「あけましておめでとうございます!今年も宜しくお願いします」
綺麗なお辞儀をした。
春子が豊に上がる様に勧める。
「我が家は今日が親戚縁者、三日が生徒さん達においで頂く日なのよ。でも、気にする様な人はいないから騒々しいけど、どうぞ」
「あ、申し訳ございません。ご親族のお集まりの席には……ここでご挨拶で失礼致します。師範にもお邪魔になると申し訳ございませんので宜しくお伝え下さい」
「いやよ!先生上がって!ほら、早く」
「あれ?月子さんはお出かけじゃなかったんですか?」
「あー、行かない!ちょっと一言だけ行かないって言ってくるから、絶対待ってて!」
月子は豊の返事も待たずに着物につっかけサンダルで玄関を飛び出して行ってしまった。
春子がニヤニヤしながら
「月子ね、中学時代のお友達と近所の神社に合格祈願に行くはずだったの。でもまあ、森内さんはどうしてるかしら?ご飯ちゃんと食べてるかしら?そんなに忙しいお仕事って何させられてるのかしら?って毎日うるさくて……だから良かったわぁ!来てもらえて……。
あら、あの子ったら着物だけで出ちゃって……申し訳ないんだけど、寒くて風邪でもひいたら困るから、このショール持って行ってもらえないかしら?
下池の方で待ち合わせだから多分戻る途中か、話し込んでるか?だと思うから」
「あ、はい。分かりました」
豊は、その場で新年挨拶のお菓子だけ春子に渡すと、月子同様に玄関を飛び出した。
「さてさて、二人はどんな顔して戻ってくるやら、楽しみ楽しみ♪」
春子はふふふと微笑んだ。
「おーい、熱燗つけてくれ!」
中から月窓の声がした。
「はいはい』
と春子はお台所に向かった。
豊が小走りに善福寺公園の下池の方まで駆けつけると案の定、そこで三人の女子が話し込んでいるのを見つけた。
素早く、友達の一人が豊に気づく。
「月ちゃん、あの人?」
「え!!何で、先生?」
「奥さんに、寒いから月子さんにショールを持って行ってくれないかって言われて」
「すみません!わざわざ」
友人達は気をきかせたのか
「じゃ、月ちゃん、私達行くね!」
「後で話はゆっくり聞かせて貰うからね!」
月子が慌てた様に
「何、言ってんの?もう!しっ!」
人差し指を口元にして怒った。
『あぁ、やっぱり可愛い……いかん、いかん。高校生にこんな感情を持ったら犯罪者だ』
「飛び出して来ちゃって……本当にすみません」
月子は手を伸ばしてショールを受け取ろうとしたところを豊が丁寧に月子の肩にかけた。
月子は頬をちょっと染めた。
二人で家まで戻る道。
「あの、先生!私、英語の成績上がりました!」
「え!!ホントに、そりゃ良かったです!」
「定期的に送って下さった問題集が、本当に分かりやすくて助かりました」
「そうですか、頑張ったかいありました!」
『あ、言わなくてもいい事言った?』
豊は一瞬戸惑う。
「先生……やっぱり父がご無理言って引き受けさせて、お仕事もお忙しいそうなのに、大変なんじゃないですか?」
「いやいや、気分転換になりますし」
「あの問題集づくりがですか?」
「はい」
「先生、銀行員なんですよね?」
「あー、そうそう」
「どこの銀行なんですか?」
「口座でも作りたいんですか?」
「いえ、父から森内先生は私の指導は受けてくれたものの、十一月から仕事が非常に忙しくなるらしい、ただ問題集を作って定期的に送るから、とにかく、それだけはこなす様にと仰ってたと……、そんな銀行って、どこ銀行ですか!?こき使い過ぎじゃないですか!?」
顔を真っ赤にして怒っている月子に豊は、また年末の仕事の余韻もあってか、どうしても"何て月子さんは真っ直ぐで清々しいんだ"と思い、ぼんやりとしてしまう。
「先生?大丈夫ですか?ぼんやりなさって……」
「あ!いや大丈夫です。まあ、とにかく、僕のことはご心配無く、本来ならきちんと見ながら指導したいところですが、また一月から三月までも忙しくて、僕に出来ることは問題集作りくらいで申し訳ないんですが……今日も二週間分は用意して来ましたから、きちんとこなして下さいね」
「あ、はい」
心なしか月子は寂しげに見えるも、今の豊には、どうすることもできない。
可愛いと思うことも、これがもしかしたら恋愛感情と言うものなのかも考えることを許されない状況だ。相手は高校生、自分は大蔵省勤めの公務員という立場。
今ここでは何も考えないことが最善策だと考えていた豊だった。




