外伝 月子と豊の物語 その⑤
「森内さん、どうしてるかな」
月子は豊から定期的に郵送されてくる問題集を、それは真面目に何回も繰り返して解く。
単語も新しい単語が出るたびに単語帳に新たに足していく。
熟語も同じ様に覚えた。
『銀行員ってクリスマスも日曜日もない仕事なの?信じらんない……お正月くらいは休めるのかな?』
一方、月窓は、あの後、豊からの告白に正直驚いていた。
「今まで騙していて申し訳ございませんでした!!」
豊に、最初に家にあげた時の様に頭を畳に擦るほど下げられて、慌てた月窓。
『何だか不思議な若もんとは思ったが、まさかあの変り者が東大出の大蔵省銀行局勤めとはな。この時期、予算編成から始まって、年明けも国会答弁の想定答弁書を作るとは……しかも休みなしと来た』
それ故に月窓としては、むしろ豊に月子の家庭教師を何気なく依頼してしまったことを悔やんでいた。
『忙殺されているはずなのに、また几帳面に毎週毎週新たな問題集を送って来よるし。眠る時間はあるのか?豊よ』
「ありません!あり得ません!」
その頃、豊は他の同僚達と民間銀行の決算チェックや年末の金融緩和の調整、さらには翌年の法改正の準備に追われていたが、度々、入る修正に物申していた。
「お前、ちょっと仮眠してこいよ」
と、同期に気を遣われる始末。
この時期の職務と並行して月子の英語の問題集を作成すると言う行為は並々ならぬ努力してと意地の結晶だったのだ。
「すまん。頭冷やしてくる」
豊は屋上に上がった。
霞ヶ関はどこも今騒々しい。
静かな場所はどこにもない。
ただ屋上だけは都会の喧騒が遠くに聞こえるだけだった。
「おやおや森内くん」
「は!」
振り向くと、そこには佐野が立っていた。
「課長、お疲れ様です」
「君もここが好きかい?」
「え?」
「ここは誰も来なくていいよな」
佐野はコンクリートの壁に手をかけ、手にしていたコーヒー缶のニ本のうちの一本を豊に差し出した。
「有難うございます。すみませんお一人のお時間をお邪魔してしまいまして」
「いやいや、今は君を見かけたから追いかけて来ただけだから」
「え?何か、僕やらかしましたか?」
「ふ、相変わらず面白いヤツだな君は。実に誠実で勤勉なのに面白い」
「はぁ、有難うございます」
「ときに、皆がくたびれ果てて仮眠してる時に作ってる書類は何だね?」
『まさか、情報流出を疑われた?』
「兄弟に受験生はいないよな?」
「はい、おりません」
「察するに受験英語の問題集のように見受けたが」
「ご覧になったんですか?」
「さすがの君も隙があると知って、安心したよ。
怪物かと思ってたからね」
「僕なんか隙だらけで……」
「わざと、士気を高めようと怒り出したんだろ?」
「……え?」
「皆、寝てると思ってトイレに立った時に、チラッと問題集は見せてもらった。ずっと寝ないで何をしてるか気になってたからね」
「職務中に申し訳ございません。どんな処罰もお受けします」
「まさか、君の様な人材を手放すもんか。ヨレヨレになるまでこき使うさ。それより、あの問題集の相手は誰なのか?の方が聞きたいね」
「え?お咎めなしですか?」
「だから、理由を聞こう」
「何だって?あの頃そうすると、君、辞職願の為に書道教室に通ってたのか?そりゃあまた」
佐野は大笑いだ。
「そこのお嬢さんの受験勉強の面倒を見てくれないか?と恩師に頼まれて……すっかり職務のスケジュールが抜けていました」
「それで、そのお嬢さんは美人さんなのか?」
「はい。多分女性としては身長がある方で、すらりとしたお綺麗な方です」
「そうかそうか!君、その子に惚れたんだな?」
「え!?何を!違います!本当に師範に頼まれて断れずに」
「あぁ、分かった分かった。じゃそう言うことにしておこう。結婚が決まったら仲人させてくれよ」
佐野はそう言って大笑いしながら去って行く。
その背中に向かって豊は
「本当に違いますから!!」
と叫んだが、内心、思い当たる節はあった。
『まだあの子は高校生だし……だけど、しっかり自分を持ってるきちんとした女性なのは間違いない』
最初に出逢った、あの日、月子に見つめられて動揺したのが始まりだった。
むしろ毎週二人きりで机を囲んで勉強を教える方がしんどかったに決まってる。
心臓の鼓動の高まりを抑えられず、一緒にいると絶えずドキドキしてしまう。
最後に会った時、今後の指導の仕方について話をした際、常に落ち着いた仕草の月子に自分の方が高校生か?と思えてしまうことも、あったくらいだ。
『月子さんはどうなんだろう?あの子から見たら、僕なんてオジサンなんだろうな……』
豊は佐野から貰ったコーヒーを飲み干すと、ちょっと遠くにあるゴミかごに投げ入れて、その場を後にした。




