外伝 月子と豊の物語 その②
『これはどう言うことなんだ?』
「まあ、上がりなさい」
と月窓に声を掛けられて、通されたのは広い板の間の部屋の奥の和室。
手前の板の間も十五畳以上はありそうだが、和室はその半分くらいの広さだ。
その和室の真ん中に、大きな一枚板の立派な座卓が鎮座し、床の間がある方に月窓が座り、下座に豊が座ると、奥さんと思われる女性がお茶を運んできて豊かに茶托に乗せたお茶を出す。
「あらあら森内さん、お座布団使ってちょうだい」
「あ、いえ、このままで大丈夫です……」
何がこれから起きるのかさえ分からない豊は、元々「もう来るな!」と月窓に言われるとしても、下位の者としては、その主人の話の前に座布団には座ってはいけないと横に除けていたのだ。
「あらまあ、やっぱり真面目な方ね」
奥さんは月窓に言い聞かせるように話しかけた。
「うむ」
ただ、そう答えたきり、月窓は元々自分の前に置かれていた湯呑みを片手にお茶を啜るも豊には話しかけもしない。
豊は、お茶に口もつけられない。
とにかく、その家主からの声掛けがなければ、座布団も使わず、出された茶や食べ物にも手を出してはならないと言う躾を両親から受けていた。
飛び込みで期の途中からの入門を迫る非常識とも思われる行動は取るも、それでもきちんと礼儀を尽くした上で挨拶を重ねる礼儀正しい人間でもあった。
だが、やはり豊は変わり者かもしれない。
月窓に話しかけられるのを待つ間、俯いていたのだが座卓の美しさに目を奪われて、ずっとその卓面を触りたい衝動を抑えていた。
それを月窓に気づかれた。
「座卓が気になるのか?」
「は!あの……」
「話してみなさい」
「これは欅でございますよね?」
「わかるのかね?」
「この奥深い赤みを帯びた茶……玉杢や如意杢の波打つような美しい木目……樹齢は三百、いや四百年ほどの逸品でございましょうか?」
「樹齢は五百年ものと聞いておる」
「それは申し訳ございません!ここまでの美しい一枚板を見たことがなかったので!若輩者の戯言とお許し下さい」
慌ててその場から退くと月窓に頭を畳に擦り付けるほどまでに頭を下げながら謝罪をする豊。
「面白い!気に入った!入門を許可する」
「え?!」
豊は我が耳を疑った。
今日で丸一ヶ月、節目のようなつもりで来たようなもので、最後のご挨拶のはずだった。
「聞こえなかったか?」
「は?言え!勿体無いお言葉を有難うございます!
どうぞ宜しくお願い致します」
また豊は頭を下げた。
「ただ、気になることがある」
「はい、何でしょうか?」
「急いでいるのには理由があると、お前さん、言っとったよな?理由を聞きたい」
「それは……」
豊は、月窓に促されて誠に恥ずかしながらと話し始めた。
上司からの職務のことに関わらない言われのない誹謗中傷に、ただの新人を鍛えていると言うには度を越しており、自身の我慢の限界が近いこと。
ただ普通に辞職願を出すだけでは気持ちが治らないと言うこと。
そして思いついたのが、筆による美しい楷書の辞職願を書くことだったと告げた。
「普通の奴なら考えもしなさそうことを。よくもまあ一ヶ月もかけてまで、ここに通ったもんだな」
「はあ、ですが、どうしても積もりに積もった、この気持ちを形にしたいと考えまして……。あとその」
「なんだ?」
「扁額が」
「扁額がどうした?」
「扁額の先生の文字に僕は呼ばれました」
「そうか……文字に呼ばれたか」
その日から豊は、月窓の門下生となった。
仕事上、万年筆や鉛筆、筆書きも必要なこともあり、全くの素人ではないが癖もある為、矯正の意味合いで最初の基本、平仮名"いろはのい"からの指導ということになる。
「お前さん、先行きは長さそうだな」
月窓は大きな声で笑った。
手習は次週からとなったが、日曜日の午前九時からの大人の門下生とは既に差があり過ぎるため、その前の時間、七時から九時までの二時間を豊のために個人教授してくれることとなった。
「筆、墨、硯、半紙、矢立※1 、敷物などは適宜持参」
「はい!」
「筆は使い慣れたものでも良いが、いいものはより美しい文字を描くことが出来る」
「描く……はい!分かりました」
「日曜の朝、ここの窓は早くに開けておく。墨を磨って待つがいい。時間は有限だ」
「はい!有難うございます」
そして、翌週、豊は月窓から言われた通り、朝は五時半には着くように来てみると窓の鍵は既に開いていた。
墨を磨る為と、後からの新入生としての礼儀として持参した掃除道具で家人の迷惑にならないように静かに掃き掃除の後、雑巾で、板の間と和室を乾拭きをすることにした。
数分後、ようやく畳んである個人用の小さい座卓を広げる。
その上に持参した新聞紙を広げ、硯、墨を出し、矢立に筆を差す。
半紙は五十枚ほどひとまとめにし、半紙挟み※2 に美しく挟んであったものを膝下に平らに置きなおした。
そして水筒に用意した水を硯に垂らすと、徐に墨を磨り始める。
円を描くように丸く丸く、心を穏やかに無心で磨る。
図らずも己との対話の時間となることを、この時初めて豊は知った。
※1 矢立 筆を立てていれる筆差し
※2 半紙挟み 今でいうクリアファイルのような二つ折りの布製(または紙製)のもの。




