第百三十四話 会いたい相手
実は、薫子にはこの後どうしても行きたい所があって上野に戻った。
低層マンションの一室の前でドアホンを鳴らさず、小さくトントンとノックするや否やドアが開き
「カコちゃん!」
桜が薫子に抱きついた。
ちょうど少しの時間虹子のネンネタイムと知っていて、小さくノックをした薫子。
桜はその薫子を招き入れるとリビングに誘いダイニングテーブルに座わらせた。
もう用意をしてあったかのように薫子にマグカップに入れたカフェ・オ・レを差し出す。
「桜さん、さっきはごめんなさい」
「一緒にいた人に会わせたくなかったんだよね?」
「はい、稲垣直希さんです」
「あの人が?」
祐希がいなかった夏休み、パースの練習に数回上野を訪ねた際、本当にたまたま散歩中の桜と虹子に会った薫子は、その後「いつでも寄って」と桜にお宅に誘われて、実は数回お邪魔をしていた。
桜は本当にざっくばらんな性格で、考え過ぎる薫子を遠慮なく怒ってくれたり、祐希がいない事を寂しがる薫子を慰めてくれたりと、歳は離れているものの姉の様な存在になっていた。
「髪を見たら違うって分かったけど、後ろ姿だけなら祐希かと思ったわ」
「私も前髪を下ろした私服の先生は初めてで、あまりにも琥原くんに話し方とか笑い方とか似ていて戸惑ちゃって、しかも今日は同じ香りがして……」
「ていうか、どうして直希さんと会ってるの?」
「それが……」
話せない事や話したくない事もあったが、なんとなく事情を理解した桜に薫子はこう言った。
「私、もう何が何だか分からなくて……私のことを理解して寄り添ってくれる人が好きなのか、元々同じ様な考え方を持っている人だから気になるのか……」
「カコちゃん、祐希のことを知ってるから言う訳じゃないけど……直希さんは策士だと思う」
「策士?」
「多分、全部計算づく。今回のスタイリングも全部リサーチ済み。それと祐希の性格もよく分かってるから、カコちゃんのことを直希さんが気に入ったって分かったら身を引くって言うことも計算済みだと思うよ」
「どうしてですか?何故、琥原くんが直希さんに私を譲るんですか?」
「あの兄弟の境遇聞いたんでしょ?祐希はね、あの裕子さんと直希さんから自分の母親が夫とお父さんを奪ったと思い続けてるのよ」
「え?」
「だから自分よりも、兄さんの方にって」
「そんな……私の気持ちは?」
「何だかんだ言って兄さんっ子だから、いつも言ってたの。兄さんなカッコよくて頭も良くて優しくてって。そこに今度は権力と財力がプラスされたんだから、勝手にカコちゃんは兄さんの方が幸せに出来るとか思ってんじゃない?」
どこかで祐希がくしゃみをした。




