第百十九話 脱兎のごとく?
すっかり直希のペースに呑まれて落ち着かないと、と思った薫子。
「ちょっと」
と言って席を立つ。
ボーイがすかさず駆けつける。
さすが高級ホテルのラウンジは行き先を告げずともレストルームに誘導された。
そして、その中も落ち着いた雰囲気になっている。
個室の中にこもった薫子は
『考えろ考えろ……この後いくら何でも二人きりで居続けるのは怖い……高見沢教授が警告してくれたのに……そうだ!このまま帰っちゃおう!お金はないけど、赤坂からタクシー代とかどのくらいかかるかも分からないけど家まで帰れれば……あ!中にアテンダントがいた……チップなんてないんだけど』
とりあえずバッグを開けてみると支配人が話してくれたハンカチ、ポケットティッシュ、口紅。
『用意良すぎ』
和紙の様な紙に包まれた、多分五百円札と思われるものが五束入っていた。
個室から出て手を洗うと、さりげなくアテンダントが温かいタオルを差し出す。
薫子はそれを受け取ると手を拭い、アテンダントに返す。
外に出る前に置かれていたトレーにチップを置くと
「有難うございました」
と軽く頭を下げた。
そこにはボーイが席に誘導する為に既に待ち受けている。
ここで薫子は賭けに打って出た。
「あの、裏口にタクシーを呼んで貰うって出来ませんか?」
ボーイは慌てた様に返す。
「お客様、稲垣様は私共に取りまして大事なお客様でございます。その方のお連れの方を勝手にお返ししたとなりますと……」
皆まで聞く前に『手段無し』と薫子は理解した。
そしてボーイの上着のポケットにチップをさりげなく差し入れる。
「ごめんなさい。忘れてください」
ボーイが深々とお辞儀をして応えた。
結局、また同じ席に戻る。
「失礼しました」
直希に声を掛けた。
「あまり食べてない様だけど……大丈夫?」
「あ、大丈夫です」
ホース・ネックに手を伸ばし二口飲む。
考え事をしたせいなのか喉が渇いていた。
心配されるのも厄介だと思って野菜スティックを手に取った。
『食べ物を粗末に扱うのは本当はしちゃいけないけど……先生もあまり召し上がらないし……琥原くんだったら美味しく一緒に食べられるのに』
その後、直希は宿題の件を話し始める。
高見沢教授から聞いた過去と違わず、光希の研究内容をコンパクトにまとめた上ではあるも、"瑠璃子と現在の祐希の存在には触れず"どうして研究が継続されなかったか?という話だった。
「結果、あの人の考え出した理論はあの人以外引き継げる様な器の持ち主がいなかったという事だよ」
「光希先生がお父様と言う事を知らなくて、そんな立ち入ったお話まで申し訳ございません」
「いや、そんなこと……巷では普通に知られている話だよ」
「それでも……」
「優しいね薫子さんは」
「すみません。世間知らずなんです」
「いや、君と話していると日頃の煩雑な日常から解放される様で癒される」
薫子は夜景を見ながら、何かにつけて気遣いをしてくれる直希といると琥原くんといる様な錯覚に陥いる自分に震えた。
「そろそろデザートでもどうかな?ここのアップルパイはお勧めなんだが」
時計がドレスに合わないと取り上げられて薫子は時間さえ分からない。
「では、お願いします」
これが終われば帰れると思ったのだ。
その時、不意に眩暈がして、
「ちょっと気分が……失礼していいですか?」
振り絞るように直希に訴えて立ち上がろうとするも足に力が入らない。
「薫子さん、僕に掴まって」
その後、薫子は気が遠くなった。




