アマンデースと我邪丸
時雨が一刀と別れ、港へ戻るその少し前、トーマスの異人館の中では、睡蓮が深刻な体調不良に悩まされていた。
松本は、額を押さえて苦しむ睡蓮を見て、声をかけた。
「おい、どうした、睡蓮?頭痛いのか?」
睡蓮は、顔色を悪くして、その原因を説明した。
「神戸に着いてからどうも鼻につく香りが纏わり付いて離れない。気分が悪い」
静は、鼻をひくつかせたが、睡蓮が訴えるほどの刺激は感じられなかった。多少、屋敷の中はタバコの匂いがしていたがそれほどひどいとは感じられない。それは香水の匂いが覆い隠しているからであろうか。
「少し香水の匂いがあったけど、それほど気になるようなきついものでは……」
それは、睡蓮の感覚が特殊な反応を示していることを意味していた。睡蓮は、吐き気を催すような不快感を訴えた。
「外で風に当たってくる。船酔いしているような感覚だ」
彼女は、ふらふらと覚束ない足取りで、部屋から出て行った。
静は、残された松本に不安を漏らした。
「大丈夫かしら?――一刀も行ったきり戻ってこないわね」
松本は、一刀の強さを信じつつも、睡蓮の状態をより心配した。
「一刀なら平気だろう? 睡蓮の方が危ないだろう、あの足元。部屋で寝てりゃいいのに」
悪魔の策による体調の悪化か、あるいは神戸という土地に潜む何らかの難儀の影響か。睡蓮の異変は、新たな問題の予兆となった。
時雨を見送った一刀とトーマスが、異人館の門をくぐり、屋敷へと戻ろうとしたその時、ふらふらとした足取りの睡蓮が、二人の横を通り過ぎた。
一刀は、その顔色の悪さにすぐに気づき、声をかけようとした。
「睡蓮、大丈夫か? どこへ行く――」
しかし、睡蓮は、一刀の心配を無視するかのように、一瞥もくれず、そのまま外へと出て行った。彼女の意識は完全に体調不良に支配されているようだった。
一刀は、その異様な様子に強い胸騒ぎを覚え、すぐに彼女の後を追った。
「待て! 睡蓮!」
一刀は、躊躇したつもりはなかった。門から外へ飛び出し、彼女が進んだであろう方向へと目を凝らした。
しかし、それほど長い距離を歩いたはずもないのに、睡蓮の姿は、もうどこにも見えなかった。
「まさか……」
一刀は、時雨との交戦でわずかに時間を使ってしまったことを後悔し、辺りの捜索を始めた。体調の悪い睡蓮が、これほど短時間で消えるはずがない。
新たな難儀が、再び一刀たちの仲間に忍びったことを、一刀は直感した。
一刀の捜索も虚しく、睡蓮は意識が朦朧とする中、ある場所へと引き寄せられていた。
睡蓮は、頭痛と吐き気に耐えながら、目を開けた。
「ここは?」
彼女がいたのは、見渡す限り異国風の墓石が並ぶ、神戸の外国人墓地の中だった。あたりは人気が全くなく、静寂に包まれていた。
その不気味な静けさを破り、異形の者たちが睡蓮を取り囲んだ。
一本の木の上に、一人の男が優雅に腰掛けていた。彼はキザなタキシードに身を包み、人間と見紛うばかりの容姿をしていたが、その瞳には悪魔の冷たさが宿っていた。
睡蓮のすぐ目の前の土中からは、おぞましいガマガエルの姿をした難儀(業霊武)がぬっと出現した。
さらに、大柄な体躯を持つ我邪丸が、厳つい表情で睡蓮の退路を断つように立っていた。
木の上のタキシードの悪魔は、まるで獲物を品定めするかのように、優雅に微笑んだ。
タキシードの悪魔が口を開く。
「ようこそ、可愛らしいお嬢さん。ここは少しばかり静かすぎるが、君の永眠の地としては悪くないだろう?」
睡蓮は、体調の異変が、この悪魔たちの罠であったことを悟った。彼女は、意識を集中させ、神具の鎌を構えた。
木の上に座るタキシードの悪魔は、優雅に睡蓮を見つめた。
「美しい女性には、美しい香りと、死がよく似合う」
彼の言葉には、退廃的でロマンチックな、悪魔的な耽美主義が感じられた。
それに対し、肉体派の我邪丸は、野蛮な価値観を主張した。
「美しいってのはさ、残酷にゆがんだ顔だよぉ。いい香りってのは、やっぱり血の匂いだよなぁ」
我邪丸は、痛みと破壊の中に美を見出していた。
タキシードの悪魔は、我邪丸の野卑な意見に少しだけ失望したような表情を浮かべた。
「やはり、君とは半分ぐらいしか価値観の共有ってやつができないんだねえ。我邪丸君」
我邪丸は、タキシードの悪魔――アマン・デースに同意しないことを、荒々しく突きつけた。
「アマン・デースよぉ。お前と価値観なんて微塵も合わねえよ?」
タキシードの悪魔はアマン・デースと言うようだ。
アマン・デースの優雅な退廃主義と、我邪丸の野卑な暴力主義。二つの異なる悪意に囲まれながら、睡蓮は一切動揺を見せなかった。
「そんなことはどうでもいい」
睡蓮にとって、彼らの内輪の論争は無意味だった。彼女は、刀司としての信念を鋭く表明した。
「どちらもゲスに変わりはない。悪魔は排除あるのみ」
睡蓮は、体調の不調を精神力で抑え込み、手に持つ神具の鎌をしっかりと構えた。彼女の殺意は、体調の異変にもかかわらず、一切衰えていなかった。
睡蓮の殺意を前にしても、アマン・デースは余裕を崩さなかった。
「まあまあ、血の気の多いお嬢様だこと」
彼は優雅に身振りをしながら、睡蓮へと対話を促した。
「――まだ、私たちは出会ったばかりじゃないか。そう、死に急ぐ事もない。ゆっくりと語り合おうじゃないか」
彼は、外国人墓地という場所の特性を利用して、睡蓮の警戒心をさらに削ごうとした。
「ここは静かで落ち着けるだろう? 人気もないし、昼間でも誰も気味悪がってここには近づかない。語り合うにはぴったりだ」
アマン・デースは、睡蓮がいる外国人墓地という場所の残酷な現実を、優雅な言葉で突きつけた。
「人が一人消えたところで、そう、墓標が一つ増えたところで、誰も気に留めもしないのだから」
彼の言葉は、この場所が社会から隔絶された、死を隠すには最適の場所であることを示していた。異国の地で行方不明になっても、刀司の組織でさえすぐに察知できないだろう。
アマン・デースは、睡蓮の命が、ここでどれほど軽いものとして扱われるかを強調し、彼女の戦意をさらに挫こうとした。




