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青い空

時雨が紹介してくれた堅固な宿で、一刀たちはつかの間の休息を得ることとなった。宿の女は口が固く、彼らの素性を詮索することもなく、幼子にも食事を与え、面倒を見てくれた。


休息と並行して、松本と睡蓮は、交互に町へ出て情報収集にあたった。彼らは、三浦雪舟の屋敷で起きた惨劇の顛末について、様々な噂を聞きつけることとなった。


三浦雪舟は、屋敷で起きた凄惨な騒動の最中、何者かによって殺されたこと。

屋敷にあった珍しい舶来品の数々は、徹底的に壊されていたこと。

そして、雪舟が持っていたという門外不出の珍宝を眉目秀麗な旅の男が持ち去ったこと。


その間、しずかは、看病と休養なしの旅、そして睡蓮の村で負った精神的・肉体的な疲労が一気に噴き出し、高熱を出して倒れてしまった。


彼女は、守り人としての役割を果たすために、極限まで心身をすり減らしていたのだ。一刀と松本、そして宿の女は、交代で静の看病にあたった。


この静の療養のため、一行は三週間ほど、この秘密の宿に滞在することとなった。その間、彼らは体力を回復させ、赤目の目的と忍びの里の刀司について、集めた情報をもとに深く思案をせた。


一刀たちがつかの間の休息と情報収集に励む一方、宿を後にした兵藤時雨は、赤目の指示に従い、指定された場所へと向かっていた。

その場所は、この町と赤目八目党の本拠地である『忍びの里』の、ちょうど中間に位置する深い森の奥だった。


時雨がそこに辿り着くと、異様な光景が目に飛び込んできた。


森の静寂を破るように、一本の大きな木に、一人の男が縄で吊るされていた。

その男こそ、三浦雪舟に偽物の『難儀の蓋』を売りつけ、本物を源兵衛に高値で売ろうとしていた、あの盗人だった。


盗人は、衣服は引き裂かれ、身体のあちこちが血と泥で汚れていた。その肉体は、想像を絶するひどい拷問を受けたらしく、虫の息で、かすかな呼吸を繰り返しているだけだった。


時雨の知識からすれば、これは「生かさず殺さず」、情報を引き出すための最も残酷な手法で扱われている状態だと理解できた。


その拷問の現場には、誰もいないかのような静寂が漂っていた。しかし、時雨の研ぎ澄まされた忍びとしての感覚は、誰かの視線を感じずにはいられなかった。


「……赤目様」

彼は、木々の陰に、優雅な着物を纏った赤目が、冷たい表情で拷問の痕跡と、吊るされた盗人を監視していることを悟った。


時雨は、自分の運命と、この盗人の運命が重なり合っていることを感じながら、冷酷な刀司の前に、跪いた。


時雨が、木々の陰に立つ赤目に向かって、静かに跪いたその時、赤目は静かに言葉を発した。


「時雨、ご苦労であった」


赤目の言葉は、労いの響きではなく、任務の終わりを告げる断罪の宣告だった。


「もうよい。お前には、ほとほと愛想が尽きた」


時雨は、全身の血の気が引くのを感じた。


「赤目様……」


彼は、すがるような、震える声を絞り出すが、赤目はその声には何も答えなかった。


赤目は、吊るされた瀕死の盗人に近づき、そのひどい拷問の傷に、何かを冷たい手つきで押し込んだ。それは、悪魔の残骸の粉末か、あるいは凝縮された『業』の塊だったのだろう。


「グ、アアアアアアアア!!」


盗人は、最後の力を振り絞ったような、深く鋭い雄叫びをあげた。

赤目は、表情一つ変えずに、盗人を吊るしていた縄を切り裂いた。


地面に落ちた盗人は、苦悶の声を上げながら、見る間に、醜悪な魔物へと変貌し始めた。悪魔の残骸が、人間の肉体と極限の苦痛、そして欲望を燃料に、新たな難儀を生み出したのだ。


赤目の目的は、盗人から情報を聞き出すことと、そして時雨に『規律通り』の任務を与えることだった。


魔物へと変貌した盗人をその場に残し、赤目は時雨に目をくれることもなく、音もなく森の奥へと立ち去った。


「規律通りに」――それは、任務を遂行できない落ちこぼれに対する、組織からの冷酷な断罪の命令だった。


森の中に一人残された時雨は、腰を抜かして立てない。目の前の魔物は、獰猛な咆哮を上げることなく、その巨大な異形を揺らしながら、ゆっくりと時雨に近寄る。


時雨は、ついに自分の番が来たことを悟った。死の予感に、全身の血が、一気に凍っていくような錯覚にとらわれる。


時雨は、ついに自分の番が来たことを悟った。死の予感に、全身の血が、一気に凍っていくような錯覚にとらわれる。


時雨は、土を蹴って後ずさりながら、意識の隅で、つい先ほどかけられた一刀の言葉を思い出した。


「君は全然弱くない! なんでそんなに卑屈になるんだ。胸を張れ!」


一刀の力強い激励が、時雨の心の中の卑屈さを、一瞬だけ打ち破った。


「胸を張れ……」


恐怖のあまり、魂が抜けたようになっていた時雨は、その言葉によって我に返った。


彼は、逃げ腰の体を無理やり前に押し出すように立ち上がった。

そして、死を目前にして、自分のことばかり考えていたことを恥じた。彼は、忍びの里の仲間たち、銀や緑、そして既に殉職した仲間たちの真剣な顔を思い出した。


彼らは、難儀を討ち、この国を守るという使命のために、己の命を投げ出したのだ。


(僕は、彼らのために何をした? 何もできなかったじゃないか!)


時雨の心に、一刀の激励と、仲間の顔が浮かぶ。


魔物は、時雨の逃げ腰が消えたのを見て、咆哮を上げた。

常軌を逸した力をもって、魔物は大きく伸びた爪で、時雨の右肩を引き千切ろうと襲いかかった。

誰もが時雨が吹き飛ばされると思った、その瞬間。


時雨は、一歩も引かず、むしろ自ら前へと踏み出した。


恐怖が使命感に変わったとき、彼の内に秘められていた力が呼び覚まされた。彼の頭の中には、銀や緑と共に過ごした、忍びとしての鍛錬の日々が、走馬灯のように巡った。

あの厳しく、冷たい修練の日々。

ただひたすらに、難儀を討つためだけに費やした時間。


時雨は、恐怖に押し殺されていた刀司としての本能を解放した。


「僕だって、刀司なんだ!」


時雨は、自分の身一つで、独自の技を繰り出した。


残影飛雨ざんえいひう!」


目にも留まらぬ速さで、時雨の体は舞い踊った。光の短刀こそ持っていないが、彼の体に刻まれた忍びの技は、純粋な霊力と結びついた。


無数の斬撃が、雨霰あめあられのように、魔物の甲殻に降り注いだ。魔物は、雄叫びを上げる間もなく、その巨大な肉体を細切れにされ、跡形もなく打ち砕かれた。


時雨は、魔物を打ち砕いたという現実を、すぐには受け止められなかった。

彼の右肩は、魔物の爪で深く抉られており、激しい痛みが全身を襲っていた。しかし、その肉体の痛みよりも、自分の力で難儀を討ち果たしたという驚きと感動の方が、遥かに大きかった。


彼は、血と汗に塗れたまま、その場に仰向けに倒れ込んだ。下に敷かれた枯れ葉が、わずかなクッションとなった。


上を見上げると、深く暗い森にもかかわらず、木漏れ日が差し込み、その向こうには雲一つない、透き通るような青い空が広がっていた。


時雨は、そのあまりにも鮮やかな青を見つめ、言葉を絞り出した。


「こんな青い空、生まれて初めてだ」


これまでの彼の人生は、劣等感と不幸に満ち、いつも地面ばかりを見ていた。赤目や銀といった優秀な刀司たちに見下され、死に怯え、自分の不甲斐なさという暗い影に覆われていた。


しかし、一刀の激励と、最後の勇気をもって自分自身に打ち勝った今、彼の目に映る世界は、全く新しい色を帯びていた。それは、己の存在価値を見出した者だけが見ることのできる、希望と解放の青だった。


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