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「ぐっ!?」
引き倒されたにも関わらず六尺棒だけは手放さなかったのは幼き頃からの祖父による修練の賜物であったのだろう。自分を暗黒の深淵へと引き摺り込もうとうごめく何かに――己の脚に絡み付く何かに対して優星はその六尺棒で必死に打ちかかった。
元より転がされた無理な体勢からの一撃である。全力を込める事自体が不可能であった訳だが、それが優星にとっては幸いに作用した。
「ぐっ!?」
棒の一撃が、彼の右足を鈍く打つ。絡み付く何かではなく、彼自身の脚を。
まるでそこには何物も存在していないかのように。
それでも何らかの影響は及ぼしたのであろうか。それまで彼を引き込もうとしていた一連の動きが止まる。脚の痛みに愕然としつつも、ヘルメットの灯りによりようやく自分の脚に絡み付いているソレの姿を目視できた優星であったが、その奇怪な正体に言葉を失う。
一言で言い表すならば、それはタコの脚を思わせる人の腕程の太さの触手であった。吸盤こそ備えてはいないツルンとしたタコ脚は、まるで霞のように半ば透けており、実体があるのかどうかも定かではなかった。脚を締め上げる確かな圧を感じるにも関わらず、己の脚を優星が視認できるくらいの透過度であった。
優星の全身が総毛立つ。
実体の無い――すなわちこの世のものではないモノ。自分の脚に絡みつくモノがそうだとすれば、自分の杖の一撃が触手を擦り抜けたのだと、己の脚に生じた痛打にも納得がいく。
かつて祖父が語っていたところの、この世のモノではない妖の類。自分の一撃が擦り抜けた以上、抗う術などある筈も無い。
焦燥が優星の心を覆う。その絶望感に呼応するかのように、それまで怯んでいた触手が再び優星を暗黒の深淵に引き摺り込もうと動き出す。
彼をこの場に導いた鈴の音はもう聴こえない。だがその代わりに彼の脳裏に響いたものは忌まわしい記憶からの声。彼が生涯拭い去ることができないであろう過去からの叱責であった。
――未熟者!
あれはいつのことであったのか。中学に上がる直前か、或いは直後か。祖父のいつにもまして厳しい叱責が優星の心に深い傷となって残っている。
人の気配など皆無の桜香山の裏手の、夜の闇を前に怯える彼に対して祖父が怒気を含んだ声を荒げる。
『幽霊、怨霊を怖れるのは人の常かもしれん。だが霊体であれこの世の理に縛られていることを忘れるな』
六尺棒を床に突き立て、少しでも触手の動きに抗おうと試みる優星の脳裏に、更なる祖父の叱責が甦る。
『姿を現すだけならば畏れることなど何もない。だが、もしこちらに直に仇成す輩であるならば、こちらが一方的に嬲られる道理無し!』
(言ってることが回りくどいんだよ、爺さん!)
脳裏で優星が毒づく。
(殴られたら殴り返せる。それができないってことは、俺が恐怖で萎縮してだけってことだろっ!!)
優星が瞳をカッと見開き、短い息を二つ吐く。半ば闇雲であった先程の一撃とは異なり、自分の脚を絡め取る触手をしっかと見据えて再度の鋭い一撃を見舞う。
半透明であることなど端から無視した。ただ打つと念じ、そして打った。
恐怖も焦燥も無い、狙い定めた一撃。腕に伝わる確かな手応えに、彼の脳裏に再び祖父の教えがこだました。
『畏れを覚えるのは恥じることではない。だが怖れに呑まれるなど恥ずべきことだ』
触手がズルリと彼の脚から離れ、【戸口】の奥に広がる闇の中へと再び引っ込む。闇の表面に湖面に石を投じたような波紋が広がる。
ハァハァと荒い息を吐き、六尺棒に縋り立ち上がる優星。防具代わりに厚手の服を着込んできた事により、石畳を引き摺られはしたものの怪我らしき怪我は負っていない。せいぜいが口の中を切ったくらいであろうか。軽く手足を振り骨に異常が無いことを確認する。
だが優星に許されたのはまさに一息つくだけの間でしかなかった。
「――!」
立ち上がり息を整える優星の眼前で、闇の表面が膨らむ。全身に吹き付ける“圧”に、優星は思わず六尺棒を両手で握り直し身構えた。
“闇”を割るように奥から出現したソレはどこか肉厚のサボテンを思い起こさせる、優星より頭三つほど高い異形の怪物であった。緑がかった灰色の表層は不定形に脈打ち、樹木で云う“幹”からは幾本もの太い触手が生え石畳の上をのたうち回っていた。
半透明でこそなかったが、その蠢く触手こそが先程まで自分の脚を捉えていたモノと同一であることは一目で分かった。
「化け物がよっ!」
切れた口の中から血唾を吐き捨てつつ、優星は改めて眼前の無謀の怪物に対し六尺棒で威嚇する。とは云え頭上からの“圧”は強大なものであり、蠢く太い触手に対し彼の手にした棒は相対的に如何にも細く頼りなく見えた。
「……」
だが、背を向けて逃走するという選択は今の優星の頭の中には欠片も存在しない。
代わりにその頬を、一筋の涙が伝った。
覚悟を決めた今、怖れによる涙ではない。それは後悔によるものであった。
3年前のあの冬の夜、自分が妹を――結夢を残して神社を飛び出しさえしなければ、こんな化け物に好き勝手させなかった。
実際の所、自分が居たところで目の前の化け物どころか震災そのものをどうにかできたかというと危うい。心の奥底では、優星自身もそれは理解できていただろう。
だが、今の彼の脳内に沸き上がるのは激しい悔恨だけであり、不甲斐ない己への憎悪の念のみであった。
優星が六尺棒の先端で小刻みに石畳を突く。棒の両端は赤銅色の金具で覆われており、かつそれぞれに穴が貫通していた。一見すると持ち運びの為に紐か何かを通す穴とも思えたが、それにしては細過ぎた。
その金具が石畳を突く鈍い音が、次第に周辺にこだましていく。
「見せてやるよ、相馬流杖術……!」
いくら一対一だとは云え、得体の知れぬ怪物を相手取るその行為を蛮勇だと嗤う者もいるだろう。だが、妹の鈴の音に導かれた彼にとって、もはや理屈ではなかった。その音を追うために、なんとしても突破する必要があった。
実際の所、彼に覆い被さる形で見下ろす化け物が発する威圧感は、その巨体も相まって強大なものであった。啖呵を切った優星ではあるがそこから遮二無二打ち掛からなかったのはそれが原因でもある。
だが、手にした六尺棒を大きく一回転させ、ジリッと化け物に半歩にじり寄った瞬間、新たな異変が生じた事を優星は知った。
彼の背後――すなわち【戸口】をくぐる前の玄室のあった方角から爆音が響く。何かが落下したとした思えない轟音であったが、その衝撃により己の体が一瞬浮き上がったかと錯覚する程にそれは激しいものであった。
「おおおおおおおおぅっ!!」
優星が肩越しに一瞥を向けるよりも早く、荒々しい雄叫びが地底を揺るがさんばかりに轟いた。
(何だっ!?)
【戸口】を貫いて響く咆吼が、澱んだ空気を吹き消す突風と化して優星の背中を叩く。
驚愕に大きく目を見開いた優星が、化け物と対峙しているにも関わらず反射的に背後を振り返りかけ、そしてその迂闊さに寸前で思い留まる。
辛うじて前方の怪物への注視を続けた優星であるが、自分以上に眼前の化け物が大きくたじろいだことを知った。
(――怯んだ!?)
姿こそ異形であることに圧倒されたが所詮は獣の同類かと、優星は化け物の当惑に秘かな安堵を覚える。頭上からのし掛かる“圧”すらも、大きく減じたように感じられた。
『化けの皮が剥がれたのだ』――祖父ならばそうもっともらしく告げたであろうと妙な愉悦すら覚えた程であった。
気を抜くなと、神妙な面持ちとなった優星のその橫を、巨大な黒い影が重い足音と共に駆け抜けたのはまさにその時であった。
閉鎖空間を吹き抜ける一陣の突風――そうとしか形容できない勢いであった。
だが、嵐のように突撃して来たその黒影が化け物の眼前、すなわち優星に壁のような背中を向けて一旦は止まる。




