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「!?」
踵を返そうとした優星の耳に、ある音色が届いたのは正にその時であった。
重い沈黙を湛えていた暗黒の奥底から鈴の音が一度だけ――ただ一度だけ響いた。
優星が鬼気迫る形相で大穴の淵に身を乗り出し、その暗黒の奥底を改めて覗き込む。
耳に届いた鈴の音が、優星の脳裏でだけ幾度も幾度もこだまする。澄んではいるが、特に独特な音色という訳でもない。しかしそれが妹が肌身離さず身に付けていた鈴の音であることを優星は何故か、そして強く確信していた。
呼んでいる――否、呼ばれているのだということが分かる。地獄の窖からバケモノの類が手招きしているという考えは、この時の優星の頭には微塵も浮かんでいなかった。
(結夢…!)
意を決し、大穴の淵を乗り越え石の降り階段に足を踏み入れる。石段そのものは幼き頃から見知ったそれと同一のものである。壁面は無く、まさに階段のみが宙に浮遊しているようにしか見えない。
石段そのものも人がすれ違える程度の横幅しかない為に、脚を踏み外さないように手にした六尺棒で進む先を突きながら注意深く降りて行く。
棒の先端が石の表面を打つカツンという音が時折響くのみで、鈴の音は二度とは聴こえてきはしない。それでもせめて降りの終点までは見届けたいと、優星は更なる歩みを進める。
正気の沙汰ではない。だが、妹への執着が彼を不退転へと駆り立てたのである。
無論、悪い意味で。
*
窖へと伸びる石段を降り始めた相馬優星。
地へと消えていくその姿を、やや離れた場所から木々に紛れて見送る二つの人影があった。
一つは如何にも頼りなさげなヒョロリとした優男であったが、その背後にはそれとは対照的な巨漢が護衛のようにムンズと控えていた。巨漢の頭部はモトクロス用に似たフルヘルムで覆われ、全身の重装備も相まって首が無いようなズングロとした風体であった。
やがて秘かに見守る彼等の前で、優星の姿が窖の奥に完全に消える。それを見届けてから、始めて優男が呟く。
「今宵奇縁有り、か……」
「おばばの占いを疑う訳じゃありませんが」
それに応える巨漢の声は、フルヘルム越しであることもあってか非常にくぐもったガラガラ声に聴こえた。
「ありゃぁ、単なる人間にしか見えやしませんぜ」
「さて、どうかな……」
優男が顎に手を当てながら独りごちる。
「あの足運びに手にした六尺棒。なにがしかの心得があるには違いあるまい」
茂みから身を晒し、歩み始めながらも優男が背後の巨漢を仰ぎ見る。向かっている方角は、言うまでもなく件の大穴である。
「ま、些か素性の心当たりが無いでもない」
けだるげに首をコキコキ鳴らしながら優男は巨漢に告げた。
「さて、追うぞ」
*
地下の大穴の暗闇を満たす、身にまとわりつくような湿気とぬめり。
その只中を優星は独り慎重に歩を進めていた。始めから夜間の探索であった為に光源だけは準備してあった。彼のヘルメットにはヘッドライトが装着されており、そのいずれもが市販品である。
元より四百段を超える神社の石段ではあったが、果たしてそのままの長さで地に降っていたのか。
優星が石段を降り終えるまで10分とかかりはしなかったが、体感としては永劫に近い孤独な探索行であった。
この地下に伸びる不可思議な石段を降りきれば神社本殿に辿り着くのではないかという優星の淡い――そして都合の良い――期待は見事に裏切られることとなった。
そもそも石段自体が真っ直ぐに地底に伸びる造りとはなっていなかった。ビルの側面に備え付けられた避難階段のように、螺旋状とまではいかないが幾重にも折り返しながら地下へと伸びていたのである。
踊り場こそ無い造りであったが、足下の石段そのものは幼い頃から見慣れた光景であったが故に、優星にとって日常がねじ曲げられたという不快感を一層強くしていた。人がすれ違える程度の幅の石段の側面には“壁”が無く、少なくとも頭部のヘッドライトでは周囲の暗黒の向こう側がどうなっているか照らし出すことはできなかった。
頭上の元来た道を見上げてみれば、石段自体が宙に浮かんでいる構造であることが暗黒の中に仄かに浮かび上がり知れる。実際そのような造りが何故可能となっているのか分かる筈もなく、優星は脚を踏み外さないように慎重に歩を進めるだけで精一杯であった。
「――!」
遂に石段を降り終え、首を巡らす優星のヘッドライトが周囲を照らす。
どこか学校の体育館を連想させる、だだっ広い寒々とした空間。足下は大きな四角い石によって構成された石畳であり、始めて視認できた壁面もそれに準じた造りであった。ただ仰ぎ見た頭上だけは暗黒の空間が広がり、天井にあたる部分を確認することができなかった。
そして優星の真正面から10m程進んだ場所にある壁面には次の間に続くであろう3m四方程度の戸口がぽっかりと口を開けていた。
――こういうの地下迷宮っていうんだよ
昔、妹がはしゃぎながらTV画面を指差し教えてくれたのは何のゲームだったか……?
妹の追憶に優星の動きが止まる。かぶりを振って彼は再度【戸口】を見据えた。
「……」
疑念は尽きない。明らかに人の手による意匠の施された地下の玄室。神社の地下に、自分が祖父から教えられていない秘匿された禁足地があったとして、ここが和風の造りであったならばそういうものなのだろうとまだ――辛うじて――理解できる。だが彼が今居る玄室はむしろ西洋風か、或いは古墳時代のものと云われた方がまだ納得のいく造りに思えた。
慎重に【戸口】の前へと進む優星の脚が、再度その正面で止まる。3m平方の漆黒の大口を前にして彼は改めて逡巡する。
元より下り階段を降りきるまでの心積もりではあった。勢いで窖に突入してはみたものの、これ以上先に進むという選択が未練でしかない愚行であることを、降りに要した時間の中で優星は改めて自覚していた。
(ここまでだな)
優星は脳内で己に言い聞かせる。
(日を改めて出直そう……)
……シャリン
「――!?」
断腸の思いで引き返そうと踵を返した優星の耳に、再び届く鈴の音。
【戸口】の奥の暗がりから一度だけかすかに響いた鈴の音。
妹が身に付けていた鈴の音。
忘れ得ぬ鈴の音。
「結夢!?」
反射的に、優星は【戸口】の直前まで駆け戻った。戻ってしまった。
【戸口】の奥から吹き付けるひやりとした冷気が優星の頬を打つ。まるで冷や水を顔からぶっかけられたかのようなその冷たさが、優星の乱心を鎮めた。
ハッと我を取り戻した優星のヘッドライトが、【戸口】の向こう側に広がる更なる闇を照らす。だがその時には、状況はもう取り返しの付かないところまで悪化していたのである。
「――!?」
【戸口】の向こう側から飛び出た何かが自分の脚に巻き付いたと優星が気付いた時には、既に彼の体は地面に引き倒されていた。地面に頭を打ち付けた衝撃に優星の意識が混濁するが、ヘルメットを被っていなければ致命傷にも成り得ただろう。
一瞬とは云え意識の飛んだ彼の体が【戸口】をくぐり更にその奥へと引き摺り込まれる。




