第7話 「覚悟」
そびえ立つ山のふもとに、近づくにつれ、道場に続く長い石段が見え始める。
暗くなってしまった空を見ていると、どんどん悪寒が強まってくる。
「こりゃあ、まずいな。」
「うん。最悪な状況だね。」
石段の前には、黒く少し癖がついた髪に、白い胴着を着た男が立っていた。
うわっ、完全に詰んだぞ、これ。
本気で怒ってしまった師範が、山から下りてきてしまっていたんだ。
「どうするの、悠真?」
師範は、曲がったことが、嫌いな人だ。
こういう時は、正直に行くしかない。
「このまま突撃するぞ。」
そう、堂々とした足取りで師範の前へ、向かうのが最善なんだ。
ナヨナヨした姿を見せてはいけない。
覚悟を示さなければ、許してもらえないのだから。
「……。ん?……ほう。」
どうやら師範もこちらに気づいたようだ。
「師範、遅くなってしまい申し訳ありません。」
まずは素直に謝罪。
非は100パーセント、こちらにあるのだから。
そんな俺の姿を見届けた師範の表情は、一つも変わってない。
ただ俺のことを見つめて、静かにほくそ笑んでいるだけだった。
「そんな軽いセリフの一つや二つ、誰でも吐ける。それで?」
またこのパターンだ。
相当、地雷を踏みぬいているらしい。
「まずは道場の雑巾がけと周辺の掃除をします。」
「それはそうだろう。当然だとも。私が聞きたいのは、今日の遅れをどう取り戻すのかということだ。」
とほほ……終わった。
また数か月はまともな生活ができないかも。
数年前に初めて、この状態の師範に殺されかけてから、もう同じ地雷は踏まないようにって、気を付けていたのにな。
困った顔をした俺の姿を見てか、汐苑がなんとかフォローしようと試みる。
「有馬師範。何とか大目に見てもらえませんか?」
「おお、汐苑。久しぶりだな。」
その瞬間だけ、師範ーー有馬嗣貴は表情を緩めた。
「ふむ、珍しいな……お前がそんなことを言い出すとは。何故だ?」
「今日、稽古に遅れてしまった理由は、僕にあるんです。不良に絡まれた僕を悠真が庇ってくれて……。」
師範はボロボロな僕の姿を凝視した。
特に腫れ上がった両手をじっくりと見つめている。
「ほう……。」
不穏な気配を感じた。
汐苑、フォローしてくれて、ありがとう。
でも逆効果だったみたいだわ。
「不良程度にそこまでやられるとは、まだまだ鍛え足りんようだな。」
ごめん。俺、今日死ぬっぽいわ。
師範の笑みが最高潮に達していた。
絶望のあまり失神しかけた時。
「と言いたいところだが、悠真が不良程度に後れを取るわけないだろう。ふふふ、なかなか笑える冗談だったぞ、汐苑。」
小刻みに震えるその様子を見て確信した。
たっ、助かった……。
「今回は不問としてやろう。さすがは我が弟子だ。」
ありがたいことに、汐苑の冗談を、良い具合に解釈してくれたようだ。
「ひとまず手当てをしてやる。汐苑、悠真を貸してくれるか?」
「はい。」
師範は、俺のことを米俵でも持つみたいに雑に担ぎ上げる。
「汐苑、ご苦労だった。今日はもう遅いから帰りなさい。」
そう言った途端に師範は、勢いよく石段を駆け上がっていく。
何か言いかけていた様だった、汐苑のことを無視して。
「師範、そんなに急ぐ必要ありますか?」
「いいだろう、別に、いつも通り二人だけのほうが、話しやすいだろう。」
そんな話をしているうちに、凄い速さで、町が小さくなっていた。
相変わらず、なんて人だよ。
何百段あるかもわからない、道場への石段を師範は物の数分で、登って見せてしまうんだ。
そして道場の引き戸を開くと、その中に俺を投げ込む。
「師範、雑すぎますよ。」
今の状態の俺の体には、硬い板張りの床は、流石に堪える。
「ふっ、さて、薬を塗ってやろう。服を脱げ。」
師範が、自作の軟膏を片手に持つ。
「では、話してもらおう。いったい何があったのかをな。」
軟膏を塗りながら、師範が問いかける。
「……詳しく説明ができる自信がないんですが……いいですか?」
「そこは問題ではない。ただ、我が教え子をこんなボロ雑巾にした相手が気になってな。」
「あは、そういうことですか。」
師範は強い人に目がない。
単純に戦闘狂というわけではなく、その力をどう使っているのかを観察するのが好きなのだとか。
到底理解できるものではないが……。
「実は、近頃起きている殺人事件を追っていまして……。」
「ああ、昔の事件に似ているしな。」
師範も気づいていたみたいだ。
緊張感、薄れるな……とは言え、フォーグナーのことを教えてしまうのは、まずい気がするから、伏せて話さないと。
師範は嘘に敏感だから。
「そうなんです。あの時の犯人が、犯している犯行なら、俺たちをまた狙ってくると考えたんです。」
「最悪を想定するのはいいが、自らの身を破滅させているようでは、まだ三流だな。」
そう言いつつも自分の言いつけを守ってくれているのが、うれしいのだろう。
薬を塗る手がやさしくなった。
「悠真、死ぬのは怖いだろう。」
「……はい。どうしようもなく恐ろしいです。」
「その根底にあるものは何だと思う。」
「……臆病さや、そういう心の弱い部分ですかね。」
だからこそ、こんな感情は早く捨て去らなければならない。
「いいや。失ってしまうと感じるものがあるからだ。」
「そりゃあ、命を失っていますからね。」
その言葉を聞いた師範が大きなため息をつく。
「相変わらず、お前は実に愚かだ。確かに命は重いものだ。」
そして俺の頭を叩きながらくぎを刺すように答えた。
「だがそれは、命を繋ぎ止めようとする執着がある前提のものだ。」
「はあ。」
「命が重いなら、なぜ自ら死を選ぶものがいるんだ?」
言われてみれば、納得できなくはないが、かなり想像しがたい大きな話だ。
「生きる行為には、絶妙なバランスというものが存在している。失いたくない。そう思えるものがいくつも積み重なっていく。それが、生きる意思へとつながる。その積み重なるものを保っているのが、執着なのだ。」
『お前が最も執着しているものはなんだ』
「……。」
何も答えられないでいると、師範は、ふっ、と鼻で笑った。
「やはり大きくなったのは体だけのようだな。まだまだ可愛い愛弟子でいてくれるのは嬉しいことだが、いつかはそれを知らなければならない。」
執着……俺にとってのそれって……。
やはり答えは出せない。
「では、今日の稽古は、これで終わるとしよう。今日はここで休むといい。親にも連絡しておいてやろう。」
そうして、寝室へ向かうと、師範の隣で眠ることになった。
まあ、今日のところはゆっくり休むことにしよう。
そう思って、俺は目を閉じた。




