14-4 私の愛する者は、二人だけじゃない
「眠れない……」
そう呟いて、体を起こす。
夜ももう随分遅いというのに、まるで眠気が来ない。
私は出窓のふちに腰を下ろし、ぼんやりと星を眺める。
静まり返った夜空には、淡い星が砂のように散らばり、静かに瞬いていた。
その穏やかさとは裏腹に、胸の奥は落ち着かないどころか、今すぐ暴れたいほど高ぶっている。
(どうしたものか……)
この館が見つかるのも、私の素性が露見するのも、もう時間の問題だ。
そうなっても、私はアザゼル兄さんの補佐として、生き延びられるかもしれない。
けれど、父さんにとって厄介者のディースは確実に処刑される。敬語の使えないルルカも、きっとついでに殺される。
少し強い風が、窓を叩く。
その風に乗ってきたのか、カーラの言葉がふとよみがえる。
――あんたは、最強の魔王なのよ。好きに生きなさい。
私が考えないといけないのは、愛する者を守ることだけのはずだ。
けれど、本当にそれだけでいいのだろうか。
その問いがずっと頭の中を巡り続け、答えが出ないまま私の心を静かに締めつけている。
(はぁ。悩みごととは無縁だと思ってたんだけど……)
私は最強だ。だから、どんなことが起きても大丈夫だと、ずっと思っていた。
でも、それは違った。
今まで、向き合うべき問題から逃げ続けてきただけだ。
(そもそもなんでこんなことになったのかしら……)
そんなことを考えても、何かが変わるわけじゃない。でも、自然と頭がそちらへ向かってしまう。
ルルカがやって来たからだろうか。
偽装硬貨の拠点を潰したからだろうか。
カーラやジャヒーと魔物を倒したからだろうか。
ディースが堕天使だとバレたからだろうか。
……いや、きっと全部だ。
いろんな出来事がいびつな形で積み重なって、今にも崩れそうな形になっている。
その上に立つ私は、支えを失えば落ちるしかない。
でも、いまさら積み上がった過去をどうにかする術なんて、どこにもない。
「はぁ……」
出てくるのはため息ばかりだ。
私は体の力を抜いて、窓によりかかる。
今日はいつもより風が強いせいだろうか。
寝苦しいほど暑いのに、窓だけはひんやりとしていて、火照った体を冷ましてくれる。
(ついでに、この悩みも冷ましてくれればいいのに)
そんな現実味のないことを考えていたところで、扉を叩く音が部屋に響いた。
「どうぞ」
「失礼いたします」
コップを二つ持ったディースが、器用に扉を開けて入ってきた。
あれだけの深手を負って、体中から血を流していたというのに、彼女は日が沈む前にはけろっとした顔で起き上がってきた。
そのあとも、私たちの心配なんて気にする素振りもなく、いつも通り淡々と家事をこなしていた。
今だって、夜の見回りを終えたところなのだろう。
本当に、ディースの生命力には驚かされる。
「お茶を入れました。よろしければどうぞ」
「ありがとう。いただくわ」
渡されたコップから、ふわりとカモミールの香りが立ちのぼる。
その香りをじっくりと味わってから、口をつける。
冷たい液体が喉を通るたび、火照りがすっと静まっていく。
とても落ち着く味で、胸の奥のざわつきも少しだけ和らいだ。
「それで、こんな時間にどうしたの?」
「お悩みのようでしたので、よろしければお話を、と」
「……なんでもお見通しね」
「お見通しもなにも、外から丸見えでしたよ」
「それもそうか」
呆れたような表情をするディースに、自分でもわかるほど元気のない笑みで返す。
(本当に、腑抜けているわね……)
上ばかり見ていて、下で見回りをしていたディースに気づかなかった。
「ノワエ様、改めまして、申し訳ありません。私のせいで、さらに状況が悪化しました」
「私も改めて言うけど、ディースのせいじゃないわよ。どう考えても事故でしょう」
神妙な面持ちのディースに、私はできるだけいつも通りを装って返した。
「身構えていれば、何とかなったかもしれませんが……」
「私だって、館の周辺で待ち伏せされているなんて思いもしなかったわよ」
今も巧妙に気配を消した魔族が何人も潜んでいる。どうやって新しい情報を持ち帰るか、隙をうかがっているのだろう。
「過去のことよりも、これからのことを前向きに考えましょう」
そう言いながら、私の心はまったく前を向いていなかった。
改めて状況を整理する。
正直、ディースが堕天使であるということがバレたのは致命的だ。
「魔界で初めての堕天使が、大魔王の来賓として迎えられている」という話は、広く知られている。
その堕天使がこの館に住んでいるとなれば、私は重要な人物だと判断される。
そして、他の情報と組み合わせれば……私が魔王族だと結論づけるのは、難しくない。
(はぁ……)
少し落ち着いたはずの心は、また悩みの渦に沈んでいく。
もう一度、窓に体を預ける。
先ほどよりも勢いを増した星々が空を彩り、その光を受けた木々が淡く煌めいている。
幻想的でどこか儚いその光景も、今の私には遠く感じられた。
「……」
せっかく来てくれたディースに、気の利いたことを言おうとしても、言葉が出てこない。
ディースもそれを感じ取っているのか、黙ってそばにいてくれていた。
長い……本当に長い沈黙のあと、私はふと口を開いた。
「――私と、ディースと、ルルカの三人で、別の世界に逃げない?」
私の言葉を聞いたディースは、少しだけ驚いた顔をしてから、そっと目を伏せる。
「もちろん、お供いたしますよ」
「……いいの?」
「私のいる場所はノワエ様のお傍です。どこまでもついて行くつもりですよ。たとえ、それが地獄であろうと」
そこでディースは言葉を切り、ゆっくりと顔を上げた。
まっすぐに私を射抜くような視線で、重く問いかけてくる。
「ですが……それは、本当にノワエ様が納得できる決断なのですか?」
その一言で、胸の奥を殴られたかのように、私の世界が大きく揺れた。
頭の中がぐちゃぐちゃになって、足元が崩れて、私という存在が薄れていくような、そんな感覚。
それが一秒だったのか、一分だったのか、一時間だったのかはわからない。
でも、それが収まるまで、ディースの視線は揺らぐことなく私を見つめていた。
「三人で異世界に行くことを選択した時、一番苦しむのはノワエ様です。私は、そんな姿を見たくありません」
「……わかってるわよ。異世界に行くことが逃げだってことくらい」
「私は逃げるのは悪いことではないと思います。ですが、ノワエ様はそれを良しとしないですよね」
「ええ。三人で逃げたとして、どうなるっていうのよ」
私の愛する者は、二人だけじゃない。
でも姉さんは絶対に色欲領を離れないだろうし、カーラだって向日葵畑を放り出して異世界に行くなんてありえない。
仮に姉さんを連れて行けたとして、その姉さんが愛する部下たちはどうするのか。
カーラにだって、見捨てられない人たちがいるはずだ。
そして、その先にいる人たちは?
その全員が移動を受け入れてくれたとしても、今度は手段がない。
もしそれすら何とかなったとしても、異界を管理する天馬総括協会が、魔族の大移動を許すはずがない。
(――私は、魔界で生きるしかない)
水面に映る私の顔は、とても見れたものじゃなかった。
しばらくして、ディースがどこか呆れたようなため息を吐く。
「いったん、なるように任せてみてはいかがですか?」
「え?」
「なるように任せて、気に入らなかったら力づくで変えてしまえばいいのです。ノワエ様は化け物なんですから、そのくらいできるでしょう?」
「まぁ、そうだけど……」
煮え切らない返事の私に、今度はわざとらしいほど大きなため息を吐いた。
「小さい頃からさんざん好き勝手してきたのに、なにを今さら悩むんですか」
あまりにディースらしい一言に、思わず吹き出してしまう。
それもそうだ。力がすべての魔界で、傍若無人に振る舞って何が悪いのか。
二人で笑う。張りつめていた空気が、ふっと軽くなった気がした。
「……私、自分でもわからないのよ。どうしてこんなにも大魔王になるのが嫌なのか」
「そんなこと、私の方がもっとわかりませんよ。忘れているかもしれませんが、私、一応天使ですから」
「そういえばそうね。魔族より魔族してるから、すっかり忘れていたわ」
また、どちらからともなく笑いがこぼれた。
ディースの言う通り、運命に身を任せてしまうのも、案外悪くないのかもしれない。
カモミールティーを飲み干す。
冷たいはずなのに、胸の奥はほんの少し温かかった。




