13-3 相当、余裕がない
「はい。今日のお菓子はマドレーヌよ」
「いただきま~す」
父さんへの報告を終えた私は、その足でカーラのところへ向かった。
面倒くさそうな顔で出迎えながらも、カーラは焼きたてのマドレーヌを出してくれた。
ひと口かじると、バターの柔らかな香りがふわりと広がる。外はほんのり香ばしく、中はしっとり。甘さも香りも絶妙で、気づけばもう一つ口に運んでいた。
「うん。あんたのお菓子は今日も絶品ね」
真剣な話をしに来たのだけれど、それを忘れそうになるくらい、このマドレーヌは美味しい。
私がマドレーヌを堪能していると、なかなか話を切り出さない私に痺れを切らしたのか、カーラが先に口を開いた。
「裏では調査が進んでいるというのに、あんたは呑気なものね……」
私は緊張をごまかすように、わざと大きくマドレーヌを頬張ってから、カーラに向き直る。
「魔王族だってことまで、バレそうなの?」
「……正直、時間の問題だと思うわ。誰かが口を割るとは思わないけど、あなたの出自の謎と、普段の行動や知り合いが、魔王族であるということを物語っているのよ」
「……そう、よね」
覚悟していたことだけれど、カーラの口から聞くと途端に重く感じる。
紅茶をひと口飲んで、気持ちを落ち着けようとするけど、胸の奥から湧き出る不安は止まらない。
(どうしたものかしら……)
今日の様子からすると、父さんは私が魔王族だとバレても殺しはしないだろう。
けれど、父さんになびかない姉さんと、厄介者扱いされているディースは“管理不届き”として処罰され、私はアザゼル兄さんの側近としての生活を命じられるに違いない。
――最適解は、正直分かっている。
私が大魔王になって、あとは好きにやればいい。
そうすればディースの問題も、後継者問題も、身バレの問題も、きっと全部片がつく。
「自称最強の魔王様らしくないわね、そんなに悩むなんて」
「……そんな風に見える?」
「ええ。イレアナの浮気現場を見たときの顔をしてるわよ」
「それ、ルルカにもまったく同じことを言われたわ」
それを聞いて、カーラはふっと笑い、口を開く。
「あんたは……本当に特異な魔族だと思うわ。自分以外が大切で、自分以外が笑って生きていることに幸せを感じる」
「……そこまで、できた魔族じゃないわよ」
「でも、そうだからこそ悩んでいるんでしょう。それに、いずれ周りを巻き込んで破滅することまでイメージできている」
「……」
「悩み事って、本当にやっかいよねぇ……」
そう言ってカーラはマドレーヌを口に運ぶ。
少し驚いたように目を瞬かせ、「今日のできは完璧ね」とつぶやいた。
「あまり難しく考えなくていいんじゃない? あんたはあんたが幸せに感じることを優先すれば。それが私たちを守ることなのであればそうすればいいし、私たちを壊すことなのであればそれでいい」
カーラは一度、ゆっくりと目を閉じ――
「あんたは、最強の魔王なのよ。好きに生きなさい」
しっかりと目を合わせて、そう言った。
私が返事をしようとしたその瞬間、大きな爆発音と地鳴りが響いた。
思わず戦闘態勢に入った私とは対照的に、カーラは深いため息をつき、「またか」とつぶやいた。
「またって……なにかしでかしたの?」
「私はなんもしてないわよ。あんたの情報収集のために、最近、私のところにも馬鹿が来てるだけよ。ちょっと見てくるから待ってなさい」
カーラはもう一度ため息を吐き、外へ出ていった。
一人残された私は、これだけ気分が沈んでいるというのに、正直なお腹に従ってマドレーヌに手を伸ばし――そこで動きを止めた。
(私、今の攻撃を予想できてなかったわね……)
魔法防壁の中にいると探知魔法の効力は落ちる。
それでも今までは、攻撃が来る前に気配くらいは察して、心の準備くらいはできていた。
今回はそれすらできず、不意打ちを食らった。
(はぁ……。今のままじゃ、父さんにすら勝てないかもしれないわね)
一息ついてから、部屋の隅にある水晶に手を当てる。
私が作った魔法防壁は、私と違って今日も元気で、しっかりと攻撃を弾き返したようだ。
落ち着かない気持ちを抱えたまま、私は椅子に深く座り直す。
目の前に置かれているマドレーヌが甘い香りを漂わせているのに、今はどうしても食べる気になれなかった。
(好きに、生きなさい……ね)
さっきの言葉が、まだ胸の奥でじんわりと響いていた。
胸の奥がざわついたまま、私はただ静かに待つ。
やがて、甘い香りが少しだけ薄くなっていることに気づいた。
それだけ、時間が流れたのだろう。
カーラの帰りが遅いことに気づき、立ち上がろうとしたそのとき――玄関の扉がすっと開き、赤い髪の女性が入ってきた。
「おかえ……り?」
「ノワエちゃんただいまぁ~」
入ってきたのはカーラではなく、イレアナ姉さんだった。
状況が呑み込めていない私を、姉さんは無駄に豊満な胸に沈めてくる。
今日も柔らかくて温かくて、焼き菓子にも負けない甘い匂いが顔いっぱいに広がった。
「イレアナ、乳繰り合うのは別の場所にしてくれない?」
「は~い」
遅れて戻ってきたカーラの言葉に、姉さんはすっと離れる。
さっきまでの温かさが離れた途端、胸の奥が心細くなった。
「姉さんはどうしてカーラの家に?」
「聞きたいことがあったのよ。そしたらズギャーンってなって、びっくりしたわ~」
「あ、姉さんが攻撃したわけではないのか……」
「さすがの私も、カーラちゃんのひまわり畑に手は出さないわよ~」
ひらひらと手を振りながら、姉さんは私の席に腰を下ろす。
カーラは、私が来たときとは違って、とくに面倒そうな顔もせず、紅茶を入れた。
「で、イレアナ。聞きたいことってなに?」
「そ、れ、はぁ~……なんでしょう~?」
胸元を寄せ上げてみせる姉さん。
私は思わずそれに視線を奪われてしまうのだが、カーラは姉さんの目から一切視線を外さなかった。
「……ジャヒーが拷問を受けた件で、犯人を知りたい。ってとこかしら?」
「は~い。正解でぇ~す」
声色はいつも通りなのに、姉さんの目はまったく笑っていなかった。
怒っている、なんて生易しいものじゃない。
今にも辺り一面を燃やし尽くしかねないほどの怒気が、瞳の奥で燃えている。
「裏社会は今、得体のしれないノワエの調査に躍起になっている。ジャヒーがどういう形で襲われたのかわからないけど、十中八九ノワエの詳細を聞き出そうとして連れ去られて、拷問されたんでしょうね」
「ちょっと待って! 私、そんな話、聞いてないんだけど」
思わず立ち上がると、姉さんは“嘘を吐くときの笑顔”になった。
「ごめんね~、ノワエちゃん。昨日の今日だから、まだ報告してなかったのよ。それに、ジャヒーちゃんが襲われた理由がノワエちゃんだって、確定したわけじゃないのよ?」
「……それもそうね。少し先走りすぎたわ」
カーラが目を伏せる。
二人とも、私が悩まないように嘘を吐いているのだ。
その優しさが、余計に胸をえぐった。
「で、いつごろ分かりそうかしら?」
「そんなに威嚇されても、なんとも。下手をすれば裏全体と色欲領で全面戦争になりかねないわ。私としても、それは避けたい」
「それはそうだけどぉ~。最近、他の子も結構やられているのよね。色欲の王として、このまま黙っているわけにはいかないわ」
「私、行きましょうか?」
気づけば、声が出ていた。
こうなっているのは私のせいだ。だから、私が動かないといけない。
「まだいいわ。ノワエちゃんを動かすのは最後の手段だから」
「でも……」
「ノワエちゃんの気持ちは嬉しいけどね。ノワエちゃんが魔王だってバレたとき、一番被害を被るのは私たちなのよ。それでも、前に出たい?」
「……」
赤子を諭すような姉さんの声に、言い返せなかった。
でも、私のせいで確実に、色々なものが壊れ始めている。その焦りだけは、どうしても消えなかった。
「……わかった。おとなしくしているわ」
「ま、でも本当に助けてほしい時は素直に言うわ」
そう言って姉さんは、私の頬に軽くキスをした。
いつもなら胸が高鳴るのに……今日は静かなままだった。
「……そういえば姉さん、父さんに呼ばれて城に行ったんでしょ? 何を話したの?」
「う~ん。割とまじめな話だったわよ。色欲領の管理と状態についての細かい話と、アザゼル兄さんが大魔王になったら絶対服従しろって話」
「……まさかとは思うけど、服従するつもり?」
「私の可愛い淫魔たちがそれで幸福になるのなら、やぶさかではないわね~。ま、そんなことないから、言うことなんて聞くわけないけど」
今度は嘘をついているわけでも、何かを隠しているわけでもなさそうだった。
なら、今度は私が持っている情報を出さないといけない。
今日、父さんと話したことやスティカさんから聞いたことを、順に伝える。
私が話し終えると、姉さんは頬に指を当て、ゆっくりと考えを巡らせた。
「今の父さんなら、ノワエちゃんが魔王族だとバレても、殺さないかもしれないわね……」
「姉さんもそう思う?」
「ええ。大きなことを起こすかもしれないと警戒していたけど……これ、本格的に何かするつもりね。カーラちゃんは何か知ってる? 主に裏のこと」
「各派閥の動きはあるけど、大魔王に動きがあるとの情報はないわ」
姉さんはまた考えを巡らせて、
「とにかく、何か動きがあるのは間違いないわ。カーラちゃん、何かつかめたら共有してね」
「はいはい。まったく……私はいつになったら裏社会と縁が切れるのかしら」
カーラはため息と一緒に肩をすくめた。
「さて、と。私もいろいろと公務が溜まっているから、今日は失礼させてもらうわ。ノワエちゃん、どうする? 一緒に帰るなら空間をつなぐけど?」
「え? ……あ、うん。お願いします」
「じゃあ、外まで送っていくわ」
カーラに連れられて、向日葵畑の中を歩く。
少し日が傾いてきたせいで、私の身長よりはるかに高い向日葵たちの間は、思った以上に暗かった。
風が通るたび、背の高い茎がざわりと揺れて、どこか遠くで誰かが囁いているように聞こえた。
その途中、ふと足が止まった。
(姉さんが私を誘わないなんて……初めてじゃないかしら)
いつもなら私を見つけるや否や、ベッドに連れ込もうとする姉さん。
けれど今日は、あっさりと帰る話をしてきた。
(相当、余裕がないのね……)
ジャヒーのことだけじゃない。
多くは語らなかったけれど、おそらく各地の淫魔たちも犠牲になっているのだろう。
――私が大魔王になると決めれば、父さんを倒してしまえば、混乱は収まるのではないか。
頭の中で、決して答えの出ない問題が、ぐるぐると回り始めた。
――やっぱり異世界に逃げてしまおうか。
そんなことを思いながら空を見上げると、向日葵の花が目に入った。
相変わらず元気いっぱいに、太陽を目指して咲き誇る黄色い花を見ていると、心が落ち着いて、少しだけ元気が湧いてくる。
「ノワエ、あんた何してんの?」
「あ、ごめん。普通にはぐれちゃった」
いつの間にか足を止めていたらしい。慌ててカーラに合流する。
カーラは私の顔を見て、ふっと優しい笑顔になった。
「……私も、悩んでいた時に向日葵に出会って、元気をもらったのよ。この花はそういう花」
そう言ってカーラは向日葵を見上げ、どこか懐かしそうに微笑んだ。
「苦しかったら、いつでも見に来なさい」
「……ええ。ありがとう、カーラ」
「どういたしまして。ほら、行くわよ」
「うん」
カーラの背中を追いながら、胸の重さが少しだけ軽くなっていることに気づく。
向日葵たちが、そっと背中を押してくれているのかもしれない。
まだ不安定だけれど、私は静かに一歩を踏み出した。




