おかえり
翌朝。
「お姉ちゃん、朝だよー」
「ん……」
「起きてー」
「……あと五分」
「昨日も同じこと言ってたよ」
「昨日は言ってない……」
「言ってた」
「……」
ユイは薄く目を開けた。
視界いっぱいに、ピンク色の髪があった。
「うわっ!?」
反射的に布団を引っ張る。
隣でシフォンが笑った。
「あはは。おはよう、お姉ちゃん」
「……おはよう」
そう答えてから。
ユイは少し考えた。
「……シフォン、朝起きるの早いんだ」
「うん。今日は六時半に起きたよ」
「早すぎない?」
「お姉ちゃん、七時に起きるって言ってたじゃん」
「……言ったっけ」
「言った」
「……そっか」
ユイは時計を見る。
六時五十八分。
「ほんとだ」
「だから起こしてあげた」
「ありがと」
「どういたしまして!」
シフォンの尻尾が、嬉しそうに揺れた。
朝食はトーストだった。
ユイが焼いたパンを、シフォンが興味津々で眺めている。
「それ、おいしい?」
「普通」
「普通?」
「うん。いつも食べてるし」
「じゃあ、一口ちょうだい」
「いいよ」
ユイがパンを少しちぎって渡す。
シフォンはそれを両手で受け取った。
ぱくっ。
「……」
「どう?」
「おいしい」
「そう?」
「うん」
シフォンはもう一口食べた。
「でも、昨日のから揚げ棒のほうが好き」
「朝から?」
「朝でも食べたい」
「それはちょっとやめよう」
「えー」
シフォンが頬を膨らませる。
ユイは思わず笑った。
「なに?」
「いや。昨日からずっとから揚げ棒のことばっかり言ってるから」
「好きなんだもん」
「はいはい」
その日。
ユイは大学へ向かった。
玄関で靴を履く。
いつもと同じ。
昨日までなら、そのまま出ていた。
でも今日は。
「お姉ちゃん」
「ん?」
「いってらっしゃい」
「……」
ユイは振り返った。
シフォンが玄関に立っている。
尻尾をゆらゆら揺らしている。
「……行ってきます」
「うん! いってらっしゃい!」
ドアを閉める。
ユイは廊下を歩きながら、少しだけ笑っていた。
なんだか変な感じだった。
大学に着く。
講義。
昼休み。
友人との会話。
昨日までと同じ。
なのに、何かが違う。
ふとスマートフォンを見る。
特に用事があるわけではない。
けれど。
ホーム画面を見る。
昨日までは、何となくSNSを開いていた。
今日は違った。
ユイはメッセージアプリを開く。
連絡先には、昨日登録したばかりの名前。
『シフォン』
まだ何も届いていない。
当然だ。
「……何見てんの?」
隣の友人が覗き込んでくる。
「え?」
「さっきからスマホ見てるじゃん」
「別に」
「彼氏?」
「いないって」
「じゃあ何?」
「……秘密」
「怪しい」
友人が笑う。
ユイも笑った。
けれど。
昼休みが終わる直前。
スマートフォンが震えた。
『お姉ちゃん、大学楽しい?』
ユイは目を丸くした。
「……」
シフォンからだった。
たった一行。
なのに。
ユイは少し嬉しくなった。
『まあまあ』
送る。
すぐに返信が来る。
『そっか!』
『がんばってね!』
ユイは、
『ありがと』
と返した。
午後の講義は、少しだけ退屈ではなかった。
夕方。
大学を出る。
駅へ向かう。
スマートフォンを見る。
もう一通来ていた。
『今日、何時に帰る?』
ユイは時計を見る。
『六時くらいかな』
送信。
しばらくして。
『わかった!』
『待ってるね!』
その文章を見て。
ユイの足が、少しだけ速くなった。
家に着いた。
鍵を開ける。
「ただいまー」
昨日までは誰もいなかった。
でも。
「おかえりー!」
すぐに返事が返ってきた。
そして次の瞬間。
「お姉ちゃん!」
シフォンが駆けてくる。
「わっ」
そのまま抱きつかれた。
尻尾がぶんぶん揺れている。
「おかえり!」
「ただいま……」
「今日どうだった?」
「普通」
「それじゃ分かんない!」
「あはは」
ユイは靴を脱ぎながら笑った。
「今日はね、講義で先生が――」
気づけば。
玄関で話し始めていた。
その日の夕飯。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「今日、大学で何食べたの?」
「学食」
「何?」
「親子丼」
「おいしかった?」
「まあまあ」
「じゃあ明日、私も作ってみる」
「え?」
「親子丼」
「作れるの?」
「やってみたい!」
「じゃあ一緒に作ろうか」
「ほんと!?」
「うん」
「やった!」
シフォンは嬉しそうに両手を上げた。
次の日。
二人でキッチンに立った。
「包丁、危ないから俺が――」
「私もできる!」
「いや、でも――」
「できるって!」
「……分かった。じゃあ気をつけて」
「うん!」
玉ねぎを切る。
鶏肉を切る。
シフォンは真剣だった。
ユイが隣から、
「そこ、もうちょっと小さく」
と教える。
「こう?」
「そうそう」
「できた!」
そんなことを繰り返す。
鍋に具材を入れる。
卵を流す。
少しだけ焦げる。
「……」
「……」
二人で鍋を見る。
「失敗?」
シフォンが不安そうに聞く。
「いや」
ユイは少し考える。
「食べられると思う」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶん!?」
シフォンが笑う。
ユイも笑う。
完成した親子丼は。
正直、ちょっと薄味だった。
「……」
「……」
「お姉ちゃん」
「うん」
「これ、おいしい?」
「……うん」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ私も!」
シフォンが一口食べる。
「……」
しばらく黙って。
「おいしい!」
「ほんと?」
「うん!」
尻尾が揺れる。
「じゃあ次はもっと上手に作ろうね」
「うん!」
そういう日々が、少しずつ増えていった。
朝。
「お姉ちゃん、起きてー」
「あと五分」
「ダメー」
昼。
『今日、学食で何食べた?』
『カレー』
『いいなー!』
夕方。
「ただいま」
「おかえり!」
夜。
「今日、大学でね」
「うんうん」
「それでさ」
「それから?」
「……ってことがあって」
「あはは!」
いつしかユイは。
大学であったことを、帰宅してから話すようになっていた。
面白かったこと。
くだらないこと。
嫌だったこと。
誰にも話すほどではない、どうでもいいこと。
そんなことまで。
シフォンは全部聞いてくれた。
「それで?」
「うんうん」
「へえー」
「それ面白い!」
ユイが話す。
シフォンが聞く。
それだけだった。
ある夜。
ユイはベッドの中でスマートフォンを見ながら考えた。
いつの間にか。
シフォンがいることを、当たり前に感じている。
「……」
「お姉ちゃん?」
「ん?」
「どうしたの?」
「いや」
ユイは少しだけ笑った。
「なんでもない」
「そっか」
シフォンはそう言って、また目を閉じた。
しばらくして。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「明日も大学?」
「うん」
「じゃあ、明日も待ってる」
「……うん」
ユイは目を閉じた。
昨日まで。
「ただいま」は独り言だった。
今は違う。
家に帰れば、
「おかえり」
と言ってくれる誰かがいる。
それが。
ユイにとって、少しずつ。
当たり前になっていった。




