⑥『青い薔薇』
子爵が連れて来た医者はグレイセルに、成長期の子供がずっとベッドに寝たままなのはよろしくないとして、数々の助言を与えてくれた。子爵領は保養地の近くにあったので、クロードの父親はあちこちに声を掛けて、評判の先生をわざわざグレイセルにも紹介してくれたのだ。
屋敷にやって来た医者は、この庭の広さなら朝と昼に二周ほど歩き、できれば誰かと世間話をするようにと細かい指示を出した。グレイセルも患者らしく大人しく従って、その日は体調が良かったので靴を履いて外へ出た。
「お坊ちゃん、いけませんよ、そんな薄着のままで」
そこへ駆け寄って来る人がいて、この屋敷で働いている女性使用人かと思いきや、グレイセルは顔を知らなかった。ちょうど自分の母親位の年齢で、彼女は暖かそうな襟巻を持って来てくれた。少し季節を先取りしているような気もしたけれど、親切な彼女にお礼を言った。マフラーの端を風が遊ぶのに任せながら、庭へ歩き出した。
話し相手に丁度良さそうなクロードには今日、音楽の先生が授業に来ている。まだまだ練習中の曲が途切れ途切れに聞こえた。クロードの父が領地の経営等について教えてくれる時に横にいても何も言われないが、音楽と絵の先生が来ている時は必ず追い払われるのである。彼もお年頃なので、作品の出来栄えをじろじろ見られるのは恥ずかしいのだろう。
そんなわけで一人で気ままに、庭園の更に奥に続く木立へ足を踏み入れた。ここも主人の散歩道らしく、綺麗に整えられていた。
ふらふらとアテもなく進むとお坊ちゃん、と呼ぶ声が聞こえる。それが樹上からだったので、思わず足を止めて空を見上げた。枝に立てかけた長い梯子から手を振る姿があり、彼は体重をまるで感じさせない、するすると滑らかな動きで地面に降り立った。
グレイセルの前に立つと手足が長くて上背もある。クロードの父親と変わらない年齢の男性はちょっと猫目なのもあって、何だかヤマネコみたいな印象を受けた。
「おや、お坊ちゃん。外出して大丈夫って、お医者様が言って下さったんですね、よかったよかった。心配していたんですよ」
「えっと、あなたが庭師のアスティンさん、ですか?」
彼は笑って頷いて、左様ですと恭しく返事をした。お一人では寂しいでしょう、とどうやら相手をしてくれるつもりのようだ。この会話を切っ掛けに、アスティンとは親しく話す間柄になった。
「……私の奥さんは身体が弱くて、暖かな土地で暮らせば少しは良くなるって医者に言われて、それで家族でこっちに移って来たんですよ。今はこのお屋敷で、使用人のみんなのお手伝いをさせてもらってて。それで、お坊ちゃんの事も気になっていて」
「へええ。その女の人、さっき会ったかも。襟巻を貸してくれたんだ。それなら、少しは楽になったって?」
「……こんな事ならもっと早く来るんだったって、思う程度には」
「アスティンさんはすごいなあ」
生まれ育った土地を離れる、というのは小さくないリスクを伴う。それまでの繋がりを絶ち、新天地が今より良い場所だとは限らない。いくら奥方を暖かい場所へ連れて行くためとは言え、葛藤は尽きなかっただろう。この人は家族を養う立場にあるのだから、尚更だ。
「……僕も使用人になろうかな。アスティンさんは弟子を募集していないの?」
グレイセルはもう伯爵家の跡継ぎではないので、何か生計を立てる方法を手に入れる必要がある。貴族の次男以下の就職先としてよく耳にする、軍への入隊は今の体調では非現実的だった。そうなると商会などに雇ってもらうか、研究職というのも頭に浮かぶ。それができるだけの頭の良さがあるといいのだけれど。
それからお金持ちの家の使用人、というのも一つの手段に思えた。仮に庭師として、美しい花々を咲かせるため、泥だらけになっても働く。それはとても素晴らしい生き方のように思えた。
「……止めて下さいよ坊ちゃん。人にはそれぞれの役割があるんですから。屋敷の中にいる家令さんとか執事さんならともかく、庭師は貴族のお坊ちゃんにさせる仕事じゃありません」
「でもさ、貴族の人にぜひぜひ働いてくれ、って頼まれるのは誇るべきだと思う」
まあそれは確かに、とアスティンも認めた。元々子爵邸に雇われていた庭師がアスティンの技量を見て、絶対に雇い入れるべきだと主張した程、腕は確かなのだ。
「アスティンさん、青い薔薇の話を教えてください」
それからも度々、グレイセルは外で仕事をしているアスティンを捕まえては、色々な話をせがんだ。彼はちょうど、既に枯れてしまった花を取り除き、少しでも見栄えをよくする仕事に熱心である。
「おや、どこで覚えたんです? 青い薔薇の話」
「本に書いてあったんだ。どこにもないって、本当なの?」
どうしてどうして、とグレイセルが尋ねると、彼はちょっと休憩、と言いながら手を止めた。慣れた手つきで、植木バサミを太腿に巻き付けたホルダーにしまい込む。他の庭師に声を掛けて、手押し車に剪定した枝や枯れ葉、落ちた花びら等を集めて、裏の空地へ捨てに行くらしい。グレイセルは水鳥の雛みたいに、そのすぐ後ろに続いた。
使用人達は誰もが自分の仕事には一家言を持っている。それは多彩な分野に深い造詣を持つ教師が複数いるのと似たような話だ。グレイセルはすっかり子爵邸の暮らしと人に、慣れ親しんでいたのである。
元々、自分が生まれた屋敷の方ではこうはいかず、使用人は決して自分から主人の側には話し掛けて来ない。最下級の女中に至っては姿を見せる事すら叱責の対象だったのだが、ここでは違う。
グレイセルも当初は戸惑ったが、親切な使用人達があれこれと体調を心配し、色々な話を楽しそうに教えてくれる今の状況の方が、ずっと愉快な毎日だった。彼らはこの屋敷に預けられた子供に、主人一家同様とても親切だった。
「薔薇という花には世界中に、古い時代から愛好家がおりましてね。同じ事を考えたんでございますよ。自分こそがまだこの世のどこにもない、青い薔薇を咲かせてみせるって。特に資金力のある金持ちなんかは熱心に、開発に心血を注いだわけで」
「花を……開発する?」
園芸や庭園の管理は古くから、多くの人に親しまれて来た文化である。新しい品種を作り出す分野も、熱心に取り組まれて来た。自らが作り出した新しい種、それが所有する庭だけに咲いている。それは大いに、己だけがという独占欲を刺激するらしい。その中でまだ誰も見た事がないのが、青い薔薇というわけだった。
青、という色だけで考えればありふれた色なのに、とグレイセルは空を見上げた。木立の上空は静かな、雲一つない秋空である。そこに鳥が隊列を組むかのように並んで、南へ飛んで行くのが見えた。
「ええ、開発ですよ。色んな目的がありますけど。薔薇だけじゃなくって、小麦なんかの作物なんかも熱心ですね。病気や寒さに強くして、少しでも収穫量を増やそうって学のある方々が。観賞用なら、病気や気候の変化に強く、こんな色を、こんな形の花を咲かせてみたいって。なんにせよ、昔から盛んにやっているんですよね」
一番簡単なのはこれ、という二種類を用意して、風や虫などの自然に任せるのではなく、人の手で受粉をして種を得る方法だ。人間に父親と母親の二つが揃って初めて子供ができるのと似たような仕組みである、とおしゃべりな庭師が丁寧に教えてくれた。
他にも突然、他とは違った特性を持った種ができる事がある。それを上手く増やして、それも新しい品種の元になるのだそうだ。
ただし、父親と母親に選んだ二つも、それぞれもまた親から受け継いだ、目に見えない特性が隠れている可能性があるので、必ず安定して望みの品種を得られるわけではないらしい。だからこそ思わぬところに、全く意図していなかった素晴らしい新種が見つかる可能性も転がっている。
なるほど、とグレイセルは薔薇の品種の話としてアスティンの話を聞きながら、内心では人間同士に当てはめた場合の事を考えていた。上流階級であればより良い、できる限り優秀な血統の相手を伴侶に選び、跡継ぎを設ける事が求められている。そんな昔からの決まり事に、似通っているように感じられた。
この家の子息、クロードのように領主の跡継ぎとしてちゃんとした子供がいる一方で、グレイセルのような病弱な失敗作も世の中には存在している。
アスティンの話の通り珍しい、美しいと珍重される花がある一方で、美しい庭園には不必要な部分として、こうして空地の穴に捨てられる分があるのだ。もし自分がこの流れの中に置き替えられたとしたら。
「……さ、坊ちゃんも」
「どうして?」
「私の仕事の、決まり事ですからね」
庭師が、教会でやるような丁寧な祈りを穴の底に捧げた。グレイセルもそれ以上は追求せずに、アスティンの仕事の欠かせない礼儀の一つだろうと黙って真似をした。
「この家の主人一家は、純粋に咲いた花を楽しんでくれますからね。花も枝も育って、美しく咲いた甲斐があったでしょうねえ」
グレイセルの心中をどこか見透かしたように、アスティンがしみじみと呟いた。祈りを終えて、彼は明るく笑って見せた。
「さっきの品種改良の話、目の色を変えてやる連中のおかげでまあ、発展して美しい花ができたのは認めるとして。やり過ぎで気が狂った奴がいくらでもいますからね。ほどほどにして、咲いた花を綺麗だって言ってくれる人と楽しむのが一番賢いのですよ、坊ちゃん」
「……そうなんだ」
アスティンはそんな事を言いながらも、その珍しい花の種や苗が金貨何枚という高額で取引される市場があるとか、色々と夢のある話をしてくれた。後で考えてもかなりの知識があったから、もしかしたらアスティンの前の主人辺りが、熱心な愛好家だったのかもしれないと思った。
「……アスティンは詳しいな」
「アスティンはすごい庭師なんだぞ」
「坊ちゃん、お願いですからほどほどにして下さいよ。クロード様も決して真に受けないように」
グレイセルと庭師が戻って来ると、裏口から登場したのはクロードである。今日もさっきまで響いていた、まだまだ練習中の演奏はいつの間にか止んでいた。
クロードは手に焼き菓子の並んだ皿を抱えていて、手を洗って来いと言うので一旦回れ右をした後、グレイセルと庭師に一つずつ渡った。アスティンは丁寧にお礼を述べて、恭しく受け取った。
「うちの娘がね、絵本に出て来る青い薔薇の花畑を、お父さん庭師なんだから、って小さい頃に駄々を捏ねられましてね、それだけは無理だって宥めたんですよ」
途中からは記憶の中の、まだ幼かった娘の様子を思い出して、庭師は懐かしそうに、自分が手入れの一部を担っている子爵邸の敷地を眺めた。
赤やピンクに、白や黄色、それからオレンジ。既に広く認知されている色であれば、庭一杯に植えてやったのに、と続けた。
「それが、できなくはない。一時期流行ったんだが知らないか、『青い薔薇』」
先ほどまでの庭師の話と食い違う発言である。グレイセルはアスティンと顔を見合わせた。クロードはその反応に気をよくしたのか、もったいぶった口調で話を続けた。
「……自然界にはないから、薔薇の愛好家がこぞって創ろうと苦心しているが、未だに成功した報告はない。花言葉は『不可能』と言われるほど。……アスティンには鼻で笑われるかもしれないが」
存在しないのに花言葉はあるというのはなかなか興味深い話ではあったが、本題はそこではないらしく、クロードの話は続く。
「青色のインクを吸わせるんだ、花瓶の水に混ぜて。そうすると花が吸い上げて、白い花びらを染めるってカラクリらしい」
「……そんなの許されるの?」
「どっちかって言えば、手品みたいですねえ、……なるほど」
グレイセルは呆れてしまった。青い薔薇を創るために試行錯誤して果たせなかった人たちが聞いたら、青いインクの入った花瓶をひっくり返して大暴れするだろう。インチキしやがって、と。横のアスティンは真面目な表情で頷いて、主人の前で鼻で笑うような事はしなかった。内心はどう考えているかはともかくとして。
グレイセルはその後、夕食が終わって自室に戻り、クロードをチェスでこてんぱんに打ちのめした時も、青い薔薇の話をずっと一人で考えていた。それは数日間、ベッドで寝ている時も食事の時も続いた。
「青と言えば……。空か海?」
腕のいい庭師を父に持つ娘は、どんな気持ちで薔薇を見たいと頼んだのだろう。神様は青い薔薇を作らなかったのに。
しかし人間の側は諦めていない。多くの資金や時間をつぎ込みながらも、夢を果たせなかった人達がたくさんいる事。不可能、なんて皮肉な花言葉になったのは、神様だけが許された庭園の奥でしか、空と同じ色の薔薇が咲かないからだ。
青いインクの花をインチキだと笑いながら、本気で作り出そうとしている、自分こそはと思う愛好家が数多くいる事について、延々と考え込んだ。
子爵領という新しい環境にやって来たグレイセルの中で、本人も意識しないうちに、他の人間とは少し違う才能が、少しずつ形になり始めていた。
「あいつが? 様子が変?」
クロードところに、使用人の一人である庭師のアスティンが、何か彼の気に障るような事を言ってしまったかもしれない、と相談しにやって来た。今までみたいにあれこれと質問をしに来るのがぴたりと止まり、最近はめっきり話し掛けて来なくなったらしい。
あの居候が変わっているのは今に始まった事ではない、とクロードは取り成したけれど、庭師は釈然としない様子だった。
最近変わった事と言えば、あの病人は眼鏡を作った。あれだけ注意したのに、暗い所で本を読むのはやめなかったせいで本当に目が悪くなってしまったのである。本人は大して気にもしていない様子だったが。
「それは一体、何をしているんだ?」
クロードがグレイセルを探し出した時、彼は手元の小さなガラス瓶に、銀に輝く滴を集めていた。何を目的としているのかさっぱりである。水は井戸から汲んで来た新鮮なのを飲むべきだ。流れの無い場所の水は淀んで緑色の藻が湧くか、腐るかしてしまうだろう。飲むつもりかと尋ねたが、彼は眼鏡越しに、こちらを見定めているようにしばらく逡巡していた。
「じゃあ、クロードには教える。青を集めているんだよ」
「……?」
クロードは父に、感情だけで判断するのは控えるように忠告されていた。以前にグレイセルにも、意外と気持ちで動く性分だね、とさらりと言われたのも面白くない。
「……水は透明な物だろう?」
「よく見てよ、青じゃないか。青を集めているんだから当たり前だけどさ」
彼はクロードの理解できない発言を繰り返した。あの奇妙な眼鏡のレンズ越しは、全く違う色彩に見えていると言わんばかりだ。彼は眼鏡の奥で、目を輝かせて小瓶の中身を眺めた。ここへ来たばかりの頃の、遠慮ばかりで子供らしからぬ受け答えとは違っていた。
「アスティンが、最近静かで不気味だって心配していたぞ」
「アスティンさん? ああ、ちょっと内緒にして後でびっくりさせようと思ってて。後で話をしてくるよ、ごめんね」
誰か大人に相談するべきか。迷った末に、クロードはとりあえず友達が何をする気なのかを見届ける事に決めた。危険な真似をしないかだけを注意深く見張って、後は黙って彼のやる事を見守る事にしたのである。
「大体、何時だと思っているんだ、今」
「……夢中で気が付かなかった」
現在朝の五時、薄暗い中にちらりと覗いた水たまりには薄い氷が張っている。これは子爵領においては、一番寒い時期に見られる現象だった。雪に埋もれるような他の場所に比べれば、というのはわかっているけれど、それでも寒いものは寒い。
「まあ、こんなところかな。一回試してみて、そうしたら厨房に何かもらいに行こうよ」
彼はガラス瓶をゆっくり振りながら、集めた液体をしばらく無言で眺めた。何かを注意深く確かめているようにも見えた。
花壇のところまで歩いて行って、ポケットから黒くて小さな粒を一つ取りだした。小石か、植物の種のように見えた。それを摘んで土だけが入っている植木鉢に置いて、小瓶を傾けて中身を少し掛けた。クロードには、土だけがむき出しの植木鉢の中に、水が吸い込まれただけのように見えた。
しびれを切らし、一体何のつもりなのかを尋ねようとして、ぱきん、と何かがひび割れるような音が聞こえた。黒い粒があるだけの植木鉢には、少しぎざぎざとした形の葉が唐突に、むき出しの土に何枚も現れたのが見えた。
数か月分の変化を早回しにしているみたいに株を形成し、茎が伸びた先に小さな蕾が膨らみ、小さな薔薇の花がいくつも開いた。それも、空のように淡い水色で。
「……うそだ」
「どう? 感想聞かせて」
この友達に手品の嗜みはない。あればとっくに自慢して来ただろう。魔法なんて、絵本の中の世界にしか存在していないはずだ。しかしグレイセルはクロードの呆然とした呟きなんて聞こえていないみたいに、どこか達成感に満ちたような表情のまま、指先で薔薇の葉を撫でるように触った。
もしクロードがここで、こんなわけのわからない事を、と植木鉢を蹴飛ばすくらいの事をすれば、後には何も生み出されなかった。実際、彼の実両親だったら同じような事をした。時代が違えば異常者として教会に担ぎ込まれて、矯正されていたかもしれない。
「……悪いが、僕の今の知識では何も言えない。……花はすごく綺麗だと思うんだが、それにちゃんと青色だし。でもこれどうするんだ、誰かに見せるのか?」
「……いや、誰にも。特に、アスティンさんには内緒にしておいて。一番良いタイミングを見計らって、びっくりさせてやるのさ」
内緒でよろしく、と頼まれては、クロードに反論の余地はなかった。当時はまだ子供で、彼を理路整然と糾弾するだけの知識も理屈もなかった。
ただ、空の色を映して咲く小さな花は、神様の庭に入る事を特別に許されたような、不思議な高揚感を二人に与えた。




