第3夜
地上から遙か遠く、高い高い塔の上。びゅうびゅうと吹き荒ぶ吹雪の音を聞きながら、僕は目の前に横たわる少年を必死に揺り起こそうとしていた。
「起きろよ……なあ……」
彼は僕の声に、ぴくりとも応えなかった。僕はいよいよ不安になって彼の頬をぺちぺちと叩いた。それでも彼は起きない。うつ伏せの体を仰向けにひっくり返して、僕は全力の大声で叫んだ。
「起きろぉ!」
彼の体が僅かに動いて、また弛緩した。ふざけんな、と僕は悪態をつく。そうでもしないと泣いてしまいそうだった。
彼の様子がおかしくなっていたのは、言い渡された一週間の休暇が明けた後だった。目立った外傷こそないものの、目は虚ろで酷く痩せ、明らかに衰弱していた。それから、眠っている時間が異様に長い。日が傾き始めた頃に眠り、起きるのは日が天頂近くなってから。起きているときですらぼんやりとしていて、僕が話しかけても輪郭のぼやけた曖昧な返事しか返ってこないことばかりだった。食事の量も極端に減り、一口も食べない日が長く続いた。
僕はこのことを即刻上官に報告した。僕の仕事は彼の監視だ。監視対象に異常があればすぐさま知らせるのも仕事の内だ。しかし、上官が言ったのは一言だけだった。「問題ない」。それだけだった。まるで、今の彼は衰弱している状態が自然なあるべき姿であるとでも言いたげな返答に、僕は途方に暮れた。
それでも仕事は放棄しなかった。友達に死んで欲しくなくて。友達を助けたくて。
膝を抱えて座り込み、何時間経っただろうか。日も沈みかけるような時間帯に、彼はうっすらと瞼を開けた。瞳にうっすらと光が入り、左右を見回し、再び閉じられる。僕は慌てた。
「待て待て、寝るな。起きろ」
「なにぃ? うるさいなあ」
「うるさくない! どんだけ寝たと思ってるんだ。いい加減一旦起きろ。飯を食え」
「……ご飯……」
「そう」
食事の入ったバケットを掲げ、彼の視界に入れる。彼はゆっくりとした動きで瞼を開け、それから申し訳なさそうに笑った。
「ごめん……眠くて食べられない、食べてる間に寝る……」
彼の声がぼやけていく。えもいわれぬ恐怖に襲われて、僕は静かに半狂乱になった。彼はもう丸一日以上水以外口にしていない。こんなのは、おかしい。このままではだめなのに。寝転がった彼の肩を掴んで、僕は喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
「だめだ! 起きて食え! 途中で寝たら水掛けて起こすから! いいから食べろよぉ!」
彼が驚いたように僕のことを見つめる。きょとんとした顔が衰弱する前の彼を思い起こさせて、気が付けば僕はぼろぼろ泣いていた。骨ばった彼の体にしがみついて、必死に哀願する。
「食べなきゃ死んじゃうよ……」
僕の頭に手が伸びてきて、ぎこちない仕草で撫でていく。顔を上げると、彼が困ったような、喜んでいるような不思議な表情で僕を見ていた。一つ首を傾げて、小さく「ごめん」と呟く。
「わかった。食べる」
ずるずると体を起こして、彼は這い登るように椅子に座った。よかった、本当によかったと僕は胸をなでおろした。彼の頭は右へ左へと重たげに揺れていたけれど、冷たい水を飲ませるといくぶんかしゃっきりしたようだった。水を掛けてでも食べさせるとは言ったけれど、できればそんなことはしたくない。今は冬だ、ただでさえ弱っている彼が風邪をひく可能性を作りたくなかった。
「はい、どうぞ」
「うん……」
さじを持つ彼の手つきはひどく覚束ない。それが、余計に僕の不安をかき立てた。
「……どうしたんだよ。最近明らかに様子がおかしい。お前を連れてきた隊長に聞いても『問題ない』としか言わないし」
「ああ……あの人はそう言うだろうね」
「最初、僕はお前が隊長の隠し子なんだと思ってた」
「あはは。まあ、そう思っても無理ないよな」
「でも違うんだろ」
「まあね」
「隊長はお前のことを特別な存在だって言ってた」
「希望的観測って奴だよ」
「なあ。お前、なんでこんな所に閉じ込められてるんだ?」
ハッ、と彼が笑った。目を閉じて、抱えた膝に額を押しつけている。やっぱり訊かない方がよかったかもしれない。質問を取り消そうと思ったその瞬間、彼の昏くて赤い瞳が僕のことをばちんと射貫いた。
「君と同じ理由だよ」
「……」
「冗談」
寒々しく笑い、彼はスープを口に運ぶ。以前彼が見せていた愛嬌や少年らしさはすっかり消え去り、代わりに自分の身を守るためのとげのようなものが見え始めていた。彼に起きた変化の理由も、今の彼にどう向き合えばいいのかも、僕には全くわからない。たぶん、彼の身に何か良くないことが起きているのだ。どうしたらいいんだろう。今の僕にはなにも出来ない。無力感ばかりが僕の体を駆け巡る。どうしたらいいんだろう。どうしたらいいんだろう。お手洗いに行く振りをして、僕は部屋の外で静かに泣いた。それでも助けたいのだ。友達だから。友達が苦しんでいるなら、力になりたいのだ。




